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触れるもの全てを凍らせる氷の令嬢は「私から逃げることなんてできない」と限界まで王子に溶かされる

作者: しのギドラ
掲載日:2026/06/25

 王立の、貴族だけが籍を置く学園。

 そこには多種多様な才能を秘めた子息や令嬢が集っていた。


 私、伯爵令嬢ラヴィニアも、その箱庭に身を置く一人だ。


 しかし、私の周囲には温かい人の輪など存在しない。


(どうしよう……私が声をかけたら迷惑よね……)


 私は自身の手に視線を落とした。

 ぴったりと肌に張り付いた、手首まで覆われている黒い手袋がはめられている。


 私の属性は『氷』だ。

 それも、他を圧倒するほどの強大な魔力を宿している。

 実力主義の風潮があるこの学園において、本来ならば羨望の眼差しを集める立場にあるはずだった。


「あの……」


 前方を歩いていた令嬢の背中に、ためらいながらそっと声をかける。

 びくり、と彼女の肩が大きく跳ね上がり、怯えた顔でこちらを振り返った。


「ペンを落とされましたよ」


 廊下に落ちていた万年筆を拾い上げ、差し出す。

 すると、令嬢は引きつった表情のまま首を激しく横に振り、そのまま数歩後退りした。


「い、いらないです……! 捨てておいてくださいっ」


 悲鳴に近い声を残し、彼女は制服のスカートをひるがえして廊下の向こうへ駆け去ってしまった。


「あ……」


 伸ばしかけた私の手は虚空をさまよい、力なく元の位置に下ろす。


(怖いわよね……私の手なんて……)


 布地に包まれた自らの両手を見つめ、小さくため息をこぼした。


 規格外の氷の魔力。

 それは、私自身の手で制御しきれない脅威でもあった。

 素手で触れれば最後、相手の肌を一瞬で凍傷に陥らせるほどの冷気が吹き荒れてしまう。


 その事実が知れ渡ってから、誰も私の手を取ろうとはしなくなった。

 言葉を交わすことすら、彼らにとっては恐怖なのだ。

 華やかな社交の場であるはずの学園で、私はひどく浮いており、静まり返った孤独の中にいた。


(当然だわ。一生消えない傷を負うかもしれないのに、近づく物好きなんていない)


