物語
「天国行きから異世界へ」
18歳の西野雄太が死んだとされ、神に会う。神は彼が善行が極みまで達した言い、天国行きになったが、西野は異世界へ行くことを選ぶ。
西野は森にいた。黒い学ランに制服姿だった。彼はそこから歩いていく。
森を出ると沼地だった。沼地でスライムのような泥の塊のようなものに出会う。魔法のようなものを使い、それらを撃退する。
西野は草原へ出る。草原では鹿のような生き物に出会う。またリスのような生き物にも出会う。リスは石を持っていて、それに執着している。
(西野はもう一方のそれに遠隔で繋がっていると見られる魔法の筒のようなものを見つける)
西野は草原を焼き尽くす。持っていた木の棒を立て全ての生き物の墓標とする。
西野は草原で塔を見つける。塔の内部は二重螺旋の階段になっていて、頂上まで登れない方の螺旋を登っていた。彼はそこから落ちるが塔中を水に満たすことで転落死を逃れ、塔の頂上まで到達する。
西野は塔の(頂上から竜のようなものが飛んでくるのが見えた。)頂上に一人の女性が立っているのを目撃する。彼女は後ろを向いていて、何かを探している。彼女はどうやら魔法使いのような格好をしている。竜は彼女に属するものである。西野は彼女を芸能人には及ばないかもしれないがこれまでに実際に見た女性の中で最も美人だと消極的に評価した。
魔法使いと見られる女性は異世界に来た日本人女性だった。彼女の名前は錦戸咲良、出身は東京。22歳。中学生の頃に死んで、9年間この世界で過ごしこれまでに魔法を学んできた。彼女はこの草原に異変が起こったので竜に乗ってこの地に来たと言った。西野は「僕がどうにかしました」と素っ頓狂なことを言った。彼女はこれを信じた。
錦戸は西野を竜に乗せて連れて帰ることにした。彼女は彼に角の生えた帽子を被らせた。彼女の魔法使いのローブには角が生えていた。正しく赤竜角魔女である。彼女は竜の名前をジャールーであると明かしていた。
(錦戸は「神に愛されていると言うような人はいますよ」と言った。彼女はそれを王の孫の意図で言った。また彼女は外見以上に容量の大きい魔法の袋を持っていた)
錦戸と西野は野を超え山を超え、茶色い土の山に着いた。そこの穴に竜と共に入っていった。そこには汚れたような小人がいた。彼女はそれをディンボドーであると言い、西野はそれを人間と認めないが、錦戸は人間だと主張して譲らない。
竜について錦戸「嫌われ者なんです。いい子たちばかりなのに」
西野と錦戸は山を歩いて、ゴンドラのようなものを使ってディーズリーズの街に降りていった。
ディーズリーズの街では西野が「似合ってますよ」と言い、錦戸が「それってどういう意味ですか?」と多少立腹を含んだ冗談のような揶揄いあいがあった。
その街で三体のディンボドーが争っていた。それに巻き込まれて(或いは他の獣のような手の爪に襲われて)錦戸は顔に大きな傷を負う。西野は「大丈夫ですか?」と問い、錦戸は「大丈夫じゃないです」と答えた。
路地裏に逃れた彼らはそこで西野が「錦戸さんのイメージの光」によって彼女を治療する。
(西野は錦戸を励まして、彼女が学生時代からの憧れの扉の魔法を使えるのだと主張した。彼女は魔法書のような分厚い本を参照しつつ彼女はそれを使い、彼女に与えられた人里離れた家に連れていく)
錦戸の家は彼女を守るために王から与えられたものだった。そこで彼らはしばらく過ごすのであるが、そこには走竜がいた。西野には部屋が与えられ、広いところで錦戸と共に食事をする。西野は錦戸からこの世界の竜の生態などを講義形式で教わる。
西野は錦戸と霊的な交流を図り、彼女が獲得した言語的、魔法的知識や技能をそのまま受け継ぐ。明示的にはできなくても、無意識にできるようになっており、この世界の人々と通訳なしに会話ができるようになった。
西野は地下室で結界の中に低反発で押されながらも中に入って、そこで錦戸から魔法を学んだ。火の魔法であり、(外でも学んだ)。その途中西野は火の魔物を生み出してしまい、危険な状況となったが、水で押し流し、錦戸の真下に開いた扉の魔法で、彼女の知る適切な処分場へそれを捨て去った。(危機的状況に反応して甲冑の無人兵士が動き出した)
彼らは走竜に乗って、王都まで行くことになった。
その途上、西野は満天の星空を見て世界に思いを馳せる。(錦戸のテントに入って西野は寝た。そこは内部の空間が外部から見たよりも大きかった。彼女は外で寝た。西野は神に愛されているのは錦戸さんの方ではないかと思う)
王都は廃墟から始まってそれが長く続いた。人が住んでいる領域の外側を廃墟帯が包んでいるのである。
錦戸と西野は宿屋に泊まった。西野は「泣いても笑っても偉大な仕事はできない。今自分にできることをやろう」と心の中で言う。その夜そこで元々は同じ階の別の部屋だったが、西野は夢で歩いている時に突然闇に落ちる夢を見る。それは彼の理解としては次の日を過ごしていた最中のことである。(タイトル「暗断裂」)そのため彼は死を恐れた。彼は錦戸の部屋に押しかけ「一緒に寝てください」と言う。彼は一人でベッドの下にいたつもりだったが、朝起きるとベッドで一人寝ていた。体育座りして俯いていた錦戸は顔を上げ「今度はちゃんと一緒に寝ましょうね」と言う。
錦戸は西野を連れて王城へ行く、そこで王に謁見する。王は彼女を知っていて、西野は錦戸のパートナーということになっていた。演技という観点で「そこは有り余る才能でどうにかする」と西野は心に言う。そこで彼らは王の孫で王位継承者であるデゴルボルンと出会う。
(冒険者ギルドに知り合いがいて、そこで彼らはゼイログという白い鹿のような生き物によって願いを叶えてもらうことにした)或いは(何かしらの問題が起こっているので解決することにした)
冒険者ギルドでダギル及びディークという男性とビジャステラという女性と出会う(ビジャステラは「私ビジャステラ」と自己紹介する)
彼らは硬貨と走竜を交換して、その場に召喚し草原へ向かっていった。西野はディークの走竜に乗っていた。
草原でゼイログに出会う。その生き物は去っていく。その途中戦闘民族と出会う。
西野はビジャステラの結界の中に留められていた。西野以外の一行は魔法を使い戦闘民族と戦うこととなった。
(ダギルは死ぬが、西野は死者蘇生魔法を発案し、彼を蘇らせる)
西野は後先を考えずそこから抜け出して、大水によって全てを押し流した。(その場には魔法の袋が残されていた)錦戸咲良は消失した。
西野の他に「一なるグドア」を名乗る戦闘民族の一人がいた。(設定上彼らは一日は眠り三日起き続ける)
彼は色々と話したが話が噛み合わない。彼らは走竜に乗ってゼイログの森へと行くことになった。
ゼイログの森に着いた。(ここでのタイトルが「不満月と未満月」)
森の奥に湖があり、白い鹿のような生き物であるゼイログがその上を歩いていた。
(ゼイログに望み、記憶を消した状態でダギル、ディーク、ビジャステラを元に戻す。西野は黒い真の球のような塊を頭にした生命を作り出し、ダックスフントのように歩かせ、湖の中に倒れさせる。西野は嗤う。ディークは西野に「魔法の袋に人を入れることは罪に問われなければならない」或いは「正当な教育を受けずに魔法を使えば罪に問われる」ということを言う。西野はどの立場からでも正論は作れると心の中で言う)
(「悪なる衝動」「懐柔と生還」というタイトル)ゼイログは悪夢を見せた上でその人の願いを叶える。時には自殺衝動に駆られることもあるというが夢の記憶は消され感情だけが残される、西野は相当嫌な思いをしたが問題なかった。彼は錦戸咲良の召喚を望んだ。(或いは新しい創造)水の中に黒い影が現れ、引き上げると錦戸咲良であった。(洗礼を暗示)
(彼女以外は全て元いた都市などへ帰した)
西野と錦戸はゼイログに乗り、東へ向かって飛んでいく。その道中、西野の錦戸への一人称は僕から俺へと変わり、力関係で彼女に優越するような雰囲気が漂い始める。
ゼイログに乗る西野と錦戸が行く中、竜が空に固まって飛び交っている場所に辿り着く。そこで彼らはその竜の結界を貫く(「貫く神銃」)
西野はかつて高校時代に読んだ小説のことを思い出す(作中では明かされていないがドストエフスキーの「罪と罰」を想定)。彼は英雄とは何か、何の障壁も躊躇もなく人を殺せる人なのかどうかというようなことを考える。彼は肯定も否定もしないがおそらく否定的。
巨大な砦が見えてくるそれは手前から地平まで覆うような複雑な構造である。錦戸は西野にザナレルという魔王の城であることを示唆する。西野は自ら大洪水でそれを覆い尽くすことを考える。彼は自分のことをあだ名すると「災厄」となるだろうと思う。
城砦の上で錦戸は落ちる。西野は急降下し「錦戸さん、絶対に助けますから」と叫ぶ。その言葉通り彼は彼女を救う。
城砦の広場において、そこはまた二重螺旋の塔の頂上のような場所なのだが、そこで西野はゼイログを結界の中に押し込めて、丸い眼球のようにして、捨てる。「お前は使えないな」「お前の使い方が悪い」というのが彼らの最後の会話である。
西野は沈降と隆起を繰り返しながら最終的に命を失うくらいが丁度良く死の恐怖も感じないと思いを巡らす。
西野は絶壁になっているところにいた、そこで錦戸が「死んだらどうするんですか?」と言ったのに対して「俺は死にません」と言ったことを宣言する。
西野が2秒で考えたようなと比喩したキメラのような竜が来た。西野と錦戸はこれを銃弾のように貫いて殺した。竜から血が出る。
(「盤面は詰んでいても人生は続くということを錦戸さんに見せてあげたい」)
錦戸は竜の血を飲んだら永遠に生きるようになるというこの世界の言い伝えを西野に知らせる。
すると竜から赤い血液が溢れ出し、全てを飲み込むように洪水となった(タイトル「死滅と氾濫」)。西野は錦戸がいない状況で結界を張り難を逃れる。
