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20.目覚めた少女

 ──どこか遠く。ひとつ水面を挟んだような場所で、声がしていた。


「ああもう──いい加減に起きなさいったら。もう猫じゃないんだから、いつまでも寝てるんじゃないわよ。このままだと貴女のせいで国が滅ぶんだからね」


 聞き慣れた、それでもどこか焦燥に駆られた声がノエルの微睡んでいた意識に割り込んで、揺り起こしてくる。

 あまり快適とは言えない目覚めに、ノエルは眉を顰めた。起こされているんだから起きなくては、と自身を鼓舞しつつ、なんだか酷く重くなったような身体にその気概を奪われる。


 それでもその声があんまりしつこくノエルを揺り起こすものだから、ノエルは仕方なしに薄く目を開けた。


 ぼんやりとした視界に映るのは、馴染んだストロベリーブロンド。ああ魔女に起こされたのか、と理解して、それなら起きないともっと怒られてしまうかも、と思って。


 ──だからノエルは、手を付いて何とかゆっくりと身体を起こした。それにしても、どうしてこんなにも身体が重いのだろう。

 まるで、質量が何倍にでもなったみたいに──……くしくしと顔を洗ってから、まだぼんやりする視界を瞬いて散らして、魔女をゆっくりと見上げる。


 ──そうして目に入った赤色に、ノエルは思わず悲鳴のような声を上げた。


「魔女さん、どうしたんですかその怪我……っ! ……え、」


 ──いつもの、高くて頼りない鳴き声ではなくて。もう既に遠い記憶の中にある声が自分の喉から発せられて、ノエルは思わず喉を押さえた。


 首輪に触れるその感覚が、慣れた頼りない毛と肉球じゃなくて、戸惑いから自身の身体を見下ろして──……ノエルはそのルビーのような瞳を見開いた。


 自由に動く、日に焼けないせいで白い肌の四肢。耳と同色の長い黒髪に、身を守るように己に巻きつく黒い尻尾。


 ──もう酷く懐かしい、猫じゃない、獣人の姿。それを目にした瞬間に、ノエルの意識は靄が晴れるように鮮明になった。

 何があったのか、記憶が奔流のように流れ込んでくる。


 ──そうだ、私は元の姿に戻るために、アダン様の血を口にして──……


 何も着ていないせいか肌寒く、自身を抱き込むように手を回しながら、ノエルは顔を上げて周囲を見回した。

 酷く体が重いけれど、懐かしい獣人の姿に戻れたということは、ノエルの取った方法は成功したということだ。


 けれどそれを素直に喜ぶことができないのは、この姿になって一番に目にするはずだった愛する人がそばにいないから。

 それに──、何故魔女がここにいて、その身体は血に塗れているのだろう。


「ま、魔女さん……一体何が……て、手当てを……」


 こちらを薄紫の瞳で睨み下ろす魔女は、その喉を覆っていた蔦こそなくなっているものの、いつも艶やかであったはずのストロベリーブロンドはすっかり乱れて艶をなくし、その上、まるで頭から被ったかのように血まみれなのだ。


 ──否、魔女だけではない。効き始めた夜目で周辺を見てみれば、まるでノエルを取り巻くように周囲に赤が飛び散っていて血の気が下がった。


 一体何があったのか、荒れ果てた更地のようなここはどこなのか。


 青ざめたノエルが俄に混乱していると、魔女は舌打ちをして自身のローブをノエルに放り投げた。


「わぷっ」


「これは殆ど私の血じゃないわ。……色々言ってやりたいけど、説明は移動しながらよ。早く靴も履いて。貴女にはさっさとあの化け物をなんとかしてもらわないといけないんだから」


 頭から投げられたローブと放られた靴に慌て、ノエルが何とかそこから顔を出した時にはもう、魔女は背を向けていた。

 質問しようにも振り返る様子もなく歩き出してしまうので、ノエルは慌てて靴を慣れない手つきで履き、酷く重たい身体を何とか叱咤して立ち上がる。


 二足歩行の感覚に違和感を覚えるほどには猫に慣れきってしまっていたノエルは、気を抜けばふらりと傾ぐ身体で何とかバランスを取って必死に魔女の後ろ姿を追い始めた。


 もう二足歩行なんてできないんじゃないかと不安に思った時もあったけれど、流石に生まれ持った性質が勝ったらしい。

 次第に慣れて駆け足ができるようになった頃に、漸く魔女は口を開いた。


「今の状況を簡単に説明するけれど──貴女が一度死んでから、もう二日が過ぎてるわ」


「──え」


 何でもないように投げかけられた言葉に、ひゅ、と喉がおかしな音を立てた。


 ──あの日から。二日も、ノエルは眠っていた? 