 この『魔封じの手袋』をはめていれば、布越しに触れてのなら何の問題もない。

 頭では理解していても、恐怖はぬぐえないのだろう。


 今日も私は、誰も触れられない氷の檻の中で、一人きりで過ごしている。


「どうしたんだい?」


 不意に、背後から声をかけられた。


「え!?」


 久しく人から言葉を向けられていなかったせいか、ひどく間の抜けた声が出てしまう。

 慌てて振り返ると、そこには窓外の光を浴びて、透き通るような白金の髪をきらめかせる青年が立っていた。


「ディ、ディアス殿下……!」


 この国の第二王子、ディアス殿下。

 晴れ渡る空をそのまま映したような青い瞳が、穏やかにこちらを見つめている。


「ペンを拾ったところを見ていたよ。もしよければ、私の方から彼女に届けておこうか?」


「え……そ、そんな、殿下のお手を煩わせるわけには……」


「構わないさ。ほら、渡してごらん」


「は、はい……」


 うながされるまま万年筆を差し出そうとして、私ははっと我に返る。

 この黒い手袋に包まれた私の手は、学園内では悪名高い。

 きっとディアス殿下も、触れるのを躊躇われるに違いない。


 しかし、彼は少しのよどみもなく、そのペンを受け取った。


「え……?」


 指先がほんのわずかにかすめた。

 布地をすり抜けて、驚くほど強い温もりが伝わってくる。


「君の名前は?」


「伯爵家の娘、ラヴィニアと申します……」


「私は——知っているかもしれないけれど、ディアスだ。ラヴィニア、このあと何か予定はあるかい?」


「ありませんけれども……?」


 ディアス殿下は、春の陽だまりのように、ふわりと柔らかく微笑んだ。


「ちょうど良かった。生徒会の書類整理が終わらなくてね。手伝ってくれる人を探していたんだ」


「え!? そんな、私のような者がご助力できることなど……」


「私は君に頼みたいんだ。……だめかな?」


 少し困ったように眉を下げ、ディアス殿下が私の顔を覗き込んでくる。

 王族にそんな表情で見つめられては、拒めるはずもない。


「は、はい……分かりました……」


 戸惑いながらもうなずくと、彼は私の手をためらいなく取った。


「……!」


 あまりの衝撃に、全身が凍りついたように動かなくなる。

 誰かにこんな風に手を握られるなんて、いつ以来のことだろう。


「ディアス殿下! 危ないです!」


「何がだい?」


「私は魔力の制御が満足にできなくて……触れた人を凍りつかせてしまうんです。もし、御身に何かあれば……!」


「……今こうして触れているけれど、特に何ともないようだよ?」


「手袋をしていれば大丈夫なはずですが、それでも万が一ということがあります……!」


 王子の手から逃れようと、私は身を引こうとした。

 しかし、彼はそれをさえぎるように、包み込む手にほんの少しだけ力を込める。


「大丈夫だよ。ほら、何も問題はない」


「う……あ……で、でも……」


 彼の大きな手のひらが、私の手を包み込んでいる。

 魔封じの手袋をしているはずなのに、内側からあふれる氷の魔力を溶かしてしまうほど、彼の手は熱を帯びていた。


「さあ、行こうか」


 ディアス殿下は、私の困惑を置き去りにするように、その手を引いて廊下を歩き始めた。



 重い木の扉を押し開き、ディアス殿下に導かれて生徒会室内に入室した。

 生徒会室内には人の気配がなかった。

 静まり返った部屋の中で、代わりに存在感を放っていたのは、ローテーブルや執務机の上にうず高く積まれた書類の山だ。


「この通り、今の生徒会は慢性的な人手不足でね。書類の整理がずっと後回しになっていたんだ。だから、ラヴィニアに力を貸してほしい」


「これほどまでとは……」


 私は驚きつつも、手近なローテーブルに歩み寄り、散らばる紙片にそっと目を通した。


「こちらは会計の報告書ですね。あちらは備品の管理許可証でしょうか……。年代や項目がバラバラになってしまっています」


「引き受けてもらえるかい? もちろん、負担になるなら遠慮なく断ってくれて構わない」


 私は思わず、ディアス殿下を見上げた。

 殿下は押し付けるような口調を一切せず、私の意志をいちばんに尊重して、選択の余地を与えてくれている。


(誰かに必要とされるなんて、いつ以来かしら……)