(竜の血から跳ねた丸い何かはある意味では生きていた。)
西野は結界についての考察をし、竜の血についての考察をし、前者では内部の空間の広さを外見とは異なるようにした時に時間の流れが内外で変わること、後者では竜の血による謎の生き物を「流竜血塊」と名付けた。(「粒々と掛かっていてお得だった」)
西野は竜の血の塊から抜け出した。すると錦戸がいた。「西野さんを探していました」(西野には長くても数十分、錦戸には三週間の経過であった。)「どうして探したんですか?」「だって死なないって言ったじゃないですか?」「流石に僕も死にますよ」
西野は魔法の筒と扉の魔法の組み合わせで元いた場所へ帰れると確信する。錦戸の力によって、二人で過ごした人里離れた家に戻る。彼女はその家で彼と食事をとりながら魔法の禁忌を破ることの重大性を半ば冗談混じりに伝える。彼女自身はそれほど規則を破ることに深刻さを感じていない模様。
(錦戸は度々「偉大な魔術師たちが決めたんです」と魔法使いの規則について言及する)
西野と錦戸は王都の王城にある錦戸の部屋へ行く。王城はそもそも空間が歪んでいて、そこだけで生活している人がいるほどである。散髪屋などもある。
西野は思うところがあり錦戸の元を離れようとする。何より彼は彼女のことを鬱陶しく思っていた。ある種の保護者のように感じていた。
錦戸は彼の両肘の辺りの両袖を掴み「西野さんは私のこと嫌いなんですか?」と言った。西野は「いや、好きですよ」と言い、彼女の顔が可愛くなったような気がしたのでキスをした。錦戸は「ここにいてください」と言って、扉の魔法を使いその場を離れる。
西野は彼女の言いつけを守らず家を出た。様々なことを考えながら、どこへ行こうかと思い巡らせた後、元いた彼女の部屋に帰った。
その夜錦戸は「お金なら私が出します」と言って、彼の生活を支えることを伝えた。しかし西野は「人の心を動かす魔法はありますか?」と錦戸に尋ねた。彼女は「ありますけど、そんなの駄目です」と首を振る。彼は「もう一度キスしてもいいですか?」と聞く。彼女は沈黙する。「駄目ですか?」彼女は首を振る。「じゃあ来てください」彼女はゆっくりと彼の元へ歩み出す。西野は錦戸の肘の辺りの腕を掴み、逃げられないようにして口付けをした。
西野は何度も繰り返すように口付けをする。錦戸咲良は「いつまでやるんですか?」と尋ねる。西野雄太は「錦戸さんが倒れるまで」と答える。西野が思うには半ば無限ループといった状況になった。彼は彼女の背中に手を回し、彼女を抱きしめ、「疲れましたよね。休んでいいですよ」と声を掛けて、彼女の背中をさする。彼女は彼に寄りかかるようにして静かになる。彼は大人の重さの女性を抱き上げて寝室へ連れていく。彼女の顔を眺めたか眺めなかったか、彼は言葉をかけてその部屋を後にする。
((私はこのシーンを書いた時に錦戸咲良に感情移入し、西野雄太に性衝動を抱くほどに好きになった。結末を変更し彼らを永遠のパートナーと見做し完成させる。私はしばらく女性のような人格になり、この作品が評価されていなかったことを知った時の悲しみに暮れている中でイエス・キリストの復活を真理として受け止め、救いへの道に導かれた。しかし私は唯一の全能なる神への信仰を持ってこの作品を書いたことで救われたと信じていたが、2025年9月21日に私は自力では救えなかったが私の人生を通して神の恵みによって信仰が与えられたと理解した時、正に今罪許され救われたと理解した。))
西野は一人で生きていくためにはどうすればいいかを金の工面という観点で考える。稼ぐ、貰う、手に入れる、盗むなど四つが案として挙がる。王都を歩きながら、結界魔法を応用して、瞬間移動を果たすように進んでいく。彼は西の方へ向かう。
西野は西の方の都市に到着した。そこは様々な色合いの建物があった。
歩いていると一人の人が来て親切に案内をすると言った。彼は西野に「名前は?」と聞き、西野は「東の魔法使いです」とはぐらかし、彼は「今日日魔女でもそんなこと言わないよ」と返した。西野は彼の言葉に途中まで従ったが、途中で翻してその場を離れた。
彼は日本の大学のような場所へ来た。そこで食事をし、何かが守られている場所を目撃する。
彼は夜にコロッセオのような場所に行く。そこで歌いたいことはないと言ったが、何かを歌ったかもしれない。
彼は昼にコロッセオのような場所に行くと、デゴルボルンと竜とゼーダバという男性がそこにいて、客席の壮年の男性に話を聞くと「竜と男性が戦っている」とのこと。これは過去の競技を現代に蘇らせたもので、西野はこのように形にできる者が誰であっても尊敬すると考えた。
ゼーダバが死にそうだった。黒い学ランの制服姿の西野はその場に躍り出て、デゴルボルンに立ちはだかった。その場は混乱しているが、その原因は今となっては明らかではない。
「デゴルボルン様、あいつが東の魔法使いです。一度は私の話に従っておきながら忽然と姿を消した男です」と手下。
「サクラはどうした」とデゴルボルンは西野に言う。
西野は答えたくないので沈黙した。
西野は自分の学ランの第一ボタンを外し、右手の親指と人差し指の第二関節に挟んで、それをデゴルボルンに向けた。それまでの魔法を用いた銃的な機構から発想した。ノーモーションで放つのもどうかと思い、「バン」と言ってから彼の肩に打ち込んだ。
デゴルボルンは倒れこんで苦しんだ。西野は彼と言葉を交わし、彼の腹を蹴り、更に苦しめてから、彼の魔法の袋を奪い、その場を後にした。彼はその時、客席にいた人々に話しかけ気を遣っている。
彼はコロッセオのような場所を抜けて、防空壕のようなところに身を寄せる。そこには男性と女性がいて、非常食のようなものがあった。彼はそれを食べていいかと聞いた。「咎める人はいないよ」と返ってきたので、彼はそれを食べた。
それから夜になった。彼は大学のような場所の何かを守っているところへ行った。その中には火が燃えていたのだが、その入り口で二人の少年と出会う。一人は残り、一人は逃げ出す。彼らは街の問題を解決するためにここへ来たと思われる。
残された少年はジンと言い、西野は「勇気があるのはともかく戦いの中で成長できなければ蛮勇に過ぎなくなってしまう」と心の中で言った。また、「エドとかメグとかネーミングセンスの良い名前がこの世界にはいない」と心の中で嘆く。「ジンという響きは素晴らしい」彼は結界の中をその少年の手を引いて入って行き、神殿の中の火を見せた。
彼はそれを「千年前から燃えているものだ」と知りもしないのにそう言って、魔法の力によってその火を消した。結局この程度のものなのだということを示して、少年を再び結界の外へ戻して、彼は離れた場所へ姿をくらませる。彼はそこから少年の様子を眺め思いを巡らす。
西野は空に高く登り、明かりのない街を眺める。彼は数日の出来事を終え、戻ることにした。
草原を歩いている中で天幕と走竜を見た。彼はそれが馬と番犬の役割を担っているのなら凄いと感じた。彼はまた自分の名前が永遠に刻まれることがあるはずなく、西野雄太という名前ではあり得ないはずだと思いを巡らす。
彼は夜に王都へ戻ってきた。錦戸の部屋の扉を叩くと、彼女が出てきた。彼女はやや薄着していた。彼は「結局自分一人では何もできませんでした」と言った。彼が風呂に入りたいと言ったので、彼女はそこまで案内する。そこにシャワーはなかったが水を浴びる。
それから二人は共に過ごした。(それが西野雄太にとっての初めての男女の関係だった)
翌朝錦戸咲良は西野雄太をテーブル越しに見つめていた。彼は「錦戸さん、昨日はちゃんと眠れましたか?」と聞いた。彼女は「ええ、よく眠れました」と答えた。錦戸は昨日と変わらない表情を浮かべていた。
それから数日後西野が錦戸と歩いている時デゴルボルンが拘束されたという情報が飛び込んできた。更に二週間ほどして王が死に、錦戸は悲しむ(タイトル「王の死」)。西野は彼女を慰める。王の葬儀があり、西野は錦戸の魔法使いの服を借りて参列する。そこには年相応ではない格好をした壮年の女性がいた。
(西野は錦戸に連れられ城内の散髪屋に行き髪を切った)
錦戸は彼女の部屋で友人のビジャステラと話し、西野は少し気まずそうにする。
西野は錦戸からこの世界の文字について教わっていた。彼女は可愛らしい文字でそれを書いていたと西野は心の中で述べた。(タイトル「日々」)
西野は錦戸を連れて手を引いて、どこまでも行ける気がしていた。
西野は「大魔王デゴルボルン」は仮にそうだとしたら凄みがないと思いを巡らせる。
(西野は例の家に魔法の袋をしまったままの制服を畳んで自分に与えられていた部屋に置いた。)
その後錦戸は彼女の次の雇い先の都市に「ユウタにも来てほしいな」と食堂での食事の席で話す。というのも彼女はブレドツリュウゲという都市で魔法使いとして雇われることになっていた。
彼らはその都市へ行く馬車に乗っていた。
『晴嵐の神子』
高校(一年)生の木崎陶冶は窓際の机に突っ伏しつつ授業に半分耳を傾け、半分は外に意識が向いている。
彼は右斜め上の大名美冬を見つめる。
彼は外の景色を見て、そこにはないが城がある光景に思いを馳せる。また魔法使いという存在に対する憧れを持つ。この世界には現実に存在する。
その日の授業が終わると木崎は一人で教室にいた。そこに大名が来て、
「木崎くん、私のこと見てたけど私のことどう思っているの?」
と尋ねる。彼は思いついたことを流暢に述べていったのだが、要約すれば「大名美冬は目の保養になる」ということだった。
彼女はその言葉に微笑んで彼の元を離れる。
次の日大名は学校に来なかった。彼は親友の男に「元気がないな」といった声をかけられる。木崎は大名のことが気になるという。
