不協和音
「なんで、あんな子供が凌のクリニックで働いているの?」
小川夏菜は、終わったあとの気怠さを全身から漂わせながら訊ねた。
「高校生でしょ?」
「不登校児だよ」
一ノ瀬凌は、幼さの中に暗く妖しい光をたたえた杏胡の双眸を思い浮かべながら答えた。
「ああ見えて17歳なんだ」
「へぇ」
夏菜の「へぇ」から読み取れたのは、杏胡の実年齢への関心よりも、軽い苛立ちだった。
「それより」
凌は、裸のまま乱れたベッドの上で仰向けになっている夏菜の28歳の肉体から毛布を剥ぎ取った。
「ん~ん」
夏菜の表情が、早くも受け入れ態勢になっている。
『松園デンタルクリニック』のピンク色のユニフォームがまるでコスプレのように見える杏胡の姿を思い浮かべながら、凌は夏菜の首筋に再び舌を這わせた。
「ベッドの中では文句や正論を言う女より、快楽の喘ぎ声をあげる女のほうが上等だ」
と言ったのは、『松園デンタルクリニック』の実質オーナーである松園豪一郎だ。凌を認知した実の父であり、母の幸枝は豪一郎の永きに亘る愛人だった。九州で名士として知られる豪一郎の存在がなくては、凌は東京の私大の歯学部に通い、歯科医の資格を取ることなどできはしなかった。ましてや32歳という若さで、都内にクリニックを開業することなど夢のまた夢だったろう。
『松園デンタルクリニック』は開業2年目、当初は岸田翠という40代後半の女医が院長として迎え入れられた。キャリアと技術は十分であったが、要領の悪い歯科助手に手厳しいという難点があった。そのために現代っ娘である助手たちの入れ替わりが激しく、唯一、一年以上続いているのがキャリア6年という松下茜だった。この茜と、3ヶ月前に入った桜井結衣が歯科助手。
受付は二人の子供の母である木下容子、その木下が早めに上がる午後の補助要員として採用されたのが、水上杏胡であった。
この杏胡に対する岸田の虐めとも思える態度が、事勿れ主義の凌をして、クリニックにおける鬱屈した不協和音をオーナーである豪一郎に遂に報告させる要因となった。
「遅すぎるくらいだ」
そう豪一郎は言った。
「でも」
凌は言い淀んだ。
「お前が気にしているのは、岸田院長の処遇か」
その通りだった。恩師である岸田教授の手前、波風は当然避けたかった。
「岸田翠には、VIP連中の奥方が主な顧客に名を連ねているクリニックを紹介するつもりだ」
豪一郎は愉快そうに続けた。
「彼女の自尊心はそれで満足するはずだ。が、しかし。そこに通う奥様連中は、岸田翠など比較にならないほどのプライドの塊だ。まあ、結果は数ヵ月後、推して知るべしだな」
守りたかった杏胡の存在は、当然だが、豪一郎には告げなかった。杏胡は、自分を取り巻く全ての人間関係、力関係とは無関係なのだ。そうあるべきなのだ。




