18.選び取る未来
俺と、逆鱗の儀を。──……頷いてくれるよね、ノエル 。
優しく、それでも有無を言わせない口調で請われたそれに、ノエルはルビーの瞳を見開いて言葉を失った。
ノエルの動揺はアダンにも伝わっているだろうに、彼に頓着する様子はなくて。
拒絶も、頷くこともできないノエルに、アダンはゆるりと口角を上げた。
「君は魔女の使い魔だったんだ、きっと知っていると思うけれど──……一応説明しておこうかな。逆鱗の儀は、竜人が番と寿命を分け合うために、一生に一度、その名の通り逆鱗を用いて行う大掛かりな儀式のことなんだ。大量の竜人の血液、時間のかかる複雑な古代の魔術構築、それを染み込ませるための広い土壌……なによりこれが一番重要だけれど──……儀式の最中に、番の同意が求められる。これら全ての条件を満たして初めて、逆鱗の儀は完遂される」
軽やかにそう誦じたアダンは、けれど決して笑っていない瞳で動揺を隠せないノエルのことを一心に射抜いていた。
喉元を撫でていた指先が、掬うようにそっと、ノエルの前足を持ち上げる。
されるがままのノエルは、その前足に口づけられたことではっと我に返り、慌ててその前足を引いた。
愛おしい番に前足とはいえ口づけられたという羞恥と、毎日清浄の魔術を掛けてもらっているとはいえ汚いという思いから反射でしたことで、ノエルは振り払ったようになってしまったことをすぐに後悔したけれど、アダンは無理にその前足を取り返すでもなく、ただ昏い光をそのエメラルドの瞳に宿して微笑みを浮かべた。
「──……勿論、君にとっても悪い話じゃないよ。あの魔女は人間だけれど、まだまだ長い寿命を残している。けれどノエルが……もし、普通の猫として寿命を、……全うするようなことがあれば。その時点で、俺はあの魔女の安全を確保する理由がなくなる──それは、困るんじゃないかな? ノエル」
──かつて、竜人に見染められたばかりに祖国を滅ぼされ、何をしてでも逆鱗の儀を拒み続けた姫君。
番の生命より大切なものなど竜人にはない、きっとその竜人も同じように躊躇いなく、何人でも何百人でも、人質くらいとって見せただろう。
「お前が頷かないのなら、この国の罪なき子供たちが何人も死ぬぞ」──想像するのも容易い陳腐な言葉だ。
それでもその姫君が頷くことがなかったのだとしたら、その理由はひとつ。
……姫君にとっての守りたい大切なものは、全てとうに滅ぼされた祖国にあったのだろう。
いっそ、竜人の住まう国に属するものは全て憎くて、どうなろうと知ったことではなかったのかもしれない。
遠い過去のことだ、全ては想像にすぎないけれど──それでも、歴史とは過去の轍を踏まないために学ぶものだ。少なくとも、アダンにとっては。
……──だから、約束に違わず、あの憎き魔女はまだ、アダンの意思に反して息をしているのだから。
猫には、人間のような表情の動きはない。それでも、狂おしいほどに愛おしいその存在のことを知りたくて、アダンはずっと、ずっと、ノエルのことを観察してきた。
今なら出会った頃より何倍も深く、ノエルのことが分かると胸を張って言える。
──意外と臆病で、けれど思慮深くて、情が深くて。一度これと決めたら、それを貫く頑固さが垣間見えて。
そういうことをひとつひとつ心に刻み込むたびに、アダンは泣いてしまいそうなほどに嬉しかった。
かつては番が持つ色の一つでも知ってから死ねたら、と考えていて、それすらも夢物語だと思っていたのだから。
そうして大分読み取れるようになった、表情よりよほどノエルの雄弁なルビーの瞳をじっと、アダンは観察して──……そこに浮かぶ感情を正しく読み取ると、ギリ、と密かに奥歯を噛み締めた。
──戸惑いと、困惑。恐怖と、悲しみ。
惜しみなく偽りの愛をアダンに注いでいるときは影も形も見えないそれが、動揺からかまざまざとノエルの瞳に浮かんでいた。
……当たり前だ。本当は嫌悪している相手と、実質魂を補い合うような儀式を誰が好き好んでしたいというのだろう。
ノエルからすれば、己の寿命分しかなかったはずの刑期が引き伸ばされるようなものに違いない。
……可哀想に、ノエルは主人と定めたあの魔女を、助けたかっただけなのだろうに──そう傲慢に哀れみを囁く理性は、しかし無意識に口元に浮かべていた歪な笑みに塗り替えられて消えていった。
ノエルが心底、アダンのことを