 すっかりその場ですぐに目覚めると思い込んでいたけれど、そう言えば魔女はそんなこと一言も言っていなかった。


 す、とゆっくり血の気が下がっていく。指先が震えて、気を抜けば足さえもつれてしまいそうだ。


 だって──それじゃあ。あの時、ノエルの死を目にしたであろう、アダン様は。


 どくどくと、鼓動が嫌な音を立てて早まっていく。ノエルの心の声が聞こえたように、魔女は温度のない声で淡々と言葉を重ねた。


「番の死に狂った竜王アダンは──気まぐれにあちこちを破壊しながら飛び回り、爪で自分を切り裂いて竜の血を撒き散らした。最悪でしょう、見なさいよこれ。余程恨みがこもってるのか一度付着すると何をしたって落ちないのよ。そしてあの竜王が全ての血を失い命を落とすその瞬間に──この血は、何もかも焼き尽くす猛毒に変わる。そういう古代魔術が掛かっているの。自分の身もろとも、あの竜王は今、国を滅ぼそうとしているのよ」


 ──ノエルは、まるで息が止まったように。何も答えることができなかった。

 ノエルが目の前で命を落としたせいで……アダン様が、国を滅ぼそうとしている? 


 頭が真っ白になって、気を抜けば意識さえも白みそうになる。それでも、ノエルの胸を真っ先に埋め尽くしたのは、当然愛しい番の安否だった。

 魔女が己のものではないと言ったその血は、では全てノエルの愛しい番のものということになるのではないか。


 こんな、大量の血──……考えたくもないのに、どうやったって想像せずにはいられない。

 一体、どれほどの大怪我を、彼が負っているのか。


「……ア、アダンさま、アダン様は……今……」


 酷く震え、掠れた声に、それでも魔女は頓着することなく荒れてひび割れた道を踏む。

 ノエルは荒地だと思ったけれど、ここは元々舗装されていた道であったことを、それでもわざわざ説明する人間なんてこの場にはいない。


「…………元々、逆鱗の儀が間近だったために、準備に大量の血を失っていたせいでしょうね。……あとは、貴女の遺体を厳重に竜の血の結晶の中に閉じ込めていたからか。最初だけ暴れまわったあとは流石に弱ったみたいで、血を撒き散らしながら旋回するだけになったわ。そこを狙って私の同族──魔女達が、魔術で動きを鈍らせながら血を一定以上減らないように竜王の元に戻している。とはいえ完全に戻しても元気に暴れられたら魔女が何人いたってひとたまりもないもの、今は死なないぎりぎりを維持しているけれど、魔力的にも体力的にも、いつまでもってわけにいかないわよ。そもそも元の魔術耐性が高いせいで、効率が最悪なんだから」


 ぶわ、とノエルの毛が逆立った。獣人の姿に戻っても変わらないルビーの瞳の瞳孔が、きゅぅと音を立てて開いていく。


 ──アダン様が。ノエルの愛しい番が。ノエルの世界の全てが、死にかけている? 


 ……誰のせいだとか、後悔だとか自責だとか。全てどこかへと飛んでいき、ただ許せない、と思った。

 アダン様が命を落とすなんて、そんな世界、許せない。許さない。絶対に。


 番の生命に関して理性が効かないのは──……ノエルだって同じだった。


 変に頭が冴えて、逆に胃の腑が煮えたぎるような感覚がノエルを突き動かした。


「……アダン様は、どこに」


 一周回って、表情が抜け落ち静かな声で尋ねたノエルに、魔女はちらりと初めて一瞥を寄越し、それでも足は止めずに淡々と答えた。


「心配しなくても連れていくわよ。貴女の生存を自分の目で確認すれば、竜王も自身の命が尽きた瞬間に国が滅ぶような悪趣味な魔術は解除するでしょう。……ただ、もう転移ができるだけの魔力は私には残っていない。だからそのための魔道具のところに今向かっているの。国が滅ぶのを見たくなかったら──……いえ、貴女達の場合は、番が死ぬのを見たくなければ、になるのかしら。きびきび歩いてちょうだい」


