11 手遅れ悪役令嬢、夢を見る
帰って寝支度を済ませると、どっと疲れが押し寄せてきた。
小さな子供と全力で遊ぶのはかなり体力を使うのだ。前世では学生で未婚だったから知らなかった。マルゴさんはすごいな。毎日仕事と家事とコレットの世話、全部ひとりでやっているのだから。コレットと遊ぶだけでくたくたの私は素直にそう思う。
しかし体はくたくたになったけれど、コレットが元気になったのはうれしい。
それでも5歳のコレットにはショックだっただろうし、夜中に熱を出すかも、とマルゴさんは心配していた。熱、出してないといいな。泥棒が入ったのが私のせいという可能性が高いのに、これ以上マルゴさんたちに迷惑をかけたくはなかった。
せめて、明日も甘いパンをコレットに持って行ったら喜んでもらえるだろうか。そろそろクリームパンのような中身に色々入れたパンを作ってみたいと考えている。作り方はわかっているんだけど、ちゃんとできるだろうか。本当はチョココロネがいいんだけど、コロネの型の代わりになるものを見つけなければならないし。
私は欠伸を噛み殺しながらそんなことを考えて寝台に入ると、一瞬で安らかな眠りに落ちたのだった。
私は夢の中でも一生懸命にパンを焼いていた。生地を捏ねて成型して焼く。その一連の作業をひたすらに続けていた。
現実でもやっていることを夢の中でもやってしまうなんて、自分で言うのもなんだけど、本当にパンが好きなんだなあ、と思う。
不思議なことに夢なのに、パンが焼ける香りがちゃんとしている。夢なのにすごい。
けれど薪が湿っていたのか、少しだけど煙の匂いを感じて、パンにその匂いがつかないか心配になってしまう。
焼きあがったパンはそんな心配は無用だったほど、見事につやつやぴかぴかだった。うん、これなら絶対おやじさんも褒めてくれるはずだ。
夢の中なのが勿体ないほどの出来だった。現実でも早くこんなパンを安定して焼き上げたいなあ。
そう思いながら、私は焼きあがったパンを配り始める。
何故、これが夢の中だってわかるのかといえば、現実には絶対にありえない光景を見ていたからだ。
私の前には焼きたてのパンを受け取ろうとする人達がたくさん待っていた。
おかみさんにおやじさん、マルゴさんにコレットも……みんなニコニコしてパンを受け取っている。
そして……お父様、お母様。上のお兄様2人とエミリオも優しく微笑んで、私の差し出すパンを喜んで受け取ってくれる。
それから、エレナとマティアス殿下。二人はぴったりと寄り添って、私に微笑みかける。
だってこんなの、夢の中じゃなきゃ見られないもの……。
貴賎に関係なく、貴族の知り合いも下町の知り合いも入り混じって、みんなが美味しそうに私の焼いたパンを食べる。それは涙が出るくらい幸せな光景だと思った。
しかし、ふと、あの人がいないな、とその姿を探してしまう。
「クリス」
ふいに声が呼ばれて振り返った。
あ、やっと見つけた。……いつもは毎日来るくせに。
私は焼いたパンをその人――アンリ殿下に差し出す。
みんなが笑っているなかでアンリ殿下だけは笑っていない。だけどよく見ると、頰や唇がぎこちなくぴくっと動く。ああ、これが本当の彼の微笑みなんだ、と気がついて胸がいっぱいになった。
私は彼に特別綺麗な焼き色のパンを渡した。そしてその時に気がついた。
アンリ殿下のつやつやの髪の毛、パン色をしているんだ。とっても美味しそうに焼けたパンの色。私の大好きな色。
あれ、もしかして、私…アンリ殿下のこと……? いやいや、それはない、と思う。……多分。
そもそも私も『わたし』もろくに恋愛経験なんかなくて、よくわからない。恋ってどんな感じなんだろう。確か、エレナと恋バナをした時に聞いたんだった。
……なんだったかな。
ええと、胸が――
――ドキッとして目が覚めた。
「え……、今のなんの音?」
どこからかドンっというすごい音がしたのだ。
私は起き上がって、枕元の燭台に灯りをつける。
おかみさんがまた床を踏み抜いたとか? おやじさんがベッドから転がり落ちたとか? それともお隣の夫婦が恒例の夫婦喧嘩でもしている?
ガタンとか、ドタンって音がそこかしこから聞こえる。ただ事ではない。嫌な予感っていうのはこういうことなんだろう。不安と緊張で手が冷たくなっていく。
それにこれ、最初は気のせいかと思ったけど間違いない。……煙の匂いだ!
火事だ、と気がついて、血の気が引く。寝巻きのままストールだけ巻きつけて慌てて部屋から出た。
廊下には既に煙が充満していた。
「わっ! こういう時は、頭を低くして……」
前世での避難訓練を思い出して、ストールを口に当て屈みながら進む。
火元は厨房の竃だろうか……いつもおやじさんが火がちゃんと消えたかしっかりと確認してたのに。おかみさん達は先に逃げただろうか。火を消そうと危ないことをしてないだろうか。
でも消防車なんかないし、お隣に燃え移りでもしたら大変だ。下町は家と家が近い。長屋風になってる建物も多い。そのせいで火事になると延焼しやすいのだ。
それに、さっきの音はなんだったのだろうか。火事の時の爆発音か、延焼を防ぐために建物を壊してでもいるのか。どちらにしても早く逃げなくては危険だ。
煙を吸わないように体勢を低くしたまま廊下を進み、店の出入り口の扉を目指す。
白い煙で視界が悪い。
ふと比較的近くで扉の閉まる音がした。
煙でよく見えないけれど、誰かが向こうの部屋から出てきたのだ。だが、その部屋は誰も使っていなかったような……?
