その19
居酒屋は途中で抜けることにした。具合の悪い私を係長が送り届けるという設定だ。
「おつかれさまー」「大丈夫?」店を出る前にかけられた言葉が少し後ろめたい。
タクシーを止めて二人で乗り込む。係長が運転手に告げた先は、黒葉さんの寝所へと繋がる御神木がある神社だった。
「……あの、その場所、どうして……」
走り出した車内の後部座席。あたしの疑問に、腕組みをして座ったまま係長はすらすらと答えた。
「うん、いろいろ知ってるよ。
黒葉君の正体も、君との出会いもハンバーグの事も。ああ、今はラーメンにハマってるんだってね」
「え……あ……ど、して」
「さて、どうしてでしょう?」
唇の端を上げ私を見た係長に、
「……あの、実は係長もカラスさんですか」
と私は意を決して尋ねてみた。途端に、ブホォ! と係長は吹き出した。
「や、やめ……いや、僕がいけな……うん、ぐ、ぶぶっ」
片手で腹を押さえ、もう片方の手はドアガラスにかかり。
笑わすつもりがないのに笑われるのって、非常に複雑な気持ちだ。私は唇を尖らせて係長を見た。
けれどまあ、おかげで少し車内の緊張がほぐれた気がする。
はあ、はあ、と大きく肩で息を付き、係長は呼吸を整えていた。
思い出し、私は先ほど奢ってもらったミネラルウォーターのボトルを取り出した。
「あの、これ」
「ああ、どうも」
口を付けようとして、一瞬係長の手が止まる。
「どうしま――」
尋ねる頃にはもう口が付けられて。
(あ……っ)
いや、私が渡してしまったのだけれど。
何だか少しだけ、気まずかった。
「――タネ明かしをするとね」
ボトルを膝上に置いたまま、係長が呟いた。
「以前、会社帰りに黒葉君が会いに来たんだ」
* * *
「ぬわー、どれを頼めばいいのかさっぱりわからん! とにかく美味いらーめんだ! おいかかりちょう、どれだ!」
メニュー表を見ながら黒装束の男が騒ぐ。
「辛いのは好きですか」
「好かん!」
「じゃ、ベーシックなこれにしましょう」
店員を呼び、係長と呼ばれた男はラーメンを二杯と餃子、それから瓶ビールを注文した。
(しっかし、ラーメン屋にその恰好って大丈夫なのか……)
豪奢な刺繍の入った黒い直垂に、金色の冠。それは流石に、と冠を脱がせようとしたが、
「こいつは命の次に大事なのだあああ!」
と駄々をこねて拒否されたのだ。
(黙ってりゃ、怖いくらいいい男なんだが……)
真剣にメニュー表の写真を眺める横顔を観察しつつ男は思った。女性のように滑らかな肌に黒い切れ長の瞳、すっきりした顔立ちは人形のようだ。
(実際、いい男なんだろうな。松田君が選んだ相手だ)
「おい、かかりちょう、この『ちゃーはん』というのは何だ!」
「米を炒めて味付けしたもんですよ。食いますか」
「うむ……うむ!」
きらきらと目を輝かせながら涎が垂れそうなほど頬を緩ませる顔を見て、
(……もしかして、保護欲か?)
と男は彼女の心情を思った。
「ううう、う、うま」
「静かに」
『ぅまぁぃ……』
黒装束の男が小声で訴えてきたので、笑い上戸のスーツの男は吹き出しそうになった。
「普通に言いなさい」
いつの間にか、敬語から保護者のような言い方になってしまっていることに彼自身も相手も気付いていない。
「いや、この世にはこうも美味いものがあるのだな……」
店員にもらったお子様椀に移した麺をずるずると啜りながら黒葉と名乗った男は感心したふうに頷いた。
「もしかしてあんた、ラーメンを食ったことがないのか」
「毎晩まつだの家で食わせてもらっている」
「……」
だん! と音を立ててコップを置き、手酌でビールを注ぎ飲む。
「おい、儂の分は」
「やらん」
ぶうぶう、と抗議が上がったがスーツの男は無視をした。
「――で。何だ話って」
「うむ、そうだった」
ふうふうと餃子に息を吹きかけながら黒い男はさらりと言った。
「松田の事だがな、儂は諦めることにした」
「おい、何だそれ」
「おおっ、『ぎょうざ』というものは、これまた、ほふっ、最高だな!」
「おい、こっち向いて話せ」
「嫌ひゃ」
もくもくと食べながら黒い男は呟く。
「まつだはなあ、それはもう可愛らしいんだぞ」
「……ああ」
「おまけに優しく、情が深い。大人しいが、しっかりと自分を持っておる」
「そうだな」
「きちんと料理もするし部屋は毎日掃除しとるし、何より笑った顔がなあ、たまらなく愛しいんだ。
おまけにいい声で鳴く」
スーツの男は唐辛子の瓶を取ると、黒い男の餃子の上にばっさばっさとふりかけた。
「ぶべべべべ! なんじゃこりゃああ!」
「お前は喧嘩を売っているのか」
「ここからが本題だ!」
舌を突出したまま氷水をがぶ飲みすると、
「――まつだを任せる」
と男は言った。
「……なんだ、いきなり」
「儂はな、深入り過ぎたんだ。
まつだを好いてしまった。真から愛してしまった。
このままだと、まつだは儂と同じものか、それ以下まで堕ちてしまう」
「どういう意味だ」
「のう、かかりちょう、お前を呼んだのは多少は気概のある男と見たからだ。
まつだを頼むでな。代わりに全てを話す」
そうして黒い男はスーツの男に自身の事を話してきかせた。
* * *
わんわんと、頭の中で何かが鳴っている。
「彼は、元は確かに神だった。
けれど遠い昔に罪を犯して降格されたんだ」
係長の言葉がなかなか上手く入ってこない。
「彼は日々の大半を小さなカラスの姿で過ごさねばならなくなった。それは神であった彼にとって大変な屈辱だ。
力をつけるためにはどうしたらいいか。
考えた末、彼は人間の娘を血肉までものにすることを思いついた」
「それが、私……なんですね」
係長は頷いた。
「もともと、彼はとても優しくて、とても抜けているだろう?
