言葉による自傷行為
かさり。
紙袋を開ける音に反応したのは、3匹の猫たちの方だった。この公園の猫たちは比較的、人に慣れている。おそらく生来の野良猫ではなく、捨て猫なのだろう。食べ物を持っている人間には、遠巻きに様子を伺いながらもやがて近づいてくる。
「おじさん、何かくれない?」
ぶっきらぼうにそう言ったのは、もちろん猫たちではない。
おじさん?
凌は心の中で苦笑した。そうか、僕はこの年代の女の子から見れば、もうおじさんなのか。
「君が、何かあげればいいだろ」
凌は、視線で売店の方を指した。
「お金持ってないの、今日は」
そう答える女の子の足元を、凌は無遠慮に見た。
「そうだ。靴も履いてなかったんだ。今日は」
「いつもは、履いてるの?」
「当たり前じゃない」
女の子が近づいてくる。
凌はポケットに手を入れ、小銭を探した。
「いつもは、猫たちは何を好んで食べるの?」
女の子が笑った。幼さが増す笑顔だった。
「好みなんか、わかんないよ。もらったものを食べるだけ。だってこの仔たち、そうやって生きてきたんだもの」
凌の心の中で、何かがざわりと動いた。
「そうか。好むと好まざるに関わらず、そうやって生きてきたのか」
凌は、女の子の方に小銭を乗せた手を差し出した。
「君の好きなものを、買ってあげるといい」
広げた凌の手から、女の子は100円玉を数個拾った。
「ありがと」
靴を履かない足のまま売店に駆け出した女の子は、袋菓子を買って戻ってきた。そして再び、凌の傍に来ると右手を差し出した。
「これ、お釣り」
「いいよ」
「よくない」
凌は、黙って返されたお金を受け取った。
女の子は菓子の袋を開けると、すぐに猫たちに囲まれた。猫たちには菓子を与えるのに、自分は一口も食べようとしないその姿を眺めていた凌は、思わずこう声をかけた。
「ねえ。君はお腹すいてないの?」
もう、正午はかなり回っている。女の子が照れたように笑う。
「あ、忘れてた」
「パン、食べる?」
思わず、凌はそう訊ねていた。
再び売店に行って買ってきたお茶を飲みながら、彼女は凌が差し出したバケットサンドを頬張っている。
「おいしい。これ、おじさんがつくったの?」
「君、高校生?名前は?」
「うん。杏胡」
「おじさんは、一ノ瀬って言うんだ」
「そう。何してる人?」
「歯医者さん」
大きな口を開けてバゲットに噛みついていた杏胡の動きが、一瞬止まった。やがて、もぐもぐもぐと口の中のバゲットとクリームチーズを食道へ押しやったようだ。
「そう。おじさんも先生なんだ」
も?
そのたった一文字に込められた意味を訊ねようとして、凌は息を飲んだ。杏胡の瞳が漆黒の闇のように、暗く沈んだからだ。
あはははは。突然、杏胡が笑い出した。
「先生、せんせい、センセイ。この世の中に、先生って呼ばれる人はどれくらいいるんだろう。ねぇ、先生。先生っていう職業の人は、センセイって呼ばれるの嬉しい?」
「先生は職業じゃない、少なくとも僕の場合は」
注意深く、杏胡の目の奥を伺いながら、凌はそう答えた。なのに杏胡は、靴を履いていない足のままベンチから立ち上がり、踊るようにくるくる廻る。
「センセイ、センセイ、センセイ。あはははは」
足、痛いだろ?
そう訊こうとして、凌はやめた。痛いのは、足ではないだろう。いま杏胡の心が血を流している。それがどれほどの傷なのか、まだわからない。しかし、これだけは確実な気がした。
「センセイ」は杏胡の言葉による自傷行為なのだ。