 そう言いながら歩みを進める魔女の足取りは、それでもどこか疲れが見える。

 ノエルが二日も眠っている間、どれほどに大変な思いをしていただろうと想像して、ノエルは煮えたぎるようだった頭がほんの少しだけ冷えた。


 アダン様が──想像したくもないけれど、命を落としてしまったら、それと同時に猛毒に変わるという血を魔女は被ってしまったわけで。

 だから仕方なく対処してくれているのかもしれないけれど──……それでも、今魔女とその同族達のおかげで、ノエルのこの世の何より大切な人は息をしているのだ。


 ──魔女は、こんな言葉を掛けられたって嬉しくもなんともないかもしれない。それでもノエルは今更に、万感の思いでそれを口にした。


「……魔女さん、ごめんなさい、こんなことになってしまって──……それから、本当に、ありがとうございます。どんな理由でもいい。アダン様を、繋ぎ止めてくれて……」


「…………」


 ノエルの予想通り、魔女は何か返答を返すでもなく、こちらを見るでもなく。ただ一つ、小さくため息を吐いた。

 それが思ったほどには冷たいものではなかったから、ノエルは微かに目を瞬いた。疲れているせいだろうか。


 兎に角早くアダン様のところへ、と思考が周ったときに、魔女はふと顔を上げてこちらに視線を投げた。


「……そんなことより貴女、あの竜王の監視下にあって、一体どうやって死ぬことができたのよ」


「あ、……えっと……隙をついて、血を、拝借して……」


 流石に唇に噛み付いた云々は伏せて、ノエルは足を止めないままに簡単に説明した。

 あの時のことは多分落ち着いた状況で、かつ冷静な頭で思い返すと死んでしまいそうなほど恥ずかしくなると思うけれど、もうずっとそんなことを言っている場合ではないせいか今のところは平静を保てている。


 竜王の血は、魔力耐性のない生き物──例えばただの動物がそのまま口にすると毒になるという知識を、魔女が与えてくれた文献で知っていたから、それを利用したのだと説明しながら、ノエルはそういえば、と眉根を寄せた。


 アダン様が血を振り撒いたということは、この国の動物達は大丈夫なのだろうか。

 どんなに身勝手と言われようと、ノエルにとって世界よりアダン様の安全が一番大切なことには変わりないけれど、それでも気がついてしまっては憂いずにはいられない。


「──……竜王は、自身の血を意思によって自在に変質させることができる。今回竜王が振りまいた竜の血は、特殊な呪いに近い古代魔術が掛かっている代わりに、元の性質からは多少変質しているの。あの竜王が命を落とし、血に込められた魔術が発動するまでは、生物への影響は大きくないわ」


 ノエルの心配を読み取ったように、魔女は淡々とそう口にした。

 声に出ていただろうか、と思わず口を抑えたけれど、単純にノエルの考えていることが顔に出やすいだけだったようで、魔女は鼻を鳴らした。


 確かに動物達への影響が現時点では多くないことは良い知らせだけれど、それもいつまでもというわけにはいかない。

 それより何より、どこにどんな影響があるかなんて関係なく、ノエルはアダン様が居なくなるなんてことは絶対に、何があっても許容できない。

 魔女と話しながらも、ずっと、頭のどこかが煮え立つような感覚がしていた。


 ──……私の世界から、アダン様を奪うなんて、何があっても。誰であっても。

 ……そんなことになったら、ノエルはきっと、世界を呪わずにはいられない。


 無意識にゆらりと毛を逆立てていたノエルは、魔女の呟くような声に引き戻された。


「にしても……なるほど、血ね。道理でこんなまだるっこしい方法を取ると思ったわ。まあ、不幸中の幸いと言っていいのかしら……」


「…………? どういうことですか?」


 首を傾げたノエルに、魔女は物分かりの悪い生徒でも相手にするかのようなため息を吐いた。


「……あのね、竜王は本来その武力さえあれば、三日もあれば国くらい滅ぼせるのよ。竜王が抵抗すれば魔術にだって耐性があるから、魔女だって本来歯が立たない。血なんて振り撒かずにそのまま暴れ続けていれば良かったのに……それがわざわざ自分の血に古代魔術を仕込んで振りまいて、自分の死と同時に毒に変えるなんて何のメリットもないし、とんでもなく遠回りだわ」