彼が犯した罪というのも、好きになった女に騙され、罪のない人間を知らずに幾人も殺めてしまったかららしい。
だから、今度は上手くやろうとした。
そうして、君を見付けた。その――、処女の……力というものは、強いらしいんだ。その相手を手籠めにして惚れさせ、名を奪い生き血を飲み、肉まで食えば神までとはいかずとも近い力が手に入ると、そう彼は算段した」
「無理です」
私は即答した。
「だって、黒葉さん、あんまり優し過ぎるんだもの」
「そうだ」
係長も頷いた。
「誰が聞いても無理だと分かっていることを、彼は本気でできると思い込んでいた。
そしてやはり、失敗した」
タクシーが山道に入る。
しばらく進むうちに道が悪くなり、ごとごとと車が揺れだす。
「そろそろだな」
係長は呟くと、運転手に止めるよう指示を出した。
タクシーが去り、私達は神社に向かって歩き出した。
神社には何度も黒葉さんと来ている。けれどそれはいつも彼の胸に抱かれて空を飛んでのことだ。今夜、初めて自分の足で彼の寝所へと向かう。
「結構急だな」
係長が背広を脱ぎ、私もジャケットを倣って脱いだ。
少し息が荒れてしまう。人間の足は不便だ。
やがて大きな鳥居が見え、ようやく神社についたのだと知った。
「ここです」
私が御神木まで走り、係長に案内する。
太い幹には紙垂がかかり、特に何も変わったところはない。
「お願い、黒葉さん」
私は御神木に身体を寄せると、そっと幹に頬擦りした。
「黒葉さん……開けて」
強く想いを伝えるうちに、やがて、ふうっと胸のあたりが温かくなった。見ると、小さな穴が開いていた。
「黒葉さん……!」
嬉しくなって幹にしがみつく。穴は少しずつ膨らんでいった。
「ああ、凄いもんだな」
感心したふうに係長が呟く。
「ここから、中に入ります」
私は振り返って係長を見ると、
「一人で行ってもいいですか?」
と尋ねた。
「君はそうしたいの?」
「はい」
「そう。では、行っておいで。
僕は君をここで待っているから」
「ありがとうございます」
私はぺこりとお辞儀をすると、穴の中へと入っていった。
ねじれたような空間を抜ける時、一瞬気持ちが悪くなる。
大丈夫、いつものこと。
言い聞かせながら通り抜けると、黒葉さんのお屋敷に出た。
なんだかとっても久しぶりで、また来られるなんて思っていなかったから、見た瞬間、ぎゅうっと胸が苦しくなった。
「黒葉さん……」
私はそっと名を呼びながら靴を脱いで上がりこむ。ひんやりした廊下をぺたぺたとストッキングで歩く。
目指すのは、一番奥の寝所だ。
その小さな塊を見た時、なんて愛らしいのだろうと思った。
ぎいぎい、とあどけなく鳴くのは、小さなカラスの雛だった。
「こんばんは……」
私は腰を曲げながらその雛に話しかけた。
「こんばんは、黒葉さん」
よたよたと真綿の寝床から這い出してきたのが彼なのだと、誰に聞かずとも分かっていた。
ぽよん。
雛は煙を出しながら、あどけない幼子に変身した。
「まつだぁ」
「黒葉、さん……」
涙が溢れ出す。手を広げると、男の子は胸に飛び込んできた。
「すっかり、可愛くなっちゃいましたね……」
「この身体は不便だ」
不満そうに綺麗な顔の男の子が眉をひそめる。
「私のせいですね……ごめんなさい」
「何を言う!」
胸に拳をあて、朗々と黒葉さんが告げる。
「儂はな、本当に消えるところだった! それをお前が救ってくれたんだぞ、えり!」
――絵里。
それが私の本当の名だ。
黒葉さんが消える直前に、呼んでくれた名前。
「名前で呼ばれるのって、何だか恥ずかしいですね」
「えりがはよう教えぬのが悪い」
「すみません」
ふふっ、と笑いながら私はもう一度ぎゅっと黒葉さんを抱きしめた。
「えりの名を知り、血を舐めていたおかげで儂の命のかけらが残った」
感慨深げに黒葉さんが呟く。
「もう儂には力がほとんどない。このまま人間としての寿命で生を終わりそうだ」
「いいじゃないですか、私と一緒に来ませんか」
「いや、だめだ」
きっぱりと告げた言葉に迷いはなかった。
