有象無象の中で
耳元にあったと思ったシリルの顔が、移動していた。
彼の顔がかなり近いと思った。
思っていたまさにその時、シリルの手が、顎をクイッと持ち上げていた。
そう思った次の瞬間に。
「え」
心の中で驚き、慌てて目を閉じる頃には、もう終わっている。
何事もなかったようにぎゅっと抱きしめられ、「では出発します」というシリルの声が聞こえていた。
素早く愛馬にまたがるシリルの動きは、ただそれだけで素敵に見える。
ピンと伸びた背筋に、彼の体幹の良さが感じられた。
少し頬を上気させたシリルの瞳と目が合う。
ぽーっと呆けたような顔をしていた。
シアが耳元で「オデット様、しっかりなさってください」と囁く。
そこで皆がシリルに手を振っていることに気づき、慌てて、私も手を振る。
シリルがこの時に見せた微笑みは……。
なんて秀麗なのだろう!
体と馬の向きを変え、その微笑みが見えなくなるのが残念でならない。
その後ろ姿が見えなくなるまで、手を振り、見送った。
「さあ、オデット様。腹が減っては軍は出来ぬですわ。待つ方もね、戦いなんですよ。自分との戦い。不安と戦うにはエネルギーを使いますから。ストレスをためないためにも、朝食を食べましょう!」
モンド公爵夫人にそう言われ「は、はいっ!」と返事をした私は、彼女について屋敷の中へ戻った。
◇
朝食をモンド公爵夫妻と食べている間は、目の前の出来事に全力投球だ。
特に緊張する必要もないと思いつつ、出された朝食を口に運び、夫妻と会話していた。
そこはやはり魔族と人間。住む国が違っていたのだ。
さらに私がどんな食べ物を好み、どんな趣味を持つのか知りたかったのだろう。
暗黒の国アビサリーヌでの生活について聞かれた。
どんな食べ物があるのか、どのような文化があるのか、など。
おかげで会話は盛り上がり、沈黙で重苦しい……なんてことはなかった。
その朝食が終わると、モンド公爵夫人の案内で、私の部屋へと案内してもらえた。
日当たりのいいその部屋は、調度品から壁に飾られている絵、カーテンの色一つとっても、私の好みに合致している。シアとペルに部屋を整えさせると言っていただけある……と思ったのだけど。
「こちらがオデット様のお部屋よ。シリルがね、王都に戻る前から何通も手紙をよこしてきたの。大切な女性を迎えることになるから、この部屋をあけてくれ、調度品を新品に変えてくれ、こんな絵を飾ってほしい……もう大変でしたのよ」
義理の母となった公爵夫人の言葉に驚く。
「……! お義母様、待ってください。そんな前からシリルは指示を……?」
「え、もっと昔からよ」
これには衝撃を受けるしかない。
どういうことかと尋ねると……。
「あれは初めて魔王討伐のために、アビサリーヌ国へ向かった時のことよ。心配だったから、時間があったら手紙を送りなさいと、しつこくシリルにお願いしていたの。そうしたら定期的にちゃんと手紙を送ってくれて、その中でね『運命の女性を見つけました。いつか彼女を自分の伴侶に迎えます』なんておませなことが書いてあったの。騎士になりたての十五歳の時よ。ビックリしちゃったわ。その時からずっとよ。オデット様。あなたにシリルは会いたくて、会いたくて、頑張っていたようよ」
それは……知らなかった!
いや、でも待って。
シリルが私に対し「どうやらオデットは何も覚えていないようだし」という言葉を言っていた気がする。
うん。言っていた。
その後、届いた花をシアとペルが運んでくれて、そちらに気を取られ、なんのことか尋ねずに終わっていたが……。
指摘の通り私は、何も覚えていない。
だがシリルと私は……、彼が十五歳の時に、会ったことがあった。
シリルは現在、二十一歳。
六年前のことだ。
私は申し訳ないが、覚えていなかった。
あの黄金の髪と美しい瞳。
見たら覚えていると思うのだけど……。
だが戦場には何万もの兵がいる。
しかも当時十五歳のシリルは間違いなく、まだモブのような存在。
有象無象の中で埋もれていては、いくらシリルと言えど、分からない。
その一方で私も。
女魔王であることが分からないように。
男装姿で私は、戦場に出ることが多かった。
しかし鋭いシリルのことだ。
私が男装している女であると、見抜いたのだろう。
とはいえそれで一目惚れするとは……。
シリルはもしかすると、かなり特殊な性癖を持つのだろうか?
男装の麗人好き……?
とにかくシリルと話したいことができた。
帰還したら、教えてもらわないと。
そう。
シリルには、生きてちゃんと戻って来てもらわないと困る!
「また昼食に近い時間になったら、声をかけるわ。まずはこのお部屋、そしてお庭を見てみてね」
モンド公爵夫人に言われ、「ありがとうございます」と御礼を言い、部屋を出て行くのを見送る。
その後は、シアとペルが部屋について、いろいろ教えてくれた。
例えば暖炉には魔法がかかっており、簡単に火がつくこと。
バスルームはシリルの部屋と同じで、入浴魔法がかかっていること。
部屋の明かりも、魔法で暗くなれば、自動的に明かりが灯るなどなどだ。
「魔族が使う魔術と違い、魔法使いの魔法は便利ですよね。定期的に魔法のメンテンナンスは必要なようですが、メイドや侍女の仕事が、うんと減ることになります」
シアの言葉には「そうだな」と感心するしかない。ではエルエニア王国のすべての住人が、この魔法を享受できているのかというと、そういうわけではなかった。ペルによるとモンド公爵家であり、シリルだからこそ、この魔法の恩恵を受けることができているというのだ。
でもそれはそうだろう。
シリルはこの国の英雄なのだ。これまでの数々の功績から得た利便性だと思う。でもそれをほぼ実感する暇もなく、討伐に明け暮れ……。そして今も。カイテリアのせいで、ヴィレンドレーへ向かうことになった。
早く、平和になってほしい……なんて願う日がくるなんて。
だが今は心から、シリルが討伐に向かわないで済む日が来ることを願っていた。
「ではお部屋の説明はこれぐらいで。お庭もバラの生垣までが、こちらの部屋の専用庭になっています。ちゃんと小さな噴水もあるんですよ」
そうなのだ。
猫の額ほどの庭……などではなく、前世の郊外の一戸建てに付随するような庭がちゃんとあり、そこは美しいバラが咲き誇り、小ぶりの大理石で出来た噴水もあったのだ。そばにはベンチもあり、日光浴を楽しみながら、噴水を眺めたり、薔薇を眺めたり、読書をしたり、刺繍を楽しんだりもできるだろう。
「昼食までまだ三時間程あります。本棚には沢山の本もありますし、チェストには刺繍の道具や毛糸もありました。絵画を描くための道具も揃っています。少しお昼寝されてもいいでしょうし、ご自由にお過ごしいただいて構わないですよ。もしくは公爵邸内をご案内しますか? 厩舎もあり、乗馬の練習場もあります。温室もありますし、広々とした庭園もあり、迷路もあるんですよ」
今のペルの説明で、公爵邸がいかに広大であるかが伝わってくる。
おいおいその見学をしてもいいが、朝から気が張り詰めていた。
少し、休憩したいと思っていたのだ。
そこで青の塔からレオンを間違いなく連れてきて欲しいことを頼み、二人には部屋から退出してもらい、私は休むことにした。
「「では昼食になりましたら、またお声を掛けます!」」
すっかり公爵邸に慣れているシアとペルが部屋を出て行き、私は寝室へ向かう。
寝室は、私の瞳の色に合わせてくれたようだ。ルビー色の絨毯、彩度の低い落ち着いたワイン色で、天蓋ベッドのリネン類が統一されていた。ベッドカーテンは金のフリンジで飾られ、重厚感もある。
そのベッドに大の字で倒れた私は、さっきのシリルとのキスを、思い出していた。























































