15-2 潮騒のキヲク
♢♢♢
今から、二十五年前──
ブルーノはまだ、現役の漁師だった。
今でこそ小さな船で魚を捕って暮らしているが、当時は数人の仲間たちと大きな船で、毎日のように漁に出ていた。
若くして妻に先立たれ、子どももなかったため、ブルーノにとっては漁こそが生き甲斐、人生の全てだった。
その日も、ブルーノは夜明け前から海に出ていた。
船の上で仕掛け網を引きながら、若い漁師に檄を飛ばす。いつもと変わらない仕事風景……の、はずだった。
しかし、
「……ん?」
引き上げている網に違和感を覚え、ブルーノは顔をしかめる。
いつもと手応えが……重みが、違う。
そしてその違和感の正体は、すぐに明らかになった。
「う、うわぁ! なんだこりゃ?!」
ブルーノの横で、若い漁師が情けない声を上げる。
網の底にかかっていたもの。それは……
海より深い青色をした、巨大な生物だった。
全長は三メートルほどか。丸々とした胴体に、ボートのオールのようなヒレ。先の尖った、大きな口。そして……くりくりとつぶらな黒い瞳。
ブルーノは、「はぁ」とため息をつく。
「……イシャナの子どもか。まったく、こんな網にひっかかりおって」
「へぇーこれが……俺、生きてるヤツ初めて見ました」
若い漁師が、身を乗り出してまじまじと眺める。
最近漁師になったばかり彼が珍しがるのも無理はなかった。イシャナの漁獲量は、年々減少傾向にあったのだから。
その原因は……
「……また、密漁者だな。大方、母ちゃんと引き離されてここへ迷い込んだのだろう」
ブルーノは、網の中でバシャバシャと暴れるイシャナの子を見下ろす。
その身体には……複数の傷があった。
彼ら漁師にとって、イシャナは神聖な魚だった。
成長すると二十メートルにもなるその魚は、一頭から多くの食肉が取れることから古来より"海の神が使わした聖獣"として崇められ、決められた数・決められた漁師しか捕獲することを許されていなかった。
個体数を減らさないようにするため、幼いイシャナが網にかかっても海に帰すことが鉄則である。だから、このような傷をつけるとしたら……この頃横行している密漁者の仕業に違いなかった。
「このまま網に穴開けられたら敵わねぇ。さっさと海に帰んな、坊や」
一緒にかかっていた小魚が流れてしまうのは惜しいが……ブルーノは仲間たちに指示し、イシャナの子を逃がしてやった。
……しかし、その翌日。
「ブルーノさん……あれ……」
夜が開けた頃。若い漁師が漁船のすぐ下を指さし、ブルーノを呼んだ。
少し震えたその声を不審に思いながら、ブルーノが真下を覗き込むと、
「……あぁ? こいつぁ……」
昨日網にかかった、あのイシャナの子がいた。傷の位置が同じなので間違いない。波間からまぁるい頭をひょこっと覗かせ、船に寄り添うようにしてぷかぷか浮いていた。
「この船を母ちゃんか何かと勘違いしているんすかね……?」
「……フンッ。イシャナは賢い魚だ。大方、エサを分けてもらえると思って来たんだろう」
ブルーノは面倒くさそうな顔をしつつも、その日捕れた魚を十匹ほど海に投げ込んでやる。
すると子イシャナは、嬉しそうにそれを食べた。
「おお、食べてる食べてる。はは、可愛いなぁ」
「馬鹿言うな。愛着なんか持つモンじゃない。追っ払うために、腹を満たしてやっただけじゃ」
ブルーノはぶっきら棒に言うと、イシャナの子から逃げるように、港へ向けて船を動かした。
……さらに、その翌日。
「……ブルーノさん、また……」
若い漁師が、苦笑いしながらブルーノを呼ぶ。
見れば、あのイシャナの子がまた、船に寄り添うようにして浮かんでいたのだ。
はぁ……どうしたものか、と息を吐くブルーノの横で、若い漁師が、
「ブルーノさん。俺、考えたんすけど」
「何をじゃ」
「『シュプーフ』、ってどうっすか?」
「……どう、って何が」
「名前ですよ、コイツの。いつまでもアレとかソレじゃあ可哀想じゃないですか」
「だから! 愛着心を持つなと言うとろうが!! 下手に人間に懐けば、コイツが苦労することになるんだぞ?!」
そう。一時的な愛着心で世話をすれば、このイシャナの子は人間に頼ることを覚えてしまう。
そうすれば、厳しい自然界の中で生き抜く術を身につけないまま大人になり……結果的に、弱者として淘汰されることになるのだ。
それだけじゃない。人間への警戒心が薄れれば、それこそ密漁者の格好の餌食となる。
「でもぉ……最初に餌付けしたの、ブルーノさんっすよ?」
ギクッ。
痛いところを突かれ、ブルーノは口を閉ざす。
……まぁいい。無視し続ければ、その内どこかへ行くだろう。