 胸の奥に小さな灯火が宿ったような心地。

 私は、小さく息を吸い込みながらディアス殿下に応えた。


「私でよろしければ。実家でも領地経営の書類整理をよく手伝っておりましたので、少しはお役に立てるかと思います」


 私の言葉を聞いた瞬間、ディアス殿下の表情がぱっと華やかに輝いた。


「ありがとう、ラヴィニア。骨を折らせてしまうけれど、よろしく頼むよ」


 嬉しそうに微笑みながら、ディアス殿下は自然な動作で、再び私の両手を優しく包み込んだ。


「は、はい……っ」


 冷え切った私の手に、彼の手から心地よい温もりがじわりと染み込んでいく。

 それと同時に、胸の奥がほんのりと高鳴るのを、私はそっと感じていた。


 その後、私は一心に書類の整理を進めていった。

 日付や項目ごとに分類し、誰が見ても分かりやすいようメモを見出しとして挟み、書類棚へと収めていく。


「ラヴィニアは本当に手際が良いな。みるみるうちに机の上が片付いていくよ」


「そ、そうでしょうか……。あの、他の生徒会の方々はいらっしゃらないのですか?」


「ああ。今は学園祭の準備期間だからね。皆、各方面の調整や見回りで出払っているんだ。生徒会室に戻る余裕もないのだろう」


「あ……そういえば、もうすぐ学園祭でしたね……」


「ラヴィニアのクラスは、どのような出し物をするんだい?」


「ええと……大きな絵画を、クラス全員で制作する予定です」


「それはきっと見事なものになるだろうね。君も何か描いているのかい?」


「いいえ……私が参加すると、どうしても周囲を怯えさせてしまいますから」


 初等部、中等部の頃から、お祭りの華やかな喧騒を避けるようにして、私はいつも隠れて過ごしてきた。

 良かれと思って手伝おうとしても、私の存在そのものが皆の動きを硬直させ、作業を遅らせてしまうだけだったから。

 高等部に上がった今年も、きっと同じように、一人きりで静かにやり過ごすのだろう。


「そうか……。それなら、学園祭の間、私の仕事を手伝ってはくれないだろうか?」


「……え!?」


「学園祭の期間中は、普段以上に書類が山積みになってしまうんだ。君が側にいてくれたら、とても心強いのだけれど……」


「……えっと……」


 思わぬ提案に、言葉に詰まってしまう。

 誰もが私を遠ざけようとするきらびやかなお祭りの最中、この方は私を必要としてくれている。

 その事実が、じわりと胸の奥を満たしていった。


「私などでお役に立てるのでしたら、ぜひ。……よろしくお願いいたします」


「それはこちらの台詞だよ。ありがとう、ラヴィニア。君が引き受けてくれて、本当に嬉しい」


 その日から、私とディアス殿下の不思議な日々が始まった。

 放課後の大半を、私は生徒会室で過ごすようになる。


「ラヴィニア、疲れたらすぐに言ってくれ。いつでも休憩して構わないからね」


「ありがとうございます。ですが、まだ大丈夫です」


書類整理に留まらず、まるで秘書のようにディアス殿下の補佐を務める時間。忙しくはあったけれど、誰かの役に立っているという実感は、私の寂しかった心を心地よく満たしてくれた。


「ラヴィニア、棚の上にある校庭の演目に関する許可申請書を取ってもらえるかい?」


「はい、ただいま」


(確か、上段のほうに収めたはず……)


 背伸びをして手を伸ばし、書類の束を引き抜いた。

 その瞬間、魔封じの手袋の滑らかな布地のせいで、書類が指先から滑り落ちてしまう。


「あ……!」


 ばらばらと、白い紙が一面に散らばった。


「ラヴィニア! 大丈夫かい!?」


「は、はい……! 申し訳ありません、すぐに片付けます!」


「気にしなくていい。私も手伝おう」


 ディアス殿下は私の方へと膝をつき、一緒に書類を拾い集めてくれた。

 その最中、一枚の用紙に伸ばした手が、互いに重なり合う。


「あ……も、申し訳ありません……!」


 内側に秘めた氷の魔力が、殿下を傷つけてしまうかもしれない。

 そう恐怖を抱き、慌てて手を引こうとした。

 けれど、殿下はその動きを押し留めるように、私の手をしっかりと包み込んだ。


「ラヴィニア、怯える必要はない。私は君の手を恐ろしいなどとは、これっぽっちも思っていないよ」


 殿下は私の冷たくなる心をほぐすように、どこまでもやわらかく微笑む。

 ずっと欲しかった言葉をくれるディアス殿下。

 しかし、その温かさを感じつつも、私は疑問を投げかけずにはいられなかった。


「殿下……でも、どうしてですか……? 私の手を怖がらない人など、今までいませんでした。どうして、そのようにお優しい言葉をかけてくださるのですか?」


「君の苦しみが、他人事とは思えないからだよ。……私もかつて、同じ道を歩んでいたからね」


「殿下も……?」


 誰もがうらやむ容姿と、太陽のような明るい優しさをもつ殿下。

 その輝かしい外見の裏に、私と同じ孤独があったというのか。

 暗闇の中でもがいていた私と、同じ景色を見ていた人がいる。

 その事実が、すぐには信じられなかった。


「私は生まれつき、強力な火の属性を宿していた。周囲は最初こそ、稀代の才能だと褒めそやしたけれど、幼い私にはその熱量を制御することなどできなかったんだ」


「あ……」


 あまりにも似ている。

 今の自分と重なる状況に、声が勝手にこぼれていた。


「何度も魔力を暴走させてしまい、危うく王宮の一画を焼き尽くすところだったこともあるんだよ」


 一瞬、殿下の声から明るさが消えた。

 それはほんのわずかな間だったけれど、苦しかった時間の重みを感じさせた。


「自分の力が恐ろしくて、自室に閉じこもっていた時期もあったよ。けれどある日、気がついたんだ。私が自分の力を拒絶し、恐れているからこそ、魔力も暴れてしまうのではないかとね」


