駄目な口
○
寝てるしっ!
貴恵は、病室に戻るなり引っ繰り返りそうになった。
すやすやと寝息を立てている大樹を、複雑な顔で見下ろした。
まったく、どれだけ大物なんだか。
隣は、ちょうど刑事が帰るところのようで。
彼の安眠を妨げるものは、これでなくなりそうだ。
いや。
存在そのものが、安眠妨害が隣にいるはずなのに。
なんだか。
本当に、親などどうでもいいことだと思っているのだろうか。
つん。
貴恵は、困った少年の頬をつついた。
「あの…」
そんな彼女の心臓が、飛び跳ねた。
カーテンの向こうから、呼びかけられたのだ。
あ、あたし、よ、ね?
思わずキョロキョロしながら、貴恵は挙動不審になった。
「は、はい?」
大樹のおとーさんと、私、話をしてるっ?
その事実に、上ずりそうになる声をおさえる。
「スミマセン…看護婦さん、どうやって呼びますか?」
そういえば刺されていて、動けないのか。
貴恵は、勇気を持ってカーテンの向こう側へ行った。
「ベッドサイドの、そこのボタンを」
見ると、ボタンがベッドの下に落ちていた。
おかーさん。
母の作業のすばらしさに、苦い笑みがわきそうだ。
貴恵は、近づいてボタンを拾って手渡した。
「どうぞ」
初めて、しっかりと顔を見た。
細い目なのは、眼鏡をかけていないせいか。
枕元に置いてある。
おさまりの悪い、くせっ毛の髪。
バリバリのエリートには、全然見えないやぼったさ。
眼鏡をかけると、確かに似ているかもしれない。
だが、それ以上に。
「ありがとう…」
あ。
少しだけ余韻のある――大樹とよく似た、ありがとうだった。
※
「まだ、部分麻酔切れてませんから、動くのはだめです」
やってきた貴恵の母は、あっさりと彼の要望を却下した。
移動のための、車椅子を所望したのだ。
「弁護士の手配の電話をしたいんです。すぐ終わりますから」
弁護士。
大樹の母と、裁判沙汰になるのだろうか。
すぐに、その職種が出てくるところが、やはりアメリカ人だ。
「あと二時間待ってください」
敬語だが、母はにべもなく断った。
「待てません。既に彼女は取り調べ中です、早急に弁護士が必要です」
ほやっとしたおじさんかと思いきや、主張はしっかりとしている。
ああ。
大樹の母に、弁護士が必要だと言うのか。
刺された側が、用意しようなんて――奇妙な話だ。
ふーっと、母がため息をついた。
「病院のPHSを持ってきますから、待っていて下さい」
ついに、母が折れた。
ある意味、彼は一番いい看護婦を呼んだ。
加害者と、その息子を知る母は、彼の意図を汲んだのである。
隣のやりとりの決着に、貴恵はほっとしながら、大樹へと目を落とした。
さすがに、母の声に反応したのか、うすーく目を開けている。
「だい…」
呼び掛けようとしたら、大樹が人差し指を唇にあてて、貴恵の声を止める。
隣に名前を知られるのが、いやなのだろうか。
いい人そうなのに。
彼なら、大樹が息子であると知ったら、きっと喜んでくれそうなのに。
いまからだって、愛してくれるのに。
カーテンにさえぎられて、まだ顔も合わせていないなんて。
貴恵の中では、断固親子和解説が浮上しているが、実の子にしてみれば、やっぱり複雑すぎるのか。
ぐるぐる考えが暴走している貴恵に、大樹が小さく苦笑した。
唇が、ゆっくりと音を立てず動く。
マ、ダ、イ、イ、ヨ。
そんな大樹が、貴恵には憎らしい意地っぱりに見えた。
こんな、駄目な口!
貴恵は、頬をふくらませながら、身を屈めて――病人の唇を奪った。
フンッ!