「喫緊の問題としては今夜は考えすぎないように気をつけろよ」
親友はこのようなことを言って、思春期の少年を揶揄う。
そこに眼鏡をかけた刈山茂樹が来て、彼らの話に割り込んでくる。
その次の日も次の日も大名美冬は学校に来ない。
浅野綾は木崎に「おはよう」と言い、彼は「おはようと返す」(彼女は彼に好意を持っていた)
ある雨の日木崎が帰路を歩いていると傘を差していた大名が来て、「木崎くんどうしたの?」と聞く。彼らは並んでいたが、彼女の方が身長は高かった。
すると突然遠くから晴れ間が現れ全天が晴れ渡っていく。木崎は「大名さんちょっと歩かない?」と言う。彼女は「デート?」と聞くが、木崎は何も答えない。
しかし大名美冬は学校に来ない。
木崎が親友に話すと、彼は「直接連絡するしかないだろ」と励ます。木崎は学級の連絡の集まりから大名のアカウントを見出す。
「何と言えばいいかな?」
「『今から会える?』以外にないだろ」
彼が電話をかけると彼女が出た。彼女は少々困惑している様子だったが、彼は近くの丘の上で会う約束を取り付ける。
彼らはその日の夕時丘の上の長椅子に腰掛けて話す。晴嵐が吹き渡っていた。
「大名さんどうしたの」
「言えないし、もう会えないの。さようなら」
大名は帰り、木崎は親友と刈山の元へ戻っていった。彼らは木崎を励ます。
大名美冬は消失した。いなくなったということを木崎陶冶は担任の教師から聞く。
彼は大名への思いを忘れられず彼女のことを探すことにする。
刈山は一人で部屋を借りていた。木崎とその親友はそこで作戦会議をするために集まることになった。
彼らは魔法使いに探してもらおうということになった。「本屋に行こう(そこに魔法使いがいるかもしれない)」電車での帰り、親友は「木崎の母ちゃん美人だよな」という。刈山は同意し、木崎は「やめろ」という。
木崎は母に「俺はお母さんのこと大好きだよ」と伝える。
三人は電車で都市に行き、天幕が繋げられて延々と天を覆っている本屋に行くことになった。都市なので高い建物はなかった。
駅で降りて、彼らはそこから歩いて食事をとることになり、木崎は「カレーライス」のようなものを食べた。彼はグラスの水を飲んで大名美冬への誓いを立てていた。
木崎は建物の屋上で遠く風船が飛んでいくのを目撃する。
天幕の本屋に行き、あらゆる人を見ながら魔法使いらしい人を探していく。中々見つからない。
そんな中で木崎がある本に目を止めてそれに手を伸ばすと、ある人が後ろから声を掛けた。
彼は魔法使いのような雰囲気を纏っていた。また何とかという漢字の組み合わせで表現された記念日か祭りのようなものが近いということを仄めかす。木崎はこれを心に留める。
「あなたは魔法使いですか」
「僕は佐藤文、その通り」
と言うことを明かし、木崎は大名美冬を探してほしいということを伝える。しかし佐藤の反応は連れない。
残りの木崎の友人二人が集まった時、彼らの目の前で佐藤は「じゃあ僕はそろそろ行くね」と言って、光に包まれてその場所から消失した。
木崎は失望の最中帰宅することになったが、彼の親友は「木崎、お前が魔法使いになった方が早いんじゃないか」という。
木崎は魔法使いが言っていた単語について調べたが検索結果は一つも見つからなかった。彼はそこに何かあると確信する。
木崎は自分が魔法使いになって大名美冬を探し出すことを決意する。
彼は川原で競技用の球を握って寝転びつつ、それを上に軽く投げては取り直すということを繰り返していた。そこには子供たちが遊んでいた。
彼は精霊湖が枯渇しつつあるということに思いを馳せながら、魔法使いとしての適性が自分にあるか考えていた。
彼は目を閉じて集中した。するとその場所の様子が浮かんできたのだが、誰もいない。彼はそこから歩いていく。すなわち彼の精神世界の様相を呈していながら、その場所の構成は適切になされているようだった。
(彼は学校に通いながら魔法の特訓を続けていた。当然大名美冬は来ない。その頃浅野綾が話しかけ、「最近どうしたの?」と尋ねる。彼は現状を明かす)
川原で木崎が魔法の特訓をしていた頃、浅野綾が来て彼女の携帯を木崎に見せ、「この人が佐藤文じゃないかな」と彼に言い、連絡を取ってくれるという。
すると魔法使いの佐藤が現れて、彼らの目の前に来た。
「君の気持ちはよく分かった。もしかすると……」
大名美冬は選ばれて遠い地に連れて行かれることになってしまったかもしれないと仄めかす。
佐藤は木崎の左肩に右手を置いてすれ違うようにしながら、
「それと木崎くん、君は魔法の才能は少しあるけど、少しだけだから気負わない方がいいよ」
と言ってからその場から消失した。
木崎は親友と刈山にこれらのことを伝えた。
それから少しして親友は「なんかこいつも大名さんのこと好きなんだって」といって、体育会系の短髪の男性をその場に連れてきた。どうやら彼も大名を探そうとしているようだった。
それから少しして佐藤文が彼らの前に現れて、右手を肘を軸にしつつ回しながら、状況について説明を始める。木崎陶冶、その親友、刈山、体育会系の同級生がいた。
佐藤文は誰か一人を交換要員としてこの地域に残して、彼の妹と合わせて四人で旅をし大名美冬を見つけ、彼女と交換する魔法を使い、その後彼女のいる地から帰還することを提案する。
刈山茂樹が交換要員を担うことになった。(彼はしばらく郊外の一室に事実上監禁されて過ごすことになる)
数日後学校のグラウンドに佐藤文と十歳くらいの魔法少女の格好をした人物、五人の高校生が集まっていた。
「私の名前は佐藤才です。よろしくお願いします」
彼女は魔法使いの格好をして、厚く模様の入った外套と先の尖った帽子を被っていた。以下魔法少女とも表現する。
七人で手を繋いで円となり、佐藤文が魔法を使って彼らは遠い地に転移した。おそらく中国大陸に相当することが示唆されている。
廃墟となっている街に彼らはいた。(木崎と親友、体育会系の同級生、佐藤才の四人を残して浅野と刈山と佐藤文の三人は同じようにして帰っていった)
そこから彼らは歩いていく。彼らは街を出て川を渡る。魔法少女は川の流れの上に出ていた石の上を転々として、軽やかに飛び越えた。他の人たちは苦戦した。
彼らは森に入り、その中で過ごした。体育会系の同級生は眠らなかったが、他はまちまちだった。魔法少女はすやすやだった。
三人は魔法少女の呼び寄せた灰色の大鳥に乗って、目的地と思われる場所に向かうことになる。(大鳥と乗り手の人は魔法で磁石のように張り付く。木崎は気怠さを感じてやや眠そうにする。)。後ろは森が広がり、目の前は崖で、その下には遠く一望する限り深い森が広がっていた。
灰色の大鳥の口を通して遠隔で会話が可能であり、魔法少女の指示に従って四人は陣形を成して飛んでいく。
度々彼らは大鳥を休憩させながら進路を先に行っていた。
目の前に川の流れのあるある森の中で過ごしている時、魔法少女は彼らの服を少し高いところに造った水の球体の中に入れて洗濯をした。
他のところで休んでいる時、木崎はその夜にその森の開けたところから茂みの方へ進んで行った。親友に声をかけられ彼は我に帰った。
「大名さんのこと考えていたのか?」
「まあそんなところかな」
大鳥に乗り飛んでいる時に起伏が激しい荒野を見下ろした先には巨大な竜がその場所を占めていた。
「大漢竜です。あれだけ大きな個体は飛べないんですけどね」と魔法少女
四人は湖の畔に鳥を下ろして、魔法少女は鳥たちに巨大な芋虫のようなものを出現させて与えた。
「木崎起きろ」と親友は言う。木崎陶冶は我に帰った。
都市の近くに到着する。その都市は大大都と言い、人工的な直線の城壁に囲まれていた。佐藤才が天女という存在について仄めかす。
「天女って何?」
「天子様にお目かけされている人たちのことです」
(大名美冬は天女として選ばれたのではないかとのことだった)
四人は宿屋に泊まった。そこで食事を摂った。
彼らは大名美冬を探すために城壁の中の街を歩いた。しかし見つからない。
「さえちゃんにとって一番悪いことってどんなこと?」と体育会系の同級生。
「裏切ること」と魔法少女。
木崎は胸を叩いて彼らを見る。
「心だよ」
宿屋において佐藤才は地図を見せる。それは天子という支配者とその関係者が住んでいるところであり、漢字でその場所の幾つかの施設の名前を伝えた。
木崎は目を閉じて意識を集中し、誰もいない空間へその意識を移し、そこを歩いていく(精神的な働きである)。彼は天女と言われる人々が住んでいるところを歩いているが、大名美冬らしき人の居場所は見当たらない。
そんな中彼は取手のない櫛を見つける。彼はそこについていた髪の毛を見てそれが大名美冬のものであると確信する。
彼が気付くと夜だった。佐藤才が薬草を煎じて彼に飲まそうとしていた。彼は自分が見たことを魔法少女に証言し、明日の朝大名捜索に出ることを提案する。
佐藤才はそれを受け入れて、他の二人にも希望が見えた。彼らは翌朝走り出るように天女の住まう場所に向かっていった。
木崎が覚えていた場所に押し入ると(或いは魔法で鍵を開けて入ると)女中が慌てていた。奥の部屋には長い着物を着た大名美冬が向こうを向いて座っていた。
彼女が振り向くと木崎と目が合った。彼は、
「大名さん、今は詳しくは言えないけど、また会おうね」
と言った。魔法少女が魔法の杖を彼女に向け、魔法を発動させると彼女はその場から消失した。
場面は変わり水がついて曇った窓の外に夜の暗闇が漂う狭い一室に佐藤文と大名美冬がいた。彼は座っている彼女を見下ろしつつ、
「ここは君の通っていた学校から少し離れた年の郊外だ。着替えたくなければそのままでもいいが、そのままで外を歩くと不審に思われる」
と言って、彼女に着替えを渡した。彼女を促して、浴室の中でそれを済ませるようにさせた。