 殿下はまるで遠い昔の自分に語りかけるように、ゆっくりと言葉を続けた。


「それからは、自分という存在を丸ごと受け入れるために努力を重ねた。次第に、心を通わせるようにして、火の魔力が私の身体に馴染んでいったんだ」


「心を……通わせる……」


「だからね、ラヴィニア。君もいつか、自分の魔力と心を通わせ、打ち解けられる日がきっと来る」


 私の凍りついた人生は、もう二度と温かさをもたないのだと思い込んでいた。

 けれど、彼が差し伸べてくれた言葉が、私の未来に小さ灯りをともしていく。


「本当に……そうでしょうか……」


「ああ。同じ苦難を味わい、乗り越えた私が言うのだから、間違いないよ」


「殿下……ありがとうございます……。私、あきらめずに励んでみます」


 手袋越しに伝わる、彼の手の温もり。

 その温かさに呼応するように、視界がじんわりと涙で潤んでいった。

 私は手袋に覆われた自身の手を見る。


(殿下が苦難を乗り越えられたように、私もいつか、この手袋を外せる日が来たら……)


 そんな未来を願うのなら、奇跡をただ待っているだけでは駄目だ。

 初めて胸に宿った前向きな衝動が、私の背中を小さく押してくれた。


「殿下……このようなお願いをするのは恐縮なのですが……ひとつお願いをしてもよろしいでしょうか?」


「もちろんだ。ラヴィニア」


「お時間があるときで構わないので……私の魔力制御の訓練を見て頂けないでしょうか?」


「そのような願いならいつでも力になる。何なら、今やってみよう」


「い、今ですか!?」


 殿下は私の手を引いて、執務机の上に飾られている花の前に私を導いた。


「魔力を制御しながら、この花を素手で持ってみよう」


「そんな……こんな綺麗なお花を凍らせてしまうなんて……」


「だが、練習相手には丁度良いと思わないかい? 最初のうちは、凍らせてしまうかもしれない。……けれど私もサポートするから、自分のペースで魔力と向き合ってみるんだ」


「ディアス殿下……」


 殿下の眼差しは、どこまでも温かく、私の戸惑いをすべて包み込んでくれるかのようだった。

 その瞳に勇気をもらい、私は意を決して震える拳を握りしめる。

 そして、私の人生において呪いと同義だった、滅多に外すことのない手袋を、片手だけゆっくりと引き抜いた。


「……っ」


 手袋を脱いだ途端、剥き出しになった肌から、刺すような冷気が吹き出す。

 周囲の空気すら凍結させてしまいそうな強大な魔力。

 少しでも意識を逸らせば、この部屋を冬の世界に変えてしまいそうな恐怖に、思わず身体が強張った。


「大丈夫、私がそばにいる」


 その恐怖を消し去ってくれるかのように、ディアス殿下は私のもう片方の、手袋をはめたままの手を強く握りしめてくれた。

 布地越しに流れ込んでくる熱はどこまでも頼もしい。

 彼が宿す火の属性ゆえの熱さだけではない。

 私の凍りついた心の芯までを溶かしていくような、慈しみに満ちた温もりだった。


(そうだ。今の私は、ひとりじゃない——!)


 ディアス殿下の手のぬくもりを心の支えにして、私は自分の内側で暴れ狂う冷たい魔力へ、祈るように語りかける。


(怖がるのではなく、受け入れる……)