「儂はこれから儂の人生を作らねばいかん。消えかけた時に上からの達しが聞こえた。
『更地にて人の労を学べ』と、な。
だからな、まつ……いや、えり。
儂は傷を癒した後、一人で人間の世を生きてみようと思う」
「でも、そんな子どもの恰好じゃ」
「大丈夫だ。これでも一応元神だ」
黒葉さんは得意そうな顔で胸を叩くと、ほほほ、と笑ってみせた。
「さて、えりがここに来れるのはこれで終いだ。
この道は閉じるでな」
ぐにゃり、と視界が歪みだす。
「黒葉さ」
「えり、幸せになれよ」
ぐにゃりと飴が溶けるように少年姿の黒葉さんも歪んでいく。
「黒葉さんっ!」
「さらばだ」
「くろばさん! ありがとう、私っ」
聞こえるかわからなかったけど、最後に思いきり大声で叫んだ。
「私、黒葉さんに会えてよかった!」
ストッキングの足裏に冷たい石の感触がする。吐く息が少し白い。
「――おかえり」
御神木の近くで係長が待っていた。
「ただい……ま」
言いながら、ぼろぼろと涙がこぼれるのを抑えることができなかった。
黒葉さん。
私、本当に黒葉さんが好きだったの。
恋なのか愛なのか最後までよくわからなかったけど、そんなのどうでもいいくらい、とってもとっても好きだった。
だから、いつか。
いつかまた、あなたに会いたい。
「帰ろう」
係長に手を差し出され、私は泣きながらその手を取った。
握ってくれた温もりに、付いてきてくれて良かったと感謝した。
きっと独りぼっちだったら、私はとても立ち直れそうにない。
「あの……ごめ、さい」
「いや。長期戦のつもりだから」
「?」
「こっちの話」
私は係長に手を引かれ、神社を後にした。
いつの日かまた、黒葉さんに会えるかな。
いつかまた、私も恋ができるかな。
――どうか、黒葉さんが素敵な恋ができますように。
* * * 7 years later * * *
「げー、また合コンキャンセルかよー」
歩道橋を渡りながら、あたしはぶちぶち文句を言って頭をかきむしった。
水沢優子、29歳崖っぷち。
顔は結構いいんだけど、男運がない。
ため息をつきながらスマホをしまい、腹いせにブランドバッグを振り回すと、そのまますこーん、と手から抜け落ちてしまった。
ごんっ!
結構重かったバッグの角が前を歩いていた少年の頭に当たり、その拍子に彼はががががががっ! と階段から転げ落ちてしまった。
「きゃーっ」
あたしは悲鳴をあげつつも、瞬時に辺りを見回す。
誰も見ていないよね? よね?
うし。
ほっとしつつバタバタと駆け下り、
「大丈夫ですか~?」
と心配そうに声をかけてみる。
ひいっ、頭から血が出ている。
やべ、はよ救急車呼ばないと。
震える手でバッグを漁っていると、手首をがしっと掴まれた。
「きゃっ」
「……り?」
「え、何何何、どしたん?」
「あ……」
少年は中学生くらいだった。頭から流れる血さえなけりゃ、すっごくキレイな顔をしている。
10幾つも離れているというのに、あたしは思わず髪の巻き具合を指先で直してしまっていた。
「あ……はい。はい、お願いしますぅ」
ぴ。
「えっと、もうすぐ救急車来るんで、ここでじっとしててね。おねーさんも一緒にいてあげるから」
「……いな」
「え?」
首をかしげたあたしに、憮然とした表情で少年が呟いた。
「そなた、ケバイな」
「……な、な」
「おまけに性格の悪さが顔に出とる」
「なんですってえええええっ!?」
――まさか、あたしがこんなヤツに恋をしてしまうなんて、この時は思ってもみなかった。
(OL松田とカラス旦那・おわり)
即興小説の恋物語、お付き合いいただきありがとうございました。
毎回タイムリミットに追われつつばたばたと執筆していましたが、楽しく書くことができました。
そしてエピローグの水沢さん。
はい、あの水沢さんです。
性悪女と元神の少年の恋物語、そりゃあもう平坦な道のりではないと思います。
けど水沢さん、ああ見えて意外と可愛いとこあるんですよ(たぶん)。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。