神様は優しくない
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貴恵が、お手洗いに立っている間に、大樹の隣の患者が入ってきたようだ。
警察官の姿も見える。
ヤーさんとかじゃないといいな。
刺された人らしいから、貴恵はその心配をした。
まだ、貴恵親子はヤクザの家に、お世話になっている。
アーシャ側が落ち着いたのなら、そろそろ帰れそうだ。
そんなざわつく廊下を通って、部屋に戻ろうとしたら。
美津子が、廊下の向こうから手招きをしている。
警察官がいるから、近寄れないのだろうか。
呼ばれるままに、母の方へ向かうと。
猛烈な力で腕を捕まれ、物陰に引きずり込まれた。
「やばいのと相部屋にしちまった」
しくじった、という声。
やっぱり、ヤーさんなのだろうか。
貴恵の、そんな推理は――外れ果てた。
「刺された方はいいんだ…問題は、刺した方」
母が、息を詰める。
異様なマジ顔に、貴恵もゴクリと息を飲んだ。
「……大樹の…かあちゃんだ」
カチカチカチ。
貴恵の頭の中の何かが、時を刻み始める。
組み立てられていく、パーツ。
まさか。
シニア・セラが意識をよぎる。
まさか、まさか。
刻み始めたのは――大樹が止めていた時間なのか。
※
「母さん…もしかしたら、それ…」
貴恵は、刺した大樹の母にショックは受けていなかった。
逆に、彼女が刺すほどの相手が、一人しか思い浮かばなかったのだ。
「それ…大樹のお父さんかも」
まったく、見当はずれかもしれない。
しかし、可能性はある。
「ええっ? そらないだろ、見た目日本人ぽいが、書類はガイジンだぞ」
貴恵は、母の言葉に目眩を覚えた。
「母さん…ほぼ間違いないわ」
美津子の言葉が、それを確定に限りなく近くしてしまった。
「マジかよ」
母は、にがーい顔でつぶやいた。
「大樹は、今夜は泊まりの手続き終わっちまってるしなあ…白髪のおっちゃんに、一応ナシ通しとくか」
頭をばりばりかかながら、美津子は処遇に困っているようだった。
大樹は。
貴恵は、廊下を振り返っていた。
大樹は、どうしたいだろうか。
カーテンひとつ隔てた隣に、父親かもしれない人がいる。
さっき、父親の話をした時、大樹はどうでもいいことのように言った。
しかし、貴恵だって微かに自分の父親を気にしているのだ。
大樹だって、本当は――
「まだ…話すなよ」
美津子に釘を刺される。
刺された人間の息子だと分かると、大樹が警察にいろいろ聞かれてしまうだろう。
父親に会うという混乱さえ、ゆっくり噛み締められない。
「おっかさんが、人を刺したわけだから…どっちにせよ、大樹も事情を聞かれるな」
しかし、それはこの病院ではないはずだと、美津子は言う。
大樹の素性は、ここでは違う書類で通っているからだ。
いま弱っている大樹には、どっちの話も聞かせられそうにない。
どうも神様とやらは――大樹に平穏を与えてはくれないようだった。