それから彼らは外に出た。外には雪が降っていた。大降りではなかったが、かなりの量の積雪だった。彼は「君は木崎君のことどう思っているの? 彼は君のことが大切みたい」と言う。彼女は「私も同じです」と答える。
場面は変わり、浅野綾の家で彼女が自分の部屋で勉強道具を片付けている時にスマホの通知が来る。佐藤文からの連絡だった。彼女はその部屋で急いで身支度をして、一階へ降りていく。
急いで、玄関から出ようとしているところ、彼女の母親が「門限はとっくに過ぎてる」と言うと、彼女は「無効」とだけ言って、家を飛び出した。彼女の弟が「お姉ちゃんは?」と母親に訊くと彼女は首を振ってその子の背中に左手を当てて二人で扉に背を向けて廊下の奥の空間へ向かった。
彼女は少し雪の降っている街を街灯沿いに走っていく。彼女は近くの駅に着いて、そこで列車が来るのを待っていた。積雪はそれほどなかった。
場面は変わり、大雪の駅で橙色の光が照らす夜の駅のホームに佐藤文と大名美冬がいた。
すると列車が近づいてきて止まった。彼らが列車の扉の前に立っていると、それが開き、中に浅野綾がいた(彼がその場所を予見していた)。佐藤文は大名美冬の左側にいて彼女の左肩をその右手で押して、列車の中に入る。列車はほとんどすいていた。
「後はよろしくね」
彼はそう言うと、列車から出て、すぐに扉が閉まった。浅野は大名と列車の長い席の端の方に座って、「美冬ちゃん大丈夫だった?」と心配そうに訊く。彼女は「うん、大丈夫」と少し弱い調子で返した。
彼女らは自分の街に降り、浅野と大名はそれぞれ帰路に着き、大名は扉を開けて家の中に入っていった。その背後の高いところで佐藤文は彼女を見下ろしていて、一連の光景を見た後姿を消した。
それから彼女の日常は帰ってきて、学校生活が始まった。
彼女は佐藤文から借りていた服をクリーニングに出していて、それを取りに行った(それをどうやって返したのかは定かではないし、彼女が保管していたともとれる)。
彼女は学校での日常を過ごしているのだが、一年が過ぎ、二年が過ぎていった。彼女は三年生になっていった。彼女は学業では優れた結果を残していたが、机に突っ伏して過ごしていた。勉強のことを聞かれても生返事だった。
彼女は学校近くの丘を登っていた。家族連れがいて、親子の間に大名はいた。彼女は家族連れの様子を眺めた後、自分の境遇に思いを馳せた。
それらのことの前後か間にリビングのテレビでテーブル越しに佐藤愛という女性の魔法使いが戒厳令を発表するのを見た。
彼女は佐藤文から携帯に直接連絡が来て、「しばらく遠出などせず外出を控えてほしい」とのことだった。その頃までに軍が出動していて、街を生き巡っていた。
その時期も過ぎ去り、三年生の秋になった頃彼女は学校の放課後に携帯で天気予報を見た。それまでしばらくの間晴れとの予報だったのに、全て雨マークに変わっていた。彼女は曇りつつあった空を教室の窓越しに見つめて、帰る支度をした。
彼女が学校を出る頃には雨だった。彼女は傘を持っておらず雨の中を気持ちが塞がりながら歩いていく。水溜まりを越え、時に立ち止まりながら進んでいく。
「大名さん濡れちゃうよ」
雨が遮られ、彼女が振り向くと彼女より背が高くなっていた木崎陶冶がいた。彼は彼女の右に立ち、その顔彼女ではなくはやや空に向かっていた。
彼が天に手を伸ばし何かの言葉を言うと、丁度彼らの真上から晴れ間が現れ、円形に雲がなくなっていき、全く快晴となった。(彼は魔法使いになっていたようだった)
「大名さん、しばらく歩かない?」
「デート?」
「そうだよ」
それから二人は雨止みの街をしばらく二人で並んで歩いた。
『サウラの魔法』
ある少女が死の床にあった。
病室には静かな時間だけが流れていた。窓から差し込む光は柔らかく、風が白いカーテンをわずかに揺らしている。少女は寝台に横たわったまま、薄く目を開いた。
少し離れた場所では、母親が医者と小さな声で話をしていた。
少女にはその言葉は聞こえなかったが、二人の表情だけで十分だった。母親は何度もうなずきながら口元を押さえ、医者は静かに頭を下げている。
少女は二人をしばらく見つめていた。
そして何も言わず、再び目を閉じた。
すると、寝台の感触も病室の匂いも、どこかへ消えていった。
彼女が次に立っていたのは、どこまでも続く草原だった。
空は青く、高いところを白い雲がゆっくりと流れている。木々は風に揺れ、小鳥のさえずりが遠くから聞こえてきた。病の苦しさも体の重さもそこにはなく、彼女は初めて自由に息を吸うことができた。
それでも胸の中は少しも軽くならなかった。
彼女は辺りを見渡し、小さくつぶやいた。
「私はどうすれば良いのかな」
答える者はいない。
少女はその場に座り込み、膝を抱えた。
涙は激しくこぼれるわけではなかった。ただ静かに頬を伝い、草の上へ落ちていった。
その時だった。
風が吹いた。
最初はそよ風だったものが、次第に彼女の周りを巡り始め、小さな旋風となる。草が揺れ、木の葉が舞い上がり、光を受けてきらきらと輝いた。
その風の中から、不思議な声が響いた。
「あなたに魔法を授けよう」
少女は涙を拭き、顔を上げる。
姿は見えない。
けれど確かに誰かが語りかけていた。
「それは王国とその民を作ることができる。あなたは豊かになるだろう」
「魔法?」
少女は聞き返した。
その言葉はあまりにも現実離れしていて、夢の続きを見ているようだった。
すると別の旋風がどこからともなく一本の木の棒を運び、少女の前へ静かに置いた。
木肌は滑らかで、特別な装飾は何もない。
どこにでもありそうな細い枝にも見えた。
少女は恐る恐るそれを拾い上げる。
不思議と温かかった。
握ると、手のひらへ命が伝わってくるような感覚があった。
軽く振ってみる。
しかし何も起こらない。
空も大地も変わらず静かなままだった。
少女は少し困ったように笑った。
「やっぱり普通の棒じゃないの?」
すると風の声は穏やかに言った。
「土に命じなさい。あなたの子となるように」
その言葉だけを残して、旋風は静かに収まった。
草原には再び風だけが流れている。
少女は木の棒を見つめた。
本当にそんなことが起こるのだろうか。
疑いもあった。
けれど失うものは何もない。
彼女は大地へ向けて木の棒をそっと差し出した。
「土よ、私の子となれ」
言葉が終わると同時に、地面の一か所へ水滴が落ちた。
一滴。
また一滴。
それは雨ではなく、どこからともなく湧き出す雫だった。
乾いた土はゆっくり湿り始め、小さな塊となる。
さらに土は集まり続け、人の背丈ほどの大きな塊へ姿を変えた。
少女は思わず一歩後ろへ下がった。
「本当に……」
驚きの声を漏らす。
大きな土塊はしばらく静止していたが、やがて表面がゆっくりと動き始めた。
その一部が離れ、小さな塊となって転がる。
それは少しずつ手や足を形作り、少女よりも背の低い、人の姿になった。
まだ土そのものだった。
肌も髪も服もなく、すべてが柔らかな土でできている。
けれどその瞳だけは不思議と優しかった。
「凄い」
少女は思わず笑顔になった。
恐ろしさよりも喜びが勝っていた。
彼女はしゃがみ込み、その土の子と目線を合わせる。
「あなたの名前は何というの?」
土の子は少し首を傾げた。
「分からないよ。好きに呼んで」
少女は少し考える。
名前を与えるということは、その子を一人として認めることのように思えた。
「じゃあ……セトと呼ぼうかな」
土の子は嬉しそうにうなずいた。
「分かった。僕はセト。」
そして間を置いて、まっすぐ少女を見つめる。
「君は僕に何をしてほしい?」
その問いに少女は迷わなかった。
「仲間を増やして、賑やかにしたいな。」
彼女は草原を見回す。
広い世界には、自分とセトしかいない。
静かすぎる景色は、どこか寂しかった。
「皆で幸せになる。」
それが彼女の願いだった。
大きな願いではない。
ただ誰も独りにならず、笑って暮らせる世界。
それだけで十分だった。
セトは静かにうなずく。
「分かった。」
その返事には迷いも打算もなかった。
「僕、働く。」
そう言うと、セトは足元の土へ手を伸ばした。
柔らかな土は彼の指先に従うように集まり、新しい形を作り始める。
やがて自分によく似た土の人々が次々と生まれた。
セトは彼らを兄弟と呼んだ。
生まれたばかりの彼らは整然と並び、一人残らずサウラの方を向く。
そして声をそろえて尋ねた。
「私たちは何をすればよいでしょうか。」
サウラはその光景を見て、小さく息をのんだ。
自分はいつの間にか、一人ではなくなっていた。
サウラは言葉を失っていた。
ほんの少し前まで、自分は病室で静かに死を待つ少女だった。
それが今では、見渡す限りの草原で、一人、また一人と新しい命に囲まれている。
現実とは思えなかった。
だが、目の前の土の人々は確かに動き、互いに言葉を交わし、サウラの返事を待っていた。
その瞳には恐れも疑いもない。
ただ、彼女を主人として受け入れている穏やかな信頼だけがあった。
サウラは胸の奥に、不思議な責任のようなものが芽生えるのを感じた。
誰かに命令したことなど、一度もない。
ましてや、人々の暮らしを決める立場になるとは思いもしなかった。
「私は……」
小さく息をつく。
何を望めば良いのだろう。
富だろうか。
名誉だろうか。
そう考えてみても、どれも心には響かなかった。
病の床で過ごした日々の中で、彼女が願い続けたものはもっと素朴だった。
誰かと笑い合い、安心して眠り、明日を迎えられること。
それだけで十分だった。
サウラは顔を上げる。
「まずは、みんなが安心して暮らせる場所を作ろう。」
土の人々は一斉にうなずいた。
「はい。」
返事は揃っていたが、それぞれの声には微かな違いがあった。
サウラはそのことが少し嬉しかった。