けれどパン屋には私を含めて3人しか住んでいないのだから、おかみさんかおやじさんのどちらかであるはずだ。
「おかみさん? おやじさん? 大丈夫ですか……?」
煙の中にわずかに人影らしきものが動くのが見えて、私は近寄ろうとした。
煙で視界が悪く、どちらなのか判断できなかった。
「あの、煙を吸わないように体勢を低くして」
私は最後まで言うことができなかった。
――ドスッという音がした。
「え……?」
ついさっきまで私がいた場所の床に、何かが刺さっている。近寄ろうと数歩、歩いていなかったら確実にそれが私に刺さっていたはずだ。
「ひ……っ!」
それが何かを理解して、ざわり、と背筋が寒くなる。
それは刃物にしか見えなかった。
大振りのナイフか何か。
床に深々と刺さるほど、研ぎ澄まされているナイフ。床に半分ほど刺さったナイフは、煙の中でも確かにギラリと銀色に反射した。
チッと舌打ちが聞こえて、我に返った私は逃げなきゃ、と思った。
咄嗟に身を翻して出口方面に走ろうとしたところで、すぐに左腕を掴まれ、逃げを封じられる。
誰だかわからない男に捕らえられてしまった。
「いや!離して!」
無骨な男の手は絶対に離すまいと私の腕を握り潰すような力で握ってくる。
身をよじっても離れそうにない。
強く握られたところがズキズキとひどく痛む。
侵入者であろう男は私の腕を離さず、私を引き摺ったまま歩いた。私の重さすら意に介さず、踏ん張ろうとしても無駄で、ずるずると引き摺られた。
男は床に刺さっていたナイフのところまで歩き、それを易々と引き抜いた。
それはナイフと言っても刃渡りが20センチ以上もあるような凶悪な代物だった。それを私に見せ付けるように振りかざす。
足がガクガクと震える。そんなもので刺されては生きてはいられないだろう。
男は振りかざしたナイフを一旦下ろし、無遠慮に私のことを眺め回した。
煙は先ほどから段々と薄れてきている。煙臭さは相変わらずだが、徐々に視界は戻ってきていた。
「へえ……いい女じゃねえか……こりゃあ、ただ殺すのは勿体無いな」
男のざらりとした声が鼓膜を震わせる。
聞いたことのない声だった。
そして何を言われたかを理解してざあっと血の気が引いた。
……殺されるのはもう確定なのだ。それだけでなくこの男はもっと酷いことを、私にしようとしている。
「いや……」
消え入りそうなほどのか細い声しか出なかった。
「やめて!」
さっきよりは大きな声が出たが、そんなもので男が怯むはずもない。
男は私の腕を掴んだまま引きずり倒した。
「うっ……!」
背中から倒れこみ、その衝撃に一瞬息が止まる。腕も打ちつけた背中もズキズキと痛む。
ずっと掴まれていた左腕はようやく離されたが、強く握られていたせいか痺れたように感覚がない。起き上がって逃げるのは無理そうだった。
薄くなった煙は上に上がる。床に寝転がった状態になったことでようやくはっきりと男の顔を見ることができたが、見たこともない人物だった。野蛮で粗暴そうな男。貴族でも下町の人でもありえない。そして、私のことをただの獲物として見ているような目だった。
何故こんな男が私を殺そうとするのか全く検討もつかなかった。
あんな刃渡りのナイフどころか、その太い腕だけでも簡単に私を殺せるだろう。
男は私にのしかかり、寝巻きの襟に手をかけ、引き裂く。ボタンが弾け飛んだ。
重い、苦しい。身動きができない恐怖と、生理的嫌悪感。
すぐ顔の近くに巨大なナイフがぎらつき、歯の根が合わないほどに震えた。
「いやあっ!助けて!」
がむしゃらに手を振り回しても蝿を追い払うかのようにあしらわれる。それでも抵抗を続けた。
突然、下卑た笑いを浮かべていた男の体がビクリ、と動きを止めた。
「あ……? なんだこりゃあ」
訝しげに私を見下ろしていた男の目が、憎々しげに変わる。
「クソ! 抵抗すんじゃねえよ!」
私を脅すように持っていたナイフをいよいよ振りかざした。
ああ、刺されるのだ、と私は瞬間で理解した。男の動きがスローモーションのように見える。
目を閉じようとしたその瞬間――
「クリス!」
……一番聞きたかった声が聞こえたような気がした。
突如、上に乗っていた男の体がぐらりと傾いで、体の圧迫感がなくなる。スローモーションのように感じていた時間の流れが戻る。
私は荒い息をしながら床に転がったままでいた。心臓が早鐘を打っているし、体中が痛くて動けそうにない。
私、助かったの……?
あまりに現実感がなさすぎて、これこそ夢でも見ているようだった。
頭がひどくくらくらする。煙を吸ったのか気持ち悪い。
本当はあまりに辛すぎる現実のせいで、幻聴でも聞こえているのではないだろうか……。
だってあの人が、こんなタイミングで助けに来るなんて……。
「アンリ……殿下……?」
もし夢じゃないのなら、あの黄水晶のような瞳が見たいと思った。けれど私の視界はどんどん暗くなっていき、やがて真っ暗になった。