 魔女の言葉に、ノエルは確かに、と首肯した。アダン様の安否にしか気が行ってなかったけれど、なぜわざわざ彼はそんな遠回りな方法を取ったのだろう。

 よりによって、自分を傷つけるような。そのおかげで、まだ国が無事でいるのかもしれないけれど──……


「……はぁ、その顔、分からないの? ──……全員、貴女と同じ死に方をさせてやりたかったんでしょ。ついでに、貴女の死因となった血を使い切ることで、後を追えて万々歳ってわけ」


「──」


 本人じゃないから分からないけど、まあ大体合ってるでしょ、と投げやりに言う魔女の言葉に、ノエルは声を失った。

 ……ノエルが、目の前でアダン様の血によって死んだから。彼は同じ方法で、国を滅ぼそうとしているというのだろうか。


 その上で、自身の血を使い切って死んでしまおうなんて……まるで、ノエルを殺した自身の血を厭うみたいに。

 ……後悔も、自責も、全てアダン様の命が保障されてから。そう思っても、胸が突き刺されたように痛んで、ノエルは思わず唇を噛んだ。


 視界が滲みそうになるのを必死で堪えて、ただひたすらに二本になった足を動かす。……泣く資格なんて、自分にはない。


 荒れた道を転ばないよう気をつけながらも魔女に続いて足早に進んでいくと、いつの間にか周囲を草木が生い茂り始め、鬱蒼とした木々が行手を阻むように視界を遮り始める。

 獣人の姿になっても夜目の効くノエルはなんとか道を進んでいるけれど、下手をすれば魔女と逸れてしまいそうだった。


 魔女は見ているというより何かの気配を辿るような足取りでひたすら真っ直ぐ道を進んでいき、その白い腕で顔にかかる草木を払う。

 そうしているうちに唐突に開けた視界に、ノエルは思わず目を見開いて足を止めた。


「……──湖?」


 凪いだ水面をノエル達の眼前に横たわらせるそれに、思わずそう呟いたノエルは、しかし次の瞬間にはそれが正しくないことに気がついた。

 だって──その水面は何も反射することなく、かといって周囲の暗闇を吸い込むわけでもなく、ただ底の見えない群青を映し出すだけだったから。


 アダン様の元へ転移するための魔道具の場所に向かっていたのではなかったのだろうか、と周辺を見回してみるも、そもそも他に何もないような場所ではそれらしいものが見当たるはずもなく。

 ノエルが魔女に尋ねようと顔を上げて──思わず目を見開いた。


「ま、魔女さん、何を」


 魔女は服を着たまま躊躇いなく、その小さな湖に足を踏み入れていたのだ。ほとんど明かりもない中、こんな深そうな湖に足を踏み入れるなんて自殺行為に等しい。

 泡を食ったノエルが魔女を止めようとして、けれど煩わしそうな表情で振り返られて口を噤んだ。


 少なくない時間を共に過ごして、何となく魔女の表情を察することができるようになったノエルには分かる。──これは説明が面倒くさいという顔だ。


「……この湖自体が、魔女の転移のために魔道具で作られたものなの。さっさと入ってちょうだい」


 早くしないと置いていくわよ、といってどんどん湖に足を踏み入れていく魔女に──まさか実は泳げないんですなどと弱音を吐けるわけもなく。


 流石に本物の猫のように水が嫌いなどということはないけれど、それでも普通にカナヅチなノエルはほんの一瞬だけ躊躇して──……それからひとつ息を整えると、黒い耳をへたらせつつやけになったように、勢いよくその湖へと飛び込んだ。