皆が同じ土から生まれても、それぞれ別の存在なのだと思えたからだった。
セトは周囲を見渡し、静かに言った。
「家を作ろう。」
その一言で、人々は動き始めた。
近くの土を集め、形を整え、積み重ねていく。
木々から枝を集める者もいれば、石を運ぶ者もいる。
誰かが命令したわけではない。
自然に役割が分かれ、仕事が進んでいった。
サウラはその様子を歩きながら眺めた。
何もなかった草原に、小さな家が一軒、また一軒と建ち始める。
煙突から煙が立ち、井戸が掘られ、広場が作られる。
夕暮れになる頃には、一つの小さな集落が生まれていた。
土の人々は完成した家々を見渡し、満足そうに笑った。
その笑顔を見たサウラも、自然と微笑んでいた。
「ありがとう。」
その一言に、人々は少し驚いたような顔をした。
「お礼を言われることなのですか。」
一人が尋ねる。
サウラは頷いた。
「もちろん。誰かが誰かのために働いてくれたら、ありがとうって言いたい。」
人々は互いに顔を見合わせる。
やがて一人が言った。
「ありがとう。」
隣の者も続く。
「ありがとう。」
その言葉は村中へ広がり、誰もが互いに「ありがとう」と言い合うようになった。
サウラはその光景を見て、小さく笑った。
この世界には、まだ何一つ決まりはない。
だからこそ、最初に交わされる言葉が感謝であることを嬉しく思った。
数日が過ぎると、村はさらに広がっていった。
畑が耕され、果樹が植えられ、家畜も育てられるようになる。
人々は働くことを苦にせず、自分たちの得意なことを見つけていった。
器を作る者。
布を織る者。
家を建てる者。
歌を口ずさみながら畑を耕す者。
夕方になれば広場へ集まり、一日の出来事を語り合う。
サウラもその輪に加わり、静かに耳を傾けていた。
病室で過ごした頃には想像もできなかった時間だった。
誰かの笑い声が聞こえる。
誰かが失敗を笑い話に変える。
子どもたちは広場を駆け回り、大人たちは穏やかに見守る。
サウラは夜空を見上げた。
無数の星が静かに瞬いている。
「こんな世界が、本当にあっていいのかな。」
そのつぶやきを聞いたセトが隣へ座った。
「サウラ。」
「なに?」
「君が望んだから、こうなった。」
サウラは首を横に振る。
「違うよ。みんなが頑張ったから。」
セトは少しだけ考え、それから穏やかに笑った。
「じゃあ、みんなで作った。」
その言葉にサウラも笑みを返した。
「うん。みんなで作った世界。」
夜風が二人の間を静かに吹き抜ける。
その風は、初めて草原で彼女に魔法を授けたあの日の風によく似ていた。
サウラは胸の内で、静かに願った。
この穏やかな日々が、いつまでも続きますように。
しかし、どれほど穏やかな世界であっても、時は止まることなく流れ続ける。
人々が増え、町が広がり、王国が形を持ち始めるにつれて、誰もまだ知らない新たな問いが、静かにその世界へ近づいていた。
やがて季節が幾度も巡り、集落は町となり、町は一つの王国へと姿を変えていった。
初めは数えるほどしかなかった家々も、今では遠くまで続いている。
朝になれば煙突から白い煙が立ち上り、人々はそれぞれの仕事へ向かう。畑では実りが風に揺れ、工房では器や道具が作られ、市場には人々の笑い声が絶えなかった。
サウラは城の高い場所から、その光景を眺めることが好きだった。
城といっても、威厳を誇るための建物ではない。
人々が困った時に集まり、祝い事があれば皆で食卓を囲む、王国で最も大きな家だった。
その広間では今日も子どもたちが走り回り、大人たちは笑いながらその姿を見守っている。
サウラは静かに微笑んだ。
「みんな、元気だね。」
隣に立つセトも頷く。
「皆、幸せそうだ。」
サウラは首を横に振った。
「違うよ。幸せそうじゃなくて、本当に幸せでいてほしい。」
セトはその言葉を胸に留めるように、小さく頷いた。
ある日、人々は葉を編み込み、一つの冠を作ってサウラへ差し出した。
「私たちの王として受け取ってください。」
サウラは驚いた。
「王様なんて大げさだよ。」
「あなたがいなければ、私たちは存在しません。」
「でも、この国はみんなで作ったんでしょう?」
人々は笑顔で答える。
「だからこそ、皆の願いとして受け取ってください。」
サウラは少し迷った末、その葉の冠を頭に載せた。
重さはほとんどない。
けれど、その温もりは何よりも重く感じられた。
その日から、人々は彼女を王と呼ぶようになった。
一方、セトは自然と王国のまとめ役となった。
誰に命じられたわけでもない。
困った者がいれば相談を受け、仕事が偏れば人を集め、争いの芽があれば早いうちに摘み取る。
人々は彼を宰相と呼び始めた。
セトはその呼び名を少し照れくさそうに受け入れていた。
そして時は流れる。
セトネルはさらに仲間を生み出し、その数は百を超えた。
王国は広くなったが、人々の顔はまだ互いに分かるほど近かった。
夕暮れには皆が広場へ集まり、一日の出来事を語り合う。
サウラはその輪に入り、誰かの隣へ腰を下ろす。
王だからといって特別な椅子へ座ることはなかった。
皆と同じ場所で笑い、同じ食事を分け合うことを、彼女は何よりも大切にしていた。
そんな穏やかな日々が、長く続いた。
サウラは、この時間が永遠に続くのではないかと思い始めていた。
だが、ある朝。
広場の方から、今まで聞いたことのない大きな声が響いた。
「お前が悪い!」
怒鳴り声だった。
サウラは思わず立ち上がり、その声のする方へ駆け出した。
そこには多くのセトネルが集まり、互いに激しく言い争っていた。
「違う、お前が間違えたんだ。」
「いや、お前が手伝わなかったからだ。」
輪の中心には、一人のセトネルが立っていた。
他の者よりも少し動きがぎこちなく、言葉もたどたどしい。
周囲の者たちは、その姿を責め立てていた。
サウラは群れの中へ入り、両手を広げた。
「やめて。」
怒声が一瞬だけ止む。
サウラは一人一人の顔を見回した。
「私は、みんなを愛している。」
静かな声だった。
それでも、その場の空気は少し和らいだ。
「一人一人、誰よりも大切なの。」
誰も答えなかった。
サウラは、これで終わると思った。
ほんの少し前まで、そう信じていた。
しかし次の瞬間だった。
一人のセトネルが怒りのまま腕を振るい、目の前の仲間を強く打った。
鈍い音が響く。
打たれたセトネルの身体は大きく揺れ、そのまま形を保てなくなった。
胸が崩れ、腕が崩れ、全身が静かに土へ戻っていく。
それは、誰も見たことのない光景だった。
サウラは息をのみ、悲鳴を上げた。
「やめて!」
しかし、その声はもう誰にも届かなかった。
残されたセトネルたちは後ずさりしながら崩れた土を見つめる。
「僕も、ああなるのか。」
「いつか僕も消えるのか。」
誰かが震える声でそう言うと、その不安はたちまち皆へ広がっていった。
サウラは一人一人へ近づき、必死に微笑もうとした。
「大丈夫。」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
「きっと、大丈夫だから。」
けれど、その時すでに、王国にはサウラの知らない何かが芽生え始めていた。
その日を境に、王国の空気は静かに変わっていった。
朝になれば人々は畑へ向かう。
市場には品物が並び、工房からは木槌の音が聞こえる。
見える景色は昨日までと変わらない。
それでも、人々の表情だけは少しずつ変わっていた。
誰もが時折、自分の手を見つめる。
腕を曲げ、足を動かし、胸に触れる。
土でできた身体は今までと何も違わない。
しかし、あの日崩れ去った仲間の姿が頭から離れなかった。
「私も、いつか消える。」
その考えは、風に乗る種のように王国中へ広がっていった。
サウラは毎日のように町を歩いた。
広場へ行き、畑へ行き、工房を訪ねる。
以前なら誰もが笑顔で迎えてくれた。
今も笑顔はある。
けれど、その笑顔はどこか無理に作られているようにも見えた。
「困っていることはない?」
サウラが尋ねると、人々は決まって首を横に振る。
「大丈夫です。」
その返事に嘘はない。
しかし、本当に大丈夫なら、あの沈黙は生まれないはずだった。
夕方、サウラは城の庭へ腰を下ろした。
風が草を揺らしている。
初めてこの世界へ来た日の風によく似ていた。
「私は何を間違えたんだろう。」
その独り言に答える者はいない。
しばらくして足音が聞こえた。
セトだった。
彼はサウラの隣へ静かに座る。
二人はしばらく何も話さなかった。
王国の灯が一つ、また一つと夜の中へ浮かび上がる。
「皆が不安になっている。」
先に口を開いたのはセトだった。
サウラは小さくうなずく。
「分かってる。」
「死を知ってしまった。」
「……うん。」
それだけだった。
その事実だけで十分だった。
サウラは両手を見つめる。
この手は王国を作った。
けれど、人々から死を取り去ることはできない。
「私は魔法を持っているのに。」
その声は震えていた。
「何もできない。」
セトは少し考え、静かに答えた。
「君は世界を作った。」
「でも、命までは作れなかった。」
その言葉は責める響きを持っていなかった。
ただ事実を述べただけだった。
だからこそ、サウラの胸へ深く沈んだ。
翌日、王国では集会が開かれた。
広場には多くの人々が集まる。
以前なら祭りのような賑わいだった場所に、今日は静かな緊張が流れていた。
一人の青年が立ち上がる。
「王様。」
「どうしたの。」
「私たちは、どうすれば死なずに済むのでしょうか。」
広場が静まり返る。
誰もが同じことを知りたかった。
サウラは答えようとして、言葉を失った。
何も知らない。
魔法を授かった理由も。
この世界が何者によって作られたのかも。
死がなぜ存在するのかも。
知っていると思っていた自分は、本当は何も知らなかった。
