愛憎の副産物
○
「はじめまして」
差し出される手を、貴恵はほっとしながら握り返した。
彼は、生粋の日本人だったのだ。
ということは、お母さんがアジア系外国人なのか。
「突然、ぶしつけにすみません」
貴恵は、恐縮しながら席を勧めた。
50前くらいだろうか。
しかし、さわやかさをイメージした服装と髪型で、微妙に年が読みづらい。
「じゃあ、オレは向こうの席にいますんで」
チーフが、貴恵の借りたアルバムを全部抱えて、席を移動していった。
「椿姫、なんて懐かしい言葉を、誰から聞いたのかな?」
その後ろ姿を見送っていた貴恵に、不思議そうに問い掛けられる。
「あ、息子さんからです。あなたのアルバムが混じってて、そこに彼女の写真があったので」
彼女が、お隣さんであることを話したら。
「いまもまだ、あのクラシカルなアパートに住んでいるのかな?」
と、言うではないか。
クラシカル=いわゆる、ボロなアパート。
間違いなく、貴恵の住んでいるあそこ以外に考えられない。
「ええと、はい、まだそこです」
しかし、シニアの口調が、あまりにしみじみとしているように感じたので、貴恵は戸惑う。
アパートが、どうしたというのだろう。
「じゃあ…彼は、今も帰らないのか」
窓の外へ泳ぐ視線。
だっ、誰!?
貴恵は、つい身を乗り出しそうになって、あわてて自制した。
シニアの言う『彼』こそ、大樹の父ではないのか。
貴恵は、自分を落ち着かせるために、深呼吸した。
「その『彼』が誰なのか、教えていただけませんか?」
はやる唇が、声を転ばそうとする。
シニアは、窓から貴恵へ視線を移した。
「そんなことを聞いて…どうするのかね」
疑念を、大人の柔和さでコーティングして出される。
単なる隣人の好奇ではないことを、彼に伝えなければならないのだ。
「彼女には、息子が一人います…」
そう――切り出した。
貴恵が知るのは、その息子視点の彼女だけ。
目の前の美容師は、一体どんな真実を見たのだろうか。
※
「なるほど。君はその息子のために、父親のことを知りたい、と言うのだね」
かいつまんで、隣人の家庭の事情を話すと、シニアは「ふーむ」と考え込んだ。
「しかし、残念ながら、父親のことは詳しくは知らないんだよ…私は」
事情を話したというのに、彼の返事はつれないものだった。
「ただ、アメリカ国籍の日系人だと、彼女は言ってたよ」
しかし、断片的な情報は出された。
「仕事でアメリカに急遽、帰らなければならなくなったらしく、身重の彼女は再来日をずっと待っていた」
私が知っているのは、それくらいだ。
そして、彼は日本には戻ってこなかった、と。
貴恵は、頭の中で大体の流れを把握した。
「あのアパートに住み続けているのは、彼があの住所しか知らないからだよ…引っ越してしまったら、本当にもう会えないだろう?」
ええと。
大人の事情を把握しきるには、貴恵にはまだ経験値が足りない。
「それって、まだ彼を愛していて、待ち続けてるってことですか?」
とりあえず、薄っぺらな推理だけはしてみる。
「さて、どうだろう。待っていることは確かだが、いまもそれが愛なのかは、本人にしかわからないな」
シニアは、難しい表現をした。
「愛じゃなくても、待てるものですか?」
おそるおそる、質問してみる。
シニアは、困ったような笑みを浮かべた。
「そうだね…同じくらい憎んでいても、待てるだろうね」
痛い――言葉。
貴恵の辞書には、まだない世界。
「どちらにせよ、彼が現れるのを待ち続けていた。それが叶わないから、息子に怒りの矛先が向いたのだろう」
ぼさぼさの髪、汚れたままの服。
貴恵の記憶の中の、一番古い大樹が、頭をよぎる。
それが、帰らない男への愛憎の副産物だと――そう、シニアは言うのだ。