ブルーノはそう結論付け、イシャナの子を一瞥してから、港へ戻るべく操舵室へと向かった。
……しかし、そんなブルーノの予想は見事に外れた。
それからもイシャナの子は、毎日毎日懲りずに、ブルーノたちの漁船へ寄って来たのだ。
そして……一週間も経ったある日。
「あれ? シュプーフ、何やってんだ?」
名付け親である若い漁師が、声を上げた。船引き網で魚を捕っている最中のことである。
いつものように、あのイシャナの子が現れたかと思うと……網の周りで、バシャバシャと波を立てながら泳ぎ始めたのだ。
「なんじゃありゃ。網にじゃれ付いているのか?」
ブルーノが顔をしかめるが……すぐに、その目が見開かれる。
あの動き、まさか……
「魚を……網の中へ、追い込んでいる……?」
他の漁師たちもそれに気付き、目を見張る。イシャナの子に追いやられた小魚たちが、次々に網の中へと入っていくのだ。
やがて船を停めると……網の中には、いつもより随分と多くの魚がかかっていた。
自らの貢献を誇示するように、イシャナの子は「キュウキュウ」と鳴きながら船の脇をくるくると回る。
「すげぇ! やるじゃねぇか、シュプーフ!!」
若い漁師が興奮気味に言う横で。
儂らの漁を見て、やり方を学んだのか。
だとしたら……なかなか利口な坊やじゃねぇか。
と。
ブルーノは思わず、口元を緩ませるのだった。
──この日を境に、シュプーフと名付けられたイシャナは、ブルーノたちの漁船とすっかり行動を共にするようになった。
通常、イシャナは親離れするのに一年ほどかかる。
シュプーフは、大きさから見てまだ生後半年ほど。漁についてくる中で魚の追い方を覚えるのであれば、シュプーフのためにもなる。こうして親代わりでいるのも、悪くないかもしれない……
などと、ブルーノは考え始めていた。
……否。本当は。
若い漁師にあんなことを言ったくせに、彼自身が誰よりもシュプーフに愛着を持ってしまったのだ。
子どものいないブルーノにとって、無邪気にすり寄ってくるシュプーフは……
いつの間にか、可愛い我が子のような存在になっていた。
* * * *
事が起こったのは、それから一ヶ月後。
ブルーノが、いつものように仲間たちやシュプーフと一緒に漁をしていた時のこと……
──ゴゥッッ!!
突如、ブルーノたちの漁船を、猛烈な風が襲った。
その日の天候は穏やかで、波も高くはなく、すぐに荒れるような気配もなかった。
だから、突然局地的に吹き荒れたその風が、どこか不自然に思えた。
ブルーノたちが、風の吹いて来た方角を不思議そうに眺めていると……
漁船の横で浮いていたシュプーフが、突然「キュウ!」と鳴いて、風上の方へ猛スピードで泳ぎ始めた。
「お、おいシュプーフ! どこへ行く?!」
ブルーノたちは慌てて船を走らせ、シュプーフを追いかける。
すると、水平線の向こうに一隻の船が見えてきた。ブルーノたちの漁船よりも大きい、立派な船だ。それが、もの凄い速さで東の方角に進んでいる。
そして……その船の前方に、大きな飛沫が上がった。あれは……
「……イシャナだ。イシャナが狩られている!!」
そう。その船は、逃げ惑うイシャナを執拗に追い回していたのだ。既に攻撃を受けたのか、イシャナが泳いだ後には赤い血が滲んでいる。
恐らくシュプーフは、仲間の危険を察知し、助けるために来たのだろう。
ブルーノの頭には、イリオンでイシャナ漁の許可を得ている船の特徴が一通り入っているが……目の前を進むその船は、見たことのないものだった。
となると……やはり、密漁者か。
ブルーノは舵を切り、イシャナを追う船の行く手を阻むように自身の漁船を滑り込ませる。
「そこまでじゃ! 許可なき者のイシャナ漁は禁じられている!! 船を停め、投降しろ!!」
ブルーノが叫ぶ。すると、その船は徐々にスピードを緩め……
ブルーノたちの船に接触するギリギリで、停止した。
一体どんな奴らが乗っているのか……ブルーノたちが息を飲んで見上げていると、
「──うるせぇな。誰に向かって指図してんだよ」
声と共に、ブルーノたちを見下ろすように現れたのは……密漁者にしては、随分と身なりの良い男だった。
年は、三十代半ばくらいだろうか。一つに結わえた紺青の長髪が特徴的な、痩せ気味の男だ。
そして……その瘦せぎすな身体に似合わない程、長大な両刃の剣を手にしていた。
男は、ブルーノたちを見下ろしながら剣を肩に担ぐと、
「ここは……この俺、セオドア様の狩り場だ。何をどうしようが、俺様の勝手だろう?」
不敵に笑いながら、そう言った。
ブルーノの回想編、もう1話だけ続きます。