「……ごめんなさい。」
その一言が精いっぱいだった。
「私には分からない。」
人々は責めなかった。
責めることはできなかった。
サウラもまた、自分たちと同じように苦しんでいることが伝わってきたからだった。
その夜。
サウラは一人、王国を離れた。
草原を歩き続ける。
あの日、最初に風の声を聞いた場所を目指して。
夜空には星が瞬いていた。
風は静かだった。
彼女は木の杖を胸に抱きしめ、空へ向かって語りかける。
「あなたは、誰なの。」
返事はない。
「どうして私に魔法を与えたの。」
沈黙だけが続く。
「この世界は、何のためにあるの。」
風が吹いた。
草が揺れ、長い髪が静かになびく。
サウラは目を閉じた。
初めてこの力を授かった時と同じ風だった。
しかし今、その風は祝福ではなく、答えを待つ静かな沈黙のように感じられた。
彼女はその場にひざまずき、夜が明けるまで動かなかった。
サウラが王国へ戻ると、人々の不安はさらに大きくなっていた。
「大丈夫。」
その言葉を何度繰り返しても、誰も安心できなかった。
死というものを一度知ってしまえば、以前と同じ世界には戻れない。
誰もが互いの姿を見つめ、自分の身体を確かめ、いつ崩れてしまうのかと恐れていた。
その恐れは、やがて疑いへ変わっていく。
「あの人が悪い。」
「違う、お前のせいだ。」
責任を押しつけ合う声が、あちらこちらで聞こえるようになった。
サウラはそのたびに駆けつけた。
「争わないで。」
「みんな同じ家族でしょう。」
けれど、その言葉は以前ほど人々の心へ届かなかった。
恐れは、優しさよりも早く広がっていく。
ある日、王国の広場で再び激しい争いが起こった。
原因は些細なことだった。
しかし、その争いは瞬く間に多くの者を巻き込み、大きな騒ぎとなる。
その中で一人が叫んだ。
「魔法があれば、何でもできるはずだ!」
その視線は、セトが預かっていた木の杖へ向けられていた。
「あれを持てば、王になれる。」
「いや、俺が皆を救う。」
「私ならもっと良い国を作れる。」
誰かが走り出した。
それを止めようと別の者が腕をつかむ。
さらに別の者が押し返し、広場はたちまち混乱に包まれた。
「やめて!」
サウラの叫びも、人々の耳には届かない。
セトは必死に人々の間へ入り、一人ずつ引き離そうとした。
「落ち着いて。」
「皆、サウラの願いを思い出して。」
だが、不安に支配された心は、その声さえ拒んだ。
杖へ手を伸ばす者。
それを押し返す者。
互いに身体をぶつけ合い、倒れ、また立ち上がる。
土でできた身体は、強く打たれるたびに崩れ始める。
一人。
また一人。
静かな音を立てて土へ戻っていった。
広場は土で埋まり、そこに立っていた人々の姿は次第に少なくなっていく。
中には争いではなく、自ら胸へ手を当てる者もいた。
「どうせいつか崩れるなら……。」
その言葉を最後に、自ら身体を崩してしまう者も現れた。
サウラは何度も駆け寄った。
土へ戻った身体を抱きしめても、もう誰も返事をしない。
彼女の涙は土へ落ち、小さな染みを作るだけだった。
やがて辺りは静まり返る。
怒鳴り声も、泣き声も消えていた。
王国を埋め尽くしていた人々は、ほとんど土へ戻ってしまっていた。
風だけが広場を吹き抜ける。
サウラは震える足で立ち尽くしていた。
その時、遠くからゆっくりと歩いてくる人影があった。
セトだった。
彼は一人だけ生き残っていた。
その歩みは重く、肩は深く落ちている。
サウラは急いで駆け寄った。
「セト!」
セトは力なく笑った。
「僕だけになっちゃった。」
その言葉には責める響きも、怒りもなかった。
ただ深い悲しみだけがあった。
二人は崩れた王国を見渡した。
家々は残っている。
畑もある。
城も立っている。
けれど、そこにはもう人の営みはなかった。
長い沈黙の後、セトがぽつりと尋ねた。
「僕って、本当にいるのかな。」
サウラは驚いたように顔を上げる。
「いるじゃない。」
迷いなく答えた。
目の前に立ち、声をかけ、悲しそうに笑っている。
それ以上、何を証明する必要があるというのだろう。
しかしセトは静かに首を振る。
「でも……。」
その身体の表面が、少しずつ崩れ始めていた。
腕の先から土がこぼれ落ちる。
足元にも小さな土の山ができていく。
サウラは息をのみ、慌ててセトの両肩へ手を伸ばした。
崩れ落ちる身体を抱き留めるように強く触れる。
「あなたはここにいる!」
必死だった。
この言葉だけは、絶対に間違っていないと思えた。
「ここにいるじゃない!」
セトはサウラを見つめた。
その瞳は優しかった。
どこまでも穏やかだった。
そして、かすれるような声で答えた。
「嘘だ。」
サウラは首を横に振る。
「違う!」
「本当は……どこにもいないんだ。」
その言葉を言い終えるより早く、セトの身体は静かに形を失っていった。
サウラの指の間から土がさらさらと零れ落ちる。
最後に残った顔も、風に溶けるように崩れ、やがて一つの土の塊となって地面へ横たわった。
サウラはその場へ崩れ落ちる。
両手で土を抱き寄せながら、声にならない嗚咽を漏らした。
王国は静まり返っていた。
聞こえるのは、風の音だけだった。
サウラは崩れた土を抱きしめたまま、長い間動けなかった。
王国は静まり返っていた。
かつて人々の笑い声が響き、子どもたちが走り回り、夕暮れには歌が聞こえていた広場には、今は風だけが吹いている。
家々は残っていた。
畑も残っていた。
王宮も、木々も、空も、何一つ壊れてはいない。
それなのに、誰もいなかった。
サウラはゆっくりと立ち上がり、王国を歩いた。
一軒の家へ入る。
食卓には器が並んだままだった。
窓辺には花が飾られている。
昨日まで誰かが暮らしていた温もりだけが残り、人影はどこにもない。
別の家を訪ねる。
そこにも誰もいない。
工房にも、畑にも、広場にも。
静けさだけが世界を満たしていた。
サウラは再び広場へ戻り、セトが土へ還った場所にひざまずいた。
指先で土をすくう。
その土は、初めて魔法を使ったあの日と何も変わらない。
違うのは、自分の心だけだった。
「どうすれば……。」
声が震える。
「どうすれば皆、幸せになれたの……。」
答える者はいない。
風も何も語らなかった。
サウラは静かに涙を流した。
涙は土へ落ち、小さな染みを作る。
一滴、また一滴。
それはまるで、この世界に残された最後の雨のようだった。
やがて空が暗くなっていく。
王国も、大地も、城も、すべてがゆっくりと闇へ溶け込んでいった。
サウラは目を閉じる。
その時だった。
どこからともなく柔らかな光が現れた。
小さな光は次第に強さを増し、彼女の身体を優しく包み込む。
眩しさに目を開けていられない。
世界そのものが白く染まっていく。
そして――。
サウラはゆっくりと目を開けた。
そこは草原ではなかった。
見慣れた白い天井。
静かな病室。
隣には母親が座っていた。
赤く腫れた目で、サウラの顔を見つめている。
サウラはしばらく母親を見つめ、それから静かに口を開いた。
「お母さん。」
「どうしたの。」
母親は震える声で答える。
「私のこと、愛してる?」
その問いを聞いた母親は、一瞬だけ目を閉じた。
そして迷うことなく頷く。
「愛しているわ。」
その言葉には飾りもためらいもなかった。
サウラは安心したように微笑む。
しかし、すぐに少し寂しそうな表情になった。
「でも、私……いなくなるかもしれない。」
病室は静まり返る。
「そうなったら、初めからいなかったことと同じじゃない。」
母親は首を横へ振った。
「そんなことない。」
その声は穏やかだった。
「あなたが生まれてきてくれたことは、なくならない。」
サウラは母親の目を見つめる。
母親も涙をこらえながら微笑んだ。
「お母さんは、神様は、あなたの側にずっといる。」
サウラは少し考えるように天井を見上げた。
「そうかな。」
「そうよ。」
短いやり取りだった。
けれど、その言葉には長い年月の愛情が込められていた。
サウラはふっと笑う。
どこか草原で笑っていた頃と同じ、穏やかな笑顔だった。
「私、お母さんに魔法をかける。」
母親も少しだけ笑った。
「どんな魔法?」
サウラは静かに答える。
「私に似た子供を、また産みますように。」
母親は涙をぬぐいながら頷いた。
「妹が欲しければ、何人でも産むわ。」
そして優しく続ける。
「あなたも仲良くしてあげて。」
サウラは小さく頷いた。
「いいよ。」
それが母親と言葉を交わした最後だった。
サウラは静かに目を閉じる。
苦しそうな表情ではなかった。
何か大切な夢を見終えた子どものように、穏やかな顔だった。
母親はその手を握り続けた。
病室には静かな光が差し込み、風が白いカーテンを揺らす。
それからサウラが再び目を開けることはなかった。
『晴嵐の神子(二代目)』
働くことも、自分の力で生活を組み立てることもできず、いつか両親と金を失えば餓死するしかないと考えていた日本人男性は、気がつくと中世ヨーロッパを思わせる異世界の都市に立っていた。自分は死んだのか、夢を見ているのか、それとも本当に別世界へ転移したのか。何一つ分からないまま、彼は街を歩くエルフや人々を眺める。所持金も住居もなく、現地の文字も読めない。剣術も仕事の技能も持たず、元の世界で得ていたわずかな生活の保障もここでは役に立たない。彼に残されているのは、天地の創造主ヤハウェと、その子イエス・キリスト、そして聖霊に対する独自の信仰だけだった。
