雨上がりの猫
鉢植えのベンジャミンの葉に、スプレーで水をかけながら桜井結衣が明るい笑顔で振り向いた。
「院長、あ、先生、おはようございます」
岸田院長の2週間後の〈栄転〉は、すでにスタッフ全員の知るところだ。クリニック内の雰囲気が、以前と比べてはっきりわかるほど明るい。
凌の机がある休憩室を兼ねた6畳ほどの部屋に入ると早速、松下茜が淹れたてのコーヒーを持ってきた。
「近頃、サービスがいいね」
そう言う凌に、茜も曇のない笑顔を返す。
「あ、そうだ、先生。朝一番で、水上さんから電話がありましたよ」
「え?そう」
飲もうとしたコーヒーのカップを中途半端な空中で留めながら、凌は茜を見上げた。
「昨日の夜から、熱が下がらないそうです。今日はお休みをいただきたいって」
「風邪でも引いたのかな?」
「で、しょうね」
茜は発熱の原因を正したりしなかったらしい。まあ、大概の場合、風邪に相違はないだろうから。
今日は、午後になっても杏胡の顔を見ることはできない。そう思うと、よく晴れた初夏の一日の始まりが、徐ろに無意味に感じられた。
梅雨の季節を目前にした、ひとときの初々しい夏が凌は好きだ。雨上がりの公園で、ちょうど一年前、杏胡を拾ったのもこの季節ならではの悪戯だったに違いない。そうでなければ、捨て猫のように心細げな女子高生に関わることなど、凌の人生設計にはなかったことなのだ。
いや、もともと人生設計などありはしなかった。愛人である母によってもたらされた、おそらく他人の目から見れば恵まれた境遇に、ずっと居心地の悪さを感じながら生きてきた。借り物のような所在無さが、杏胡という魂と共鳴し合った理由なのだと思う。
快晴が続いたせいで、恵みの雨となった木曜日。その日、クリニックは定休日だった。
おそらく夜中から降り続いた雨が、昼前にあがった。凌は、ハーフサイズのバゲットの真ん中に切れ目を入れ、そこにバターを塗りつけるとオーブントースターに放り込んだ。冷蔵庫からパンチェッタとちりめんレタス、クリームチーズを取り出す。バゲットが焼きあがるのを待ちながら、ニンニクの皮を剥き、包丁で真ん中から斜めに切る。焼き上がったバゲットに、このニンニクの断面を擦りつけるのだ。
粗熱をとったバゲットを2つに切り、それぞれちりめんレタスを挟む。そして一方にはパンチェッタ、もう一方にはクリームチーズを挟んで出来上がりだ。
飲み物は公園の自販機で、冷えたやつを買おう。そう決めると、凌は紙袋に無造作に入れたバゲットサンドを持って、自転車にまたがった。
路面はまだ濡れているが、構やしない。公園につくのが早いか、初夏の陽射しが路を乾かすのが早いか競争だ。子供じみたそんな思いつきすら、凌の気持ちを浮き立たせた。
公園のベンチは、すっかり乾いていた。自転車を傍らに置き、ベンチに座ると、途中で買った500mlのスポーツドリンクのキャップを開けた。軽く汗ばんだ躰の細胞に、少し塩気のある液体が染み渡っていく。
「ふぅ~」
と思わず声を上げて(これじゃ、まるでオヤジだな)と独り照れた凌は周りを伺った。
その視線の先に、髪の長い女の子が後ろ向きでしゃがみこんでいた。白いシャツにグリーンのチェックのスカートは、おそらく制服だろう。公園を棲処とする猫たちと遊ぶその後ろ姿に、凌はなにか違和感を覚えた。違和感の理由はすぐにわかった。その女の子は、紺色のハイソックスは履いていたが、靴を履いていなかったのである。