 ディアス殿下の言葉を心の中で繰り返し、彼と出会えた奇跡を信じて、私はそっと花へと指先を伸ばした。


「……あ……!」


 指先が花弁に触れた。

 けれど、いつもなら一瞬で白く凍てつくはずの植物は、みずみずしい色彩を保ったままだ。

 目の前の光景が信じられず、歓喜と衝撃で言葉を失って呆然としてしまう。

 しかし、あまりの驚きにほんの少しだけ集中の糸が緩んだ瞬間、冷気が指先から漏れ出てしまった。

 花は一瞬にして寒気に当てられたかのように、首を下げてしおれてしまう。


「……う。やはり、そう簡単にはいきませんね……」


 花への申し訳なさと、自分自身への情けなさで胸が締め付けられる。

 私はしなびてしまった花を、静かに執務机の上へと置いた。


「一瞬だとしても、氷の魔力を抑え込めたのは素晴らしい兆しだよ。これを毎日積み重ねていけば、きっとその手袋を外せる日が来るはずだ」


「そう……かもしれませんね」


 うつむいていた顔を上げ、手袋をはめ直しながら殿下を見上げる。

 その青い瞳は、自分の事のように誇らしげに、優しく細められていた。

 その無条件の信頼の眼差しに、胸の奥が甘く跳ねる。


「少しだけでも、魔力制御できたのは多分殿下の……」


「ん?」


「いえ、その、何でもありません……!」


 言葉にしそうになった想いが急に気恥ずかしくなり、私は大慌てで口を噤んだ。

 自分の内に眠る冷気とは真逆の、じんわりとした熱が頬へと一気に昇っていく。

 それを殿下に見られないよう、私は冷える手袋を頬に当てた。



 翌日の放課後。

 私は、すっかり歩き慣れた生徒会室への廊下を進んでいた。


(ディアス殿下と過ごす毎日は、本当に温かくて、楽しい……)


 彼の穏やかな微笑みを思い出すだけで、胸の奥に灯火が消ったように熱くなる。

 それと同時に、トクン、と不自然なほど大きな鼓動が脈打った。


(だ、駄目よ、私ったら何を考えているの……! 殿下は誰に対しても等しくお優しいだけなのに!)


 慌ててぶんぶんと首を振り、胸の奥から湧き上がる不敬な想いを必死に打ち消す。

 その時、廊下の脇から伸びる薄暗い通路の奥から、苦々しい声が響いてきた。


「おい、またディアス殿下のせいで許可申請が書き直しだよ!」


 思わず、足がぴたりと止まる。

 物陰からそっと覗き込むと、二人の男子生徒が、忌々しげな表情で書類を睨みつけていた。


「まったく、あの人は手厳しすぎてやりにくい。第二王子の地位を盾にして、偉そうに指図しやがって」


「身分をひけらかして、本当にうっとうしいよな。王宮へのアピールか何か知らないが、いい迷惑だ」


(——違う)


 胸の奥から、拒絶の叫びがせり上がってくる。

 ディアス殿下は、意味のない嫌がらせなど決してなさらない。

 あの山のような書類の一枚一枚に目を通し、怪我の恐れがあるものや、安全性が保障されていないものには、必ず丁寧な注意事項を添えて差し戻されていた。

 誰よりも生徒たちの安全を願っているからこそ、厳しい注意につながっているだけだ。


「どうせ、第一王子の王位継承権でも狙っているんじゃないか? あの笑顔の裏には、きっと腹黒い陰謀でもあるんだろうよ」


 その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、私の身体は考えるよりも先に、通路の奥へと踏み出していた。