彼は聖書のすべてを無条件に信じているわけではない。聖書には人間の編集や誤りも入り得ると考え、三位一体などの教理にも疑問を残している。それでも、イエスが神の子であり、十字架で死に、復活して今も生きていることだけは揺るがない真理だと確信していた。神の子は被造物ではなく、神の言葉として万物を創造する側に属する。父である神はその罪なき子を死者の中から起こした。したがってイエスの復活を信じることは、イエスの正しさと、彼を復活させた神の正しさを認めることだ――それが彼の福音理解である。死ぬことも生きることも自力では選べない彼は、この世界で自分に残された仕事があるとすれば、この福音を人に伝えることではないかと考える。
空腹に耐えながら街をさまよった彼は、最初に話しかけてくれた女性アイシャに、自分は異世界から来たことを告げる。さらに、この世界ではどのような神が信じられているのかを尋ね、主なるセロをはじめ複数の神々の名を聞く。彼はすぐにヤハウェとイエスについて語るが、アイシャにとっては見知らぬ男の見知らぬ信仰にすぎない。彼女は話を否定こそしないものの、彼を養ったり人生を引き受けたりはしない。宣教以前に食物と寝床が必要だという現実を前に、彼は自分の無力さを思い知らされる。
その後、彼は食堂の近くで日本人女性の大山星奈と出会う。星奈もまた、何年も前に日本からこの世界へ転移してきた人間だった。彼女は魔法学校で学び、現在は冒険者として依頼を請け負い、宿を転々としながら生計を立てている。異世界で暮らすための言葉、文字、貨幣、地理、魔法をすでに身につけている星奈は、彼とは対照的にこの世界へ適応した人間である。彼は本名を伏せ、自分を「東の魔法使い」、やがて「東魔法」と名乗る。まだ魔法を使えないのにそう名乗るのは虚勢でもあるが、元の自分から距離を取り、新しい役割を先に名乗ってしまう行為でもあった。
星奈は突然現れた同郷人を見捨てず、食事を与え、自分とは別の宿の部屋を取り、当面使える金や生活用品まで持たせる。東は初対面の彼女に早くも強い依存を覚える一方、彼女を単なる保護者にはしたくないと思う。彼は食卓で、自分の信じる神には独り子イエスがあり、イエスを信じる者には永遠の命があると語る。星奈は魔法の神セロズに親しみを持ち、魔法を与え暮らしを支える存在として感謝しているが、熱心な信徒というほどではない。それでも東の信仰をすぐに受け入れることはなく、自分の思いを変えるには時間がかかると答える。東は、彼女が自分を生かしてくれる人であると同時に、何としても救いたい最初の相手になったことを自覚する。
宿で一夜を過ごした東は、元の世界での自分を延々と思い返す。塾講師として働けた時期、小説を書けた時期、二〇二〇年に百日近くかけて作品を完成させ、それを自分の最高の仕事だと信じたこと。しかし作品はほとんど評価されず、やがて自ら削除してしまったこと。大学院を離れ、入院し、働けなくなり、父親の収入や制度に支えられて生きていたこと。彼にとって異世界転移は、能力を得て人生をやり直す祝福ではない。元の世界で避けていた問題が、生活保障を失った形で突きつけられた出来事である。それでも星奈が用意した部屋で眠れるという事実だけは、彼に今日を生きてもよいという猶予を与える。
翌朝、星奈は東を街へ案内する。市場、王宮へ続く道、乗合馬車、冒険者ギルド、図書館。東は彼女の後をついて歩きながら、この世界で自分が何を理解できず、どれほど彼女に頼っているかを知る。図書館では、星奈が世界史の本を読み、東に内容を訳して聞かせる。かつて世界は竜に支配され、魔術師たちは竜を退けるためフィーンと呼ばれる結界領域を築き、月の魔力を大地へ降ろした。その力は竜を滅ぼす一方、土地を砂漠化させ、後世の魔法使いたちは緑を回復させる役目を負うことになった。エルフの鉄の王国、ドワーフの青銅の王国、地上に残った人間と天空へ逃れた人間の争いを経て、現在のシゾアレドはシャルル王の治める結界都市となっている。
東は話し言葉こそ通じるが、書物に記された文字をまったく読めない。本を開いても暗号にしか見えず、世界の情報を得るには星奈という通訳を必要とする。そのことは彼に、自分が彼女なしでは知識にも制度にも接続できない存在だと突きつける。しかし同時に、月の魔力が大地を満たしているなら、自分にも魔法を使える可能性があるのではないかと期待する。図書館を出た彼は、自分も冒険者になれるかと星奈に尋ねる。星奈は、登録だけなら誰でもできるが、それで生活できるかは別だと現実的に答える。
二人は冒険者ギルドへ向かい、星奈の代筆によって東を登録する。現地で正式に用いられる名は「東魔法」となる。受付から身分証を受け取り、依頼の掲示板へ案内された東は、文字を読めないため仕事選びまで星奈に任せる。星奈が選んだのは、パトモスの森で薬草を集める依頼だった。東にとって異世界での初仕事は、魔物との華々しい戦いではなく、草を見分けて袋に入れる地味な採集である。それでも無職だった自分が冒険者という肩書きを得て、報酬につながる活動へ参加できることには小さな希望があった。
ギルドで二人は、星奈の魔法学校時代の先輩タルマードと出会う。タルマードはセロズの聖徒でもある魔法使いで、東に魔法適性があるか試す。東が炎の魔法語「タガラアハー」を唱えると、指先に小さな火が生じる。威力は乏しいが、魔法がまったく使えないわけではない。タルマードは彼に炎、土、氷の魔法を教え、古い杖まで譲る。東は魔法を仕事へ結びつけられれば、自分も星奈から独立して生きられるかもしれないと考える。しかし彼は命令を正確に守れず、危険な使い方をしかけて叱られ、反復練習にも自信を失う。資格を得ても実生活で運用できなかった元の世界の自分と、魔法を学んでも仕事にできるとは限らない今の自分が重なって見える。
その夜、東は一人で眠る寂しさに耐えられず、星奈に同じ場所で眠ってほしいと頼む。性的な関係を求めているわけではなく、ただ異世界で誰かが隣にいる夜を知りたいという願いだった。星奈は「何もしない」と言う彼を信じ、同じ寝床で眠る。東は小さな炎で彼女の寝顔を照らしながら、恋愛や結婚とは異なる形でも人と共にいる幸福は成立すると感じる。星奈は彼を愛する女性というより、彼に今夜を生き抜く理由を与える隣人であり、彼が現実世界につながるための唯一の橋になっていく。
パトモスの森での薬草採集では、二人の能力差が明白になる。星奈は短時間で必要な薬草を大量に集めるが、東の袋には雑草が混じり、何が正解かも判断できない。東は劣等感を覚え、女性に仕事で劣る自分には価値がないのではないかと考える。しかし星奈は彼を嘲らず、集めたものを選別し、仕事を完了できるよう支える。東にとって重要なのは、役に立ったか否かだけではなく、他者と共に一つの依頼を終えたという経験だった。帰還後も彼はタルマードから魔法を習い、炎と土と氷を繰り返し試す。魔法の光景は美しいが、それがどう生活費や人の命へ変わるのかは分からないままである。
東は自立を証明したい気持ちから、星奈に告げず一人で街を歩くことがある。道を完全には覚えておらず、文字も読めない彼の外出を星奈は心配し、勝手にいなくならないでほしいと叱る。公衆浴場へ行った東は、そこで出会った見知らぬ男に初めて現地人を相手とする本格的な伝道を試みる。天地の創造主ヤハウェ、神の子イェーシュア、十字架、復活、永遠の命について語るが、相手は「あなたの中では正しいのだろう」と受け流す。東がどれほど確信していても、それは他人には彼個人の信念でしかない。信仰の内容だけでなく、語る者自身への信頼がなければ言葉は届かないと知り、東は、自分一人の宣教には限界があることを痛感する。
浴場を出ると星奈が待っている。東は彼女に、自分が本当は死にたいこと、彼女がいなければこの世界で生きられないことを告白する。死んで新しい肉体と頭脳を与えられ、天国で永遠に働きたい。今の世界では生きているというより、死んでいない状態を延長しているだけだという。星奈は、自殺すれば自分が悲しむ、自分は東に生きてほしいと答える。東にとってそれは、神からの命令ではないが、目の前の人間から初めて明確に差し出された「生きてほしい」という言葉になる。
東はその返答に促されるように、これまで断片的に語っていた福音を星奈へまとめて伝える。人間と神の間には罪による断絶があり、一人の神であり一人の人であるイエスが仲介者となる。罪のないイエスは人々の罪のために死に、陰府へ下り、三日目に復活した。神がイエスを復活させたことは、イエスが正しく、その死が罪の贖いとして受け入れられたことの宣言である。ゆえに復活を信じる者は、イエスと神の正しさを認め、イエスの生き証人として永遠の命へ招かれる。そしてイエスを主、自分の主人として告白する者が救われるのだと説く。
星奈は、なぜ他の立派な人ではなくイエスでなければならないのかと問う。東は、イエスこそ旧約の預言を成就し、病人を癒やし、神の国を告げ、十字架にかかり、死を越えて復活した王の王だからだと答える。この世界にイエスが歴史的に来ていないとしても、全世界を造った神の子である以上、星奈とも無関係ではない。星奈は完全に理解したわけではない。それでも東の言葉と、自分を天国へ導こうとする彼の切実さを受け止め、「まだ完全ではないが、信じてみようと思う」と答える。やがて彼女は、イエスは今も生きており、自分の主人であると告白する。
星奈の回心は、東の内面だけに閉じていた信仰が初めて他者の中へ移った出来事である。東は、自分にもこの世界で果たせる仕事があったと感じる。しかし彼は、自分が星奈の上に立つ教師や司祭になったとは考えない。彼女は東から学びながら、自分でも考えようとする。父である神と神の子イエスが共に神でありながら神は一人だという関係、聖霊とは何者か、三位一体や両性説をどこまで信じるべきか。東自身にも答えられない問題が多い。彼は三位一体を完全な説明ではなく、人間が神を近似的に語るための言葉だと捉える。星奈も分からないことを分からないまま保留しつつ、イエスへの信頼を自分の信仰の中心に置き始める。
