ハリネズミの蒸しパン。
「本当のお母さんが作ったんじゃなかけん、食べられんと?」
「違う……」
泣いてはならない。私はじっと、まち針の刺さった蒸しパンを見つめた。
頭のてっぺんに、路代さんの呼吸を感じる。見上げたらきっと、薄化粧の奇麗な路代さんの顔がある。
その美しさが、怖い。張り付いた笑顔が、怖い。きっと、私は悲鳴を堪えられないだろう。
「ただいまー」
その時、玄関先で祖母の声がした。
「お祖母ちゃんが、帰って来た……」
ちっ、路代さんは舌打ちをして、蒸しパンを掴み、ポリバケツの中へ投げ込んだ。
「あら、ここにおったとね。あーた、疲れたー」
「お義母さん。お茶どうぞ」
「はい、ありがと」
すとん。また、路代さんから、何かが落ちた。すとん、と、本当に綺麗に。
祖母の肩を揉みながら、時々微かに聞こえる耳を祖母の口元に寄せて微笑む。祖母は満足気に目を閉じて、溜息を吐いた。あー、気持良かー、と。
私は思わず両目をこする。
あの、路代さんの狂気は、夢だったのだろうか。
夕飯を済ませて、皆で枇杷の実を食べながらテレビを観る。私達はコメディドラマに笑い、その声に祖父が本から顔を上げる。そんないつもと同じ夜だった。
――だから、あの路代さんのおかしな行動は、夢だったのだ。そう、思い込もうとした。
しかし深夜。皆が寝静まってから、私はこっそり台所に忍んで行った。ゆっくりと、ポリバケツの蓋を上げると、やはり、あの蒸しパンがあった。人参の皮にまみれて、ハリネズミ蒸しパンはあった。
夢では、なかった。
あの日から、路代さんの行動はどこかチグハグと奇妙で、おかしくなった。
最初の数回は、祖母も冗談のように笑っていた。
が、その内に、その一つ一つを見付ける度に、顰めっ面で責め立てた。一つ、祖母が路代さんを責めれば、彼女の中の何かが一つ壊れて、そしてどんどん壊れて行くのが私には分かった。しかし、家族の中でそのことに気付いているのは、私一人。祖母が路代さんに辛く当たるのは、祖父や父が留守の時に限られていたから、誰にも庇って貰えない路代さんはどんどん不安定になっていった。
そしてまた、路代さんは身籠もった。今度は女の子だと分かった祖母は、あからさまに嫌な顔をした。
それでも子ができれば夫婦の絆が強くなるだろう、二番目の妻のように逃げないだろうと安堵した様子だった。
私は、複雑だった。
妹が、できる。
正直、嬉しくなかった。
路代さんはお腹が膨らむごとに、穏やかになっていった。子供が彼女の中の邪気を、罪を、浄化している。今考えればそうだったのかもしれない。
お腹に片手を当てて、よいしょ、と腰を上げる。その後ろから私が支えると、路代さんは心底嬉しそうに笑った。
「お腹に触ってみる?」
「うん」
路代さんんが私の手を下腹部に持って行くと、何かとんがった箇所に触れた。
「え、何これ?」
「赤ちゃんの足よ」
「足!?」
私は恐怖に引きつった顔で、そこから手を放した。尖った腹部が、私の掌でもごもごと動いたのだ。
「まぁ、どぎゃんしたと?」
私は路代さんの耳朶に口を近づけて、はっきり言った。
「き も ち わ る い」
「何でね?」
心配そうに私の顔を覗き込む。だって……、貴女のお腹の中に人間がいる。
「この赤ちゃんは、清佳ちゃんの妹やけんね。可愛がってね」
う、うん。微妙な笑顔で、頷いた。
路代さんは、私の傍から片時も離れず、過剰な迄に世話を焼いた。清佳ちゃん、清佳ちゃん、と、姿が見えないと、まるで子猫を探す母猫のように、みゃーみゃーと家中を探し回った。
「過保護すぎるんじゃないか」
あの祖父が、やんわりと注意する程だ。路代さんは路代さんなりに、私に気を遣っていたのだと思う。子供が生まれることで、私が疎外感を感じているのではないか?そう思わせている自分が、祖父母や父からどう思われるのか?そこが、不安だったのではないだろか?
あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。
中学校に上がって、初めての中間試験の前日だった。私は遅くまで勉強をしていて、家族は全員眠っていた。路代さんを除いては。
その地方で「流し」と呼ばれる梅雨が近付いて来ていて、とにかく蒸し暑かった。網戸を辛うじて潜って来る風は生暖かく、私は冷たい物でも飲もうと台所へ向かった。
私の部屋は一番奥にあり、台所へ向かうには玄関を通らなければならなかった。長い廊下をひたひたと歩いていると、街灯がついた玄関先の磨り硝子越しに二つの影が見えた。
一人は、下腹部が異常に膨らんでいる。路代さんだと直ぐに分かった。では、もう一人は誰なのだろうか?耳を澄ますと、二人の押し殺した声が聞こえた。
「そぎゃん言うても、私に自由になるお金なんて、少ししかなかとよ」
「なら、壺でも、宝石でも、持ち出して来いよ、俺が売りさばいてやるから」
「そぎゃんこと。いつもお義母さんと一緒やっとに、そぎゃんことでけんよ」
「じゃ、俺を中に手引きしろよ、金目の物を盗んでやる」
「もう少し待って、こん子が生まれるまで何もせんで。大人しくしとって」
「何の為に、お前をここに嫁がせたかわかんないだろ」
「ごめんなさい、兄さん」
兄さん?私は結婚式のことを思い出した。路代さんの親族の中に、兄と名乗る、ヤクザ風の男がいた。土地の訛りがなく標準語で話すその兄を、訝しがる人もいた程だ。
「女だってな」
男の陰が、路代さんの突き出た腹を撫でるのが見えた。
「はい」
そこで、男が路代さんを抱きしめた。
「やめて」
ガラス越しでも、路代さんが抵抗しているのが分かった。父を呼びに行こうか、それとも
、祖父が良いか。考えた末に、私は大声を上げた。
「路代さん!どぎゃんしたと?なんばしよっと?」
弾かれたように男が路代さんから離れて、去っていくのが砂利の音で分かった。私は裸足で玄関先に飛び出して、引き戸を乱暴に開ける。
「清佳ちゃん……」
「お兄さんが、来とったと?」
「う、うん」
弱々しく頷く路代さんの顔が緊張で強ばるのと、私の背中に祖母の鋭い声が突き刺さるのは同時だった。
「路代さん!なんね、ぎゃん夜中に?」
一番起きて来て欲しくなかった祖母が、玄関先で仁王立ちになっていた。
「お義母さん、すみません」
「お兄さんは、慌てて帰っていきなったと?」
「は、はい」
祖母の声を聞きつけて、祖父と父も起きて来た。
「路代、お兄さんが来とったとか?何で、上がって貰わんやったとや?」
「そう、言うたとばってん」
「結婚してからお前の親族は誰も訪ねて来んし、電話すらなか。来ても、ぎゃんして帰ってしまう。何でやろうか」
恐らく父は、単純な疑問を口にしただけだろうが、路代さんは小さくなって小刻みに震えていた。
「帰ってしまわれたのは仕方がない。路代さん、さ、もう寝なさい」
祖父がそう言って、路代さんが一歩、足を前に踏み出した瞬間だった。私には何が起こったのか分からなかった。
「あら、破水した!」
「破水?」
路代さんの足の間から、何かが流れ出た。あの時の私はその意味を知らなかった。しかし、父は慌てているし、祖父が救急車を呼んだ所をみると、大変な状態なのだと感じた。
「清佳、手伝って!」
私は祖母と一緒に路代さんの両脇を抱えて居間まで連れて行き、ゆっくりと体を横たえた。
「お義母さん、私まだ七ヶ月やっとに。まだ七ヶ月やっとに……」
祖母はそんな路代さんの手を取り、大丈夫、大丈夫、と繰り返し唱える。父は、祖父が東京出張に使う大きなトランクに、路代さんの荷物をありったけ詰め込んでいた。何も知らない私だったが、どうやら、子供が生まれるらしい。
しかも臨月を待たずに。