 自分のことなら、いくら蔑まれようと耐えられた。

 けれど、私に光をくれたあの人を罵倒されることだけは、どうしても許せなかった。


「ディアス殿下は、そのようなお方ではありません!」


 恐怖で足が震えていたけれど、お腹の底から声を絞り出す。


「な、なんだこいつ……」


「今仰ったことを、訂正してください……! ディアス殿下は、誰よりも誠実でお優しい人です。何も知らないのに、ひどいことを言わないで!」


 怒りで感情が高ぶるにつれ、視界の端で何かがきらきらと輝き始める。

 はっとした男子生徒が、私の手元を見て顔を引きつらせた。


「おい、こいつの手を見ろ……『氷の令嬢』だ!」


「ち、近寄るな、化け物!」


 頭が熱くなり、魔力の制御がおろそかになった。

 怒りに引きずられるようにして、足元から白く冷たい霧が立ち上る。

 廊下の石床が、パキパキと音を立てて白く凍りついていった。

 止めなきゃいけないのに、感情の嵐が吹き荒れて、力の抑え方が分からない。


「ラヴィニア!」


 視界が白く染まりかけたその時、背後から力強く抱きしめられた。


「落ち着くんだ。ゆっくり、深呼吸をして」


 それは、木々の葉を揺らす風のように、静かで澄み渡った声音だった。

 振り返らなくても、その腕の主が誰なのか魂が理解している。


「ディアス……殿下……っ」


「私の目を見て。もう大丈夫だからね」


 そっと身体の向きを変えられ、ディアス殿下を見上げる。

 そこには、いつも私を見守る深い青色の瞳があった。

 その目に見つめられていると、不思議なほどに胸の嵐が去り、暴走しかけていた冷気が収まっていく。


「ラヴィニア、気分は悪くないかい?」


「わ、私は、大丈夫です……」


「……それは良かった」


 ディアス殿下はホッとしたように息を吐くと、そのまま私を背に隠すようにして一歩前に出た。

 そして、いつもの柔らかな光を消し去った瞳で、先ほどから床に腰を抜かしている二人を冷たく見下ろす。


「ところで……君達。ラヴィニアに、一体何をしたのかな?」


 その声には、聞くものを震わす、圧倒的な王者の威圧感が宿っていた。


「っひ……!」


「な、なんでもありませんっ!」


 二人組は殿下の放つ気迫にたじろきながら、這うように廊下の向こうへと逃げ去っていった。

 その背中を見送り、ようやく緊張の糸が切れる。


「ありがとうございます、ディアス殿下……」


「ラヴィニア、無事で良かった」


 ディアス殿下は振り返ると同時に、私の冷え切った体をぎゅっと抱きしめた。


「で、殿下! は、離れてください……! 凍傷に……御身に怪我をさせてしまうかもしれません!」


「私に怪我なんてないよ。ほら、見てごらん」


 慌てる私をなだめるように、殿下は私の目の前にご自身の大きな手をかざしてみせた。


「しもやけ一つないだろう? 私が火属性だからというのもあるけれど、何よりラヴィニアが、最後にはきちんと魔力を抑え込めた証拠だよ。よく頑張ったね」


「でも、さっきは怒りのあまり暴走しかけてしまって……」


「……あいつらに、何かされたのかい?」


 ディアス殿下の声から、今まで感じられた温度が消え失せる。

 そのあまりの変わりように、私は小さな肩をびくりと震わせた。


「い、いえ、私は何も……」


「嘘をつかないでほしい」


 ディアス殿下はそっと私の身体を離すと、今度は両肩を優しくつかんで私と向き合った。


「君のように思慮深く優しい人が、理由もなくあそこまで激昂するはずがない。私は君を信頼しているんだ。何があったのか、教えてくれないかい?」


 どこまでも真摯な青い瞳に見つめられ、これ以上隠し通すことはできないと悟る。


「その……あの方達が、殿下の、その……陰口を言っていたのです。それを聞いていたら、どうしても許せなくて、頭に血がのぼってしまって……」


「私の?」


 一瞬、ディアス殿下はきょとんとした顔になる。

 それから、ひどくくすぐったそうに、嬉しさを隠しきれないといった様子で、おかしそうに微笑んだ。


「な、なぜ笑われるのですか……! 私、本当に悔しくて、嫌だったのです……っ」


「すまない、ラヴィニア。馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ……私のために、そこまで怒ってくれたことが嬉しくてね。やはり、君は私の思った通りの人だ。今まで出会った誰よりも、純粋で、美しい心を持っている」


 紡がれたその言葉に、私の心臓が跳ね上がる。

 心臓の鼓動が、うるさいほどに鳴り響いた。


「私、そこまで褒められるほどの者では……!」


「私は第二王子だからね。近づいてくるのは、私という肩書きを利用しようとする人間ばかりだった。正直に言えば、誰も信じられない時期すらあったんだ。けれど……」


 ディアス殿下はそこで言葉を区切り、愛おしそうな眼差しで私を見つめる。


「ラヴィニア、君の心の温かさは、私にとって太陽の光よりも心地いい。……これからも、ずっと私のそばにいてほしい」


 ディアス殿下の長い指先が、私の頬へと伸びていく。


「で、殿下! 肌に直に触れるのは危険です……っ!」


 私の静止の声に、今度はディアス殿下の方が、はっと我に返ったように動きを止めた。


「……すまない。あまりに愛らしくて、つい気やすく触れようとしてしまった。淑女に対して失礼だったね。今度はきちんと……」


「え……? あの……?」


「いや、何でもないよ。さあ、生徒会室に向かおうか」


 ディアス殿下は含みをもたすような言い方をしながら、優しい笑みを唇に浮かべると、私の手袋越しに手を引いて歩き出した。

 手のひらから伝わってくる確かなぬくもり。


(こんな気持ち抱いてはいけないのに……もう、この心臓を、想いを止められない……)