回心後、二人の関係は保護する者と保護される者だけではなく、同じ主人を持つ同志へ変わっていく。星奈は友人たちにも自分たちの神を伝えたいと言い、東一人の宣教が共同の仕事になり始める。同時に二人は冒険者として、魔力を帯びた猪サーガーグを討伐する依頼を受ける。東を安全に参加させるため、星奈は彼に実戦を想定した魔法の特訓を行う。ところが東の炎、氷、土の攻撃は、魔法語を重ねても威力を持たず、星奈のようには実体化しない。攻撃魔法使いとしての才能に期待していた東は失望する。
そこで星奈は結界魔法を試させる。東が杖を構え「フィーン・フィーネー」と唱えると、半透明の文字を帯びた半球状の障壁が現れる。星奈が土塊や巨大な岩をぶつけても、攻撃は境界で減速し、結界を破壊できない。敵を倒す力はなくても、攻撃を防ぎ、生き残り、仲間の仕事を成立させる力なら東にもある。彼は万能な英雄にはなれないが、星奈が戦う間、自分を守り、場合によっては彼女を支える結界使いになれる可能性を得る。これは、自分には何も生み出せないという彼の自己認識に対する、物語上最初の明確な反証となる。
雨の降るシゾアレドで、二人は魔法だけでなく神学についても語り続ける。東は「人は死ぬ」という真理に対し、「イエスは生きる」という事実を、死を覆す超越真理と呼ぶ。父は神、子も神、聖霊も神でありながら、神は一人であるという関係を、親子や夫婦、言葉と息などの比喩で説明する。星奈は東の説明をそのまま復唱するのではなく、神の言葉が肉体を持つことによって、形のない神を人間が知り、評価し、交わることができるのではないかと自分なりに考え始める。信仰は東の完成品を星奈へ移植するのではなく、彼女の中で別の言葉を得て育っていく。
二人は馬車を乗り継いでサーガーグのいる草原へ向かう。道中、東は御者に信仰を尋ね、イエスの死と復活を伝える。御者は自分の神サカタノカスを信じていると答え、東の話を受け入れない。すると星奈も、自分は以前セロズに親しみを持っていたが、今はイエスを主人と信じていると証言する。伝道そのものは失敗に終わるが、東は星奈が単に彼の言葉に従う信者ではなく、自ら他人へ語る共同伝道者になったことを知る。
草原の近くで星奈は転送魔法を使い、二人は一瞬で狩場へ移る。東はフィーンの結界を張り、星奈がサーガーグを拘束し、刃物で仕留める。東の攻撃魔法は役に立たないが、結界によって彼自身が戦闘を妨げずに参加でき、星奈は安全に討伐を完了する。二人は獲物に討伐の印を付け、シゾアレドへ帰還する。冒険者ギルドでは、文字を書けない東も星奈の助けを借りながら口頭で報告に加わる。薬草採集に続いて二つ目の依頼を終えたことで、東は自分が一人前になったとは思えなくても、少なくとも星奈と組めば仕事の一部を担えると知る。
帰還後、二人は冒険者として生活費を得ながら信仰を広めるため、自分たちの教会を作る構想を語り合う。建物や聖書や制度が先にあるのではなく、信じる者が集まり、祈り、教えを共有し、必要なら公衆浴場で洗礼を授けるところから教会は始められる。名称として「東と星奈のキリストの教会」という案まで出る。東は星奈にだけ本名を明かすが、この世界では引き続き東魔法として生きると決める。東魔法という名は、無力だった自分が魔法と宣教を仕事にしようとする決意の名になっていく。
宿で東は、星奈との関係について思い巡らす。自分は彼女を経済的に養えず、夫にも父親にもなれない。恋愛感情や性関係を持ち込めば、今ある均衡を壊すかもしれない。それでも二人は互いを「好き」だと認める。東の好きは、所有したいという意味ではなく、星奈に生きていてほしい、彼女が自分から離れてもその善意に報いたいという願いである。星奈も東を役割や能力で評価せず、東は東だと受け止める。東は彼女を抱きしめ、出会えて良かったと伝える。二人は恋人や夫婦になるのではなく、天国まで同じ主人に仕えたいと願う信仰上の伴侶、生活上の協力者として結び直される。
その後、東は再び夜の宿を抜け出し、受付をしていたマロウに話しかける。マロウは神を特に必要とせず、人は精一杯生きて死ねば消えてよいと考えている。東は彼に、イエスが人々の罪のために死に、葬られ、三日目に復活したという福音を語る。マロウはすぐには受け入れないが、長くこの世界で生きてきた星奈まで同じ信仰を持つようになったと聞き、少し考えてもよいと言う。東は次には星奈を連れてくると約束する。
無断外出を知った星奈は、東が自分との約束や信頼を軽く扱ったように感じ、もやもやを抱える。東は、人を愛したいという気持ちが先走ったと謝り、二人は関係を修復する。その食事の場で東は、自分の仕事と魂の価値を説明するために作った独自概念を星奈へ語る。人間の魂から、その人の仕事や行為の価値である「オーブ」が生じる。人間という一つの生命体には「グローブ」があり、集団や時代の雰囲気には「スフィア」や「アジャー」がある。同じ仕事でも、それを受け取る人々や時代によって評価は変わる。その価値の組み合わせを東はスキーマ、スキームと呼ぶ。
中でも、イエスの十字架の業から生じた「クロスオーブ」だけは、永遠かつ無限の命に相当する価値を持つ。地上で評価されなかった人間の仕事や善行も、クロスオーブに集められ、神の前で正しく報われる。これは聖書に書かれた教理ではなく、東が自分の人生を理解するために作った創作的神学である。誰にも評価されなかった小説、金にならなかった言葉、働けない自分の中で生まれた思索にも、受け手がいないから無価値なのではなく、神の前には保存される価値があるはずだと彼は考える。星奈は難解さに戸惑いながらも、東が何を守ろうとしてこの概念を作ったのかを聞き続ける。
やがて東と星奈はマロウの家を訪ねる。今度は東だけが一方的に説教するのではなく、星奈も自分の経験を語る。彼女は、もともとセロズに親しみを持っていたが、東から神の子イエスの死と復活を聞き、イエスを自分の主人として信じるようになったと証言する。神を信じるだけではなく、神と人を結ぶ仲介者としてのイエスが必要であり、その死と復活が自分にも関係すると考えるようになったのだと話す。マロウは復活の真実、罪の意味、天国と地獄の存在を疑う。しかし二人の言葉が単なる思いつきではなく、それぞれの人生を懸けた真剣な信仰であることには心を動かされる。
マロウは完全に納得したわけではないが、半分ほど信じてみてもよいと答える。東は理解が完成するまで待つのではなく、信じ始めたその意志を受け入れ、洗礼を提案する。三人は公衆浴場へ向かい、東は見よう見まねでマロウの頭に手を置き、「父、子、聖霊の名によって洗礼を授けます」と唱える。マロウは浴槽の中へ全身を沈め、再び水面へ上がる。儀式として正確かどうか東には分からない。しかしマロウは、イエスの復活を信じてみる、イエスは自分の王だと告白する。こうして東と星奈の教会に、異世界出身者として最初の信者が加わる。
東は次にタルマードやシャルル王にも伝えたいと考えるが、星奈はまずマロウを迎えられたことを喜ぼうと言う。東の信仰は依然として独善、疑い、神への不満、死への願望を抱えている。星奈の信仰も完成しておらず、マロウはなお半信半疑である。それでも、東一人の頭の中にしかなかった言葉は、星奈の証言となり、マロウの告白となり、三人の共同体へ変化した。東は初めて、自分の言葉が自分の内面を守るだけでなく、他者の言葉を生み出すことを知る。
新しい日、東と星奈は噴水のそばで、父である神の言葉が神の子であり、神の息が聖霊であるという問題を再び語り合う。東は、神の言葉が天地を創造し、肉体を持つイエスとなって人間の手を取り、神の息である聖霊が人を新しく生かすのだと説明する。星奈は、見えない神が言葉によって自分を表現し、その言葉が肉体を持つことによって、被造物である人間も神と交われるのではないかと応じる。彼女はもはや東の説明を聞くだけではなく、自分の理解で神の子を語る者になっている。
星奈は、かつては永遠に生きたいと思わなかったが、イエスのためなら永遠に生きてもよいと思うようになったと語る。東も同じだと答える。彼はなお天国へ早く行きたいと願い、現在の肉体と頭脳、働けなさ、神の沈黙を呪うことがある。それでも「死にたいから天国を信じる」という状態から、「星奈やマロウと共に信仰を育てるためなら、今を生きてもよい」という状態へわずかに移動している。彼の死への願望が消えたのではない。そこへ並ぶ形で、生きて続ける理由が一つ生まれたのである。
二人にはまだ教会堂も聖書も組織もない。東は文字を読めず、星奈なしでは手続きも移動も満足にできない。魔法使いとしても、東にできるのは主として結界を張ることだけである。しかし、敵を倒せなくても誰かの働きを守ることはできる。自分一人では生活を組み立てられなくても、星奈と組めば冒険者の仕事を終えられる。自分の言葉だけでは現地人に届かなくても、星奈が自分の言葉で証言すれば、マロウの信仰へつながる。この物語で東が獲得するのは万能な能力ではなく、自分の欠けを残したまま他者と一つの仕事を成立させる方法である。
東は星奈に「これからもよろしくお願いします」と告げ、星奈も同じ言葉を返す。二人は並んで街を歩き出す。物語は、異世界を救う英雄の誕生や、巨大な敵との決戦では終わらない。生きる能力がないと思っていた男が、保護してくれる一人の女性と出会い、魔法を学び、守る力を見出し、彼女を信仰の共同者とし、さらに一人の現地人へ言葉を渡したところで閉じられる。東にとっての「神子」とは、神から特別な力を授かって世界を支配する者ではない。自分の魂に生じた言葉を、疑いと矛盾を抱えたまま他者へ手渡し、その言葉が別の人の中で新しく生き始めることを見届ける者なのである。