 勢いが良すぎて高く上がった水飛沫を魔女が頭から被ったけれど、ノエルがそれに気が付くことはなかった。

 なにせ足がつかないままどんどん沈んでいくのだから、人の心配などできる状況ではない。


 魔女は嘘を吐かない、それ以上に共に過ごした時間である程度彼女のことを理解して、今はつべこべ言わず従うべきだと覚悟を決めたけれど──それでもこのままアダン様の元へ辿り着けず溺れ死ぬのではないかという恐怖が湧き上がり、強く目を瞑って。


「──……ぷ、はっ……!」


 ぐるりと視界が回るような感覚がしたあとに、突然新鮮な空気が肺を満たして、ノエルは思わず何度か咳き込んだ。

 平衡感覚を失った中で、それでも見慣れたストロベリーブロンドが視界の端に映って、ノエルは何とか息を整えながら顔を上げる。


 呆れたような顔で腕を組んで立っている魔女の視線が突き刺さるのを感じながら、座り込んでいたノエルは慌てて立ち上がり砂を払った。


 湖に飛び込んだはずなのに、不思議なことにどこも濡れてはいない。

 そういえば水に入った時も冷たくはなかったな、と思い返してから、ノエルははっと周囲を見回した。そうだ、そんなことはどうでもよくて。


 目に入る範囲に広がるのは、湖に入った時とはまた違う青白い木々に囲まれた場所。

 けれど夜目の効くノエルは気がついてしまった──あちこちに、赤いものが飛び散っている。


 心臓が鷲掴みにされたような気になって、ノエルは魔女を振り仰いだ。

 ──……アダン様は。私の全ては、一体どこに。


「……まだ少し歩くけれど。でも、猫の獣人は夜目が利くんでしょう。それなら、多分見えるはずよ」


 ノエルの疑問を汲み取った魔女はため息交じりにそう答え、す、とその嫋やかな指先を上げて一方向を示した。


 つられるように、獣人に戻っても変わらずルビーのような輝きを放つノエルの瞳がその指先を追い空を見上げ──そこに浮かぶ赤い月と、同じ色の瞳が交錯する。その、間に。


「──!」


 思わず、悲鳴が喉をついた。耳と尻尾の毛がぶわりと逆立って、ルビーの瞳の瞳孔が開く。


 ──月の赤い光を背負うようにして、ノエルはそこに、何よりも恋しい黄金の色を見た。

 彼の完全体の竜の姿を見るのは初めてだけれど、愛しい番のことをノエルが分からないはずがない。


 月を覆い隠してしまいそうなほどの巨躯にそれに相応しい翼、鋭い鉤爪、黄金の色を反射する強靭な鱗。

 獣人を束ねるに相応しい、どんな者であろうと平伏させるその威厳に満ちた姿。


 それが──今は身体のあちこちから夥しい量の血を流しながら、ぐったりとその身から力を抜いて、ぴくりとも動きもしない。

 その身を空中に吊り上げるようにして縛めているのは、その巨躯さえも埋めつくしてしまいそうなほどの大量の魔法陣だった。


 時折竜の体躯からこぼれ落ちる血の動きが止まり、その魔法陣に吸い寄せられるようにしてその体へと溶けるように吸い込まれていく。

 けれどそれでも、ノエルの目には流れ出ていく血の方が圧倒的に多いように見えた。


 虚に閉じられた、ぼろぼろの黄金の竜の瞳。それでも、ノエルはその色を知っている。

 ノエルにその温度だけで幾度も愛情を伝えてくれた、複雑な虹彩の──この世の何よりも美しい、エメラルドのいろ。


 虚に閉じられたそれが記憶の中のそれと重なった瞬間に──ノエルは、気が付けば何を考える暇もなく、今にも震え出しそうな足を叱咤して駆け出していた。

 魔女に慌てたような声を掛けられた気もしたけれど、もう全てが、思考を通り過ぎていく。


 ──アダン様。アダン様。アダン様。…………私の、全て。


 身体だけではなく、意識の全て、魂の全てが、ただ一心に彼に向かっていた。

 言いたいことが、伝えないといけない気持ちが、沢山、数えきれないほどある。謝らなければいけないことも。


 ……だからお願い、どうか。どうか。


 らしくなく何度も祈り、何度も転びそうになりながら、ノエルは夜の森を全力で駆けた。


 ただ──愛しい番ともう一度出会う、その願いだけを胸に抱いて。


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