 自分の胸の中で大きく育ってしまった想い。

 それを誤魔化しきれなくなっていることに戸惑うばかりだった。



 そして迎えた、学園祭の前日。

 私は放課後の静寂が満ちる生徒会室で、再び花瓶の前に立っていた。

 そこには、あでやかな色をたたえた一輪の花が飾られている。


「では、いきます……」


 小さく息を吐き出し、私は左手の手袋をゆっくりと脱いだ。

 空気に触れた肌がかすかに震える。

 花へ指先を伸ばす前に、私はすがるような思いで、隣に立つディアス殿下を見上げた。

 目が合った瞬間、殿下は私の不安をすべて消し去るかのように、柔らかく微笑んでくれた。


 その笑顔から勇気をもらい、私はゆっくりと深呼吸をする。

 そして、ためらうことなく、素肌のまま、そっと花の茎を持ち上げる。


(大丈夫。私を認めて、包みこんでくれる人がいる。この温もりを、自分を、一緒に信じるの)


 内なる氷の魔力が、澄んだ水のようによどみなく流れていく。

 ——花は凍りつくことも、萎れることもなかった。

 本来の鮮やかな色彩を保ったまま、私の手の中で咲き誇っている。


「殿下……できました……! 私、やりました……っ」


「ああ、見ていたよ。見事に魔力を制御できている。本当に素晴らしい」


「ありがとうございます……! すべて、殿下のおかげです……」


 視界がにじみ、こぼれる涙が頬を伝ってとめどなく落ちた。

 長年私を縛り付けていた呪いから、ようやく解放されたのだと実感が湧き上がってくる。

 ディアス殿下は愛おしそうに目を細めると、その涙を温かい指先でそっとすくい上げてくださった。


「私のおかげではないさ。すべてラヴィニア、君のひたむきな努力の賜物だ。……もう、この手袋は必要ないね」


 ささやくような声と共に、殿下は私の右手に残っていたもう手袋も、優しく手首から引き抜いていく。


「ま、待ってください……まだ、少し怖くて……」


 完全に手袋を奪われ、むき出しになった両手に恐怖を覚える。

 その感情ごとを受け止めるように、ディアス殿下は迷うことなくその両手で私の手を握った。


「ラヴィニアの手に恐れることなど、何一つないよ。……やっと、君の肌に直接触れられた」


 肌と肌が直接触れ合う感触に、息が止まりそうになる。

 殿下の手は、驚くほど大きく、滑らかでありながらも、私をとらえて離さない男性らしい力強さに満ちていた。


「あの、殿下……大丈夫なのは分かっているのですが……その、そんなに触れられると……!」


「すまない。あまりに心地よくて、どうしても離しがたくてね……」


 殿下は困ったように眉を下げながらも、迷いを見せたのはその一瞬だけ。

 私の指の隙間に自身の指を滑り込ませると、そのまま離さないように絡め合わせた。


「……っ」


 恋人同士のような親密な仕草に、胸の奥が痛いほどに跳ねる。

 勘違いをしてはいけないと頭では分かっているのに、指先から伝わる甘い熱が、私の理性をどうしようもなく揺さぶった。


「あの……私のお手伝いは確か、学園祭の前まで、でしたよね……」


 自ら終わりの言葉を口にしながら、胸の奥がずきりと痛んだ。

 彼との特別な時間は期間限定のもの。

 明日はとうとう学園祭の本番であり、二人だけの放課後は実質今日で最後だ。


「私……ディアス殿下と出会えて、本当に良かったです。魔力を抑えられるようになったこともそうですが、おそばにいられた毎日が、ずっと夢のように楽しくて……。今まで、本当にありが——」


 最後の別れの言葉を紡ぎきる前に、視界が急転した。

 手を手繰り寄せられ、勢いよく引っ張られたかと思うと、私は殿下の胸の中へと抱きすくめられていた。

 優しく、それでいて逃すまいとするような強さで、腕がしっかりと回されている。


「ディアス殿下……!?」


「そのように……まるで二度と会えないかのような言葉を言わないでくれ」


 耳元で響いた声は、いつもの余裕を失って微かに震えていた。


「で、でも……私はもう、書類の整理も終わりましたし、お役に立てることは何も……」


「私が嫌なんだ。君と離れると思うだけで、胸が張り裂けそうになる」


「殿下……?」


「ラヴィニア。私は君のことが……一人の女性として、心から好きなんだ」


「え……!?」


 今、何と言われたのか。

 理解するより先に、頭の中が真っ白に染まっていった。


「最初は、自分と似た苦しみを持つ君の力になりたいという思いだったのかもしれない。だが、毎日を共に過ごすうちに、君のひたむきな強さや、どこまでも純粋な優しさに、どうしても目を離せなくなっていったんだ」


 殿下は腕の力を緩め、少し距離を取って私の顔を見つめた。

 その青い瞳には、隠しきれない真剣さが浮かんでいる。


「ラヴィニア……君の本当の気持ちを聞かせてほしい」


「わ、私は、周囲から忌み嫌われてきた伯爵家の娘です……! とても殿下のような高貴なお方と、釣り合いがとれるはずが……」


「身分の話をしているんじゃない。君自身の想いを聞かせてほしいんだ」


 その瞳から、目を逸らすことができなかった。

 ずっと胸の底に押し込めていた気持ちが、抑えきれずにあふれていく。


「……っ。わ、私は……私も、ディアス殿下のことを、お慕いしております……!」


「良かった……。ラヴィニアも同じ想いでいてくれて……本当に嬉しいよ」


 私の告白を聞いた瞬間、殿下の顔にこれ以上ないほどの歓喜が広がる。

 そのまま、もう一度しっかりと抱き寄せられた。

 彼の手から伝わる熱が、私の全身を甘く満たしていく。


「でも、身分の壁や……世間の目が、きっと私達を……」


「ラヴィニア、ひとつだけ教えておこう」


 不安を口にする私をさえぎるように、殿下は耳元でそっとささやいた。


「私は君が思っている以上に、とても欲深くてわがままな人間なんだ。一度自分のものだと決めたら……何があっても決して手放さない。ラヴィニア、悪いけれど、もう私から逃げることなんてできないよ」


「え、えっと……は、はい……っ」


 独占欲のにじむ声に、頬が熱くなる。

 それでも嫌だとは思えなくて、私はただ小さくうなずくことしかできなかった。


「ラヴィニア……目を閉じてくれないかい?」


「……はい……」


 その言葉が意味する未来を悟りながら、私はまぶたを閉じた。

 窓の外から差し込む茜色の夕陽が、世界のすべてを染め上げる。

 生徒会室で、私はディアス殿下と、初めての熱い唇を重ねた。


 身分違いの恋。

 私達の歩む先にはいくつもの険しい壁が待ち受けているのだろう。

 決して平坦ではない、果てのない道のりなのかもしれない。


 ——けれど、不思議と恐ろしさはなかった。


 誰よりも優しく、それでいて、少し強引で愛おしい彼が隣にいてくれるのだから。

 どんな困難が訪れようとも、彼の手のぬくもりがあれば、私はきっと笑顔で乗り越えていける。


 胸の奥で、私を縛っていた最後の氷が静かに解け去っていく。

 凍てついた孤独の季節は、もう終わりを告げたのだ。


 差し込む夕光を浴びながら、温かな未来へと一歩を踏み出した。

ご愛読ありがとうございます。

似た雰囲気の連載がありますので、よければこちらもどうぞお願いいたします。

【第一章完結】悪役令嬢は全員生存エンドを目指す。ただしもうひとつの結末は全滅エンドのみ 〜キャラから逃げようとしたはずが、いつのまにか執着されてます〜

https://ncode.syosetu.com/n4076mi/


※今作はアルファポリス、カクヨムなどにも投稿予定です

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