背中を押す雨
「もう梅雨入りしたんでしょうか?」
桜井結衣が、使用済み器具を乗せたステンレストレイを片付けながら訊く。2日続きの雨は、新規患者数を少なくしていた。
「少し早いけど、今日はもういいよ」
凌はそう言って、助手の結衣と茜、受付の杏胡に片付けを言い渡した。
「気をつけて帰るように」
と3人を送り出すと、凌は休憩室の冷蔵庫から缶ビールを出した。今日は少し疲れた。雨音をBGMに、ちょっと飲んでから帰ろう。自炊が決して負担ではない凌だったが、今日は久しぶりに外食しようと決めた。さて、何を食べようか。
クリニックの入口の鍵をかけ、3階から階段で降りる。エレベータはあるが、凌はいつもそれを使わない。12階まであるビルのエレベータは、往々にして待っているより階段の方が早いのだ。
傘をさして通りに出る。駅に続く大通りへ曲がったところで、凌は数メートル先をふらふら歩いている杏胡を見つけた。凌より30分以上も前に帰ったはずだ。何をしてるんだ、アイツは。
小走りに近づいて、「杏胡」と声をかける。
ちょっと驚いた顔が振り返った。
「先生」
何度、先生と呼ばなくていいといっても、杏胡はそう呼ぶ。
「だって、みんなそう呼んでるし。一人だけ先生って呼ばないのは、かえって変でしょ?」
「院長でいいよ」
「一人しかいないのに?」
そう言われてしまうと、あえてスタッフみんなに「院長」と呼べとは凌の性格からして言えない。
「大丈夫なのか?」
「何が?」
杏胡は笑って言った。
「訊かないんだね、先生は」
「杏胡が話したいなら、訊くよ」
「別に」
それに関する会話は大概、そんな感じで途切れてしまう。
雨足が急に強くなった。
「随分、先に帰ったはずだろ。何してたんだ?」
傘をさした杏胡を、大通り沿いの店の軒下に引き入れながら、凌は訊いた。
「お腹すいちゃって」
「どこか寄ってたのか?」
「寄ろうと思ったんだけど、お金がなくて」
「ウチのバイト代は、そんなに安いのか?」
杏胡がぺろ、と舌を出す。
「ごめんなさい、ウソ」
「じゃあ、どうしたんだ」
「金曜日だから」
「うん?」
「たぶん、家にはあの人が来てる」
「あの人?」
「うん。先生」
「先生?誰の?」
「あたしの担任で、お母さんの愛人」
愛人という言葉に、凌はまじまじと杏胡を見た。背のだいぶ高い凌を見上げる杏胡は、あの公園に棲む捨て猫のようだ。
「杏胡、オムライスは好きか?」
「え?」
「僕、得意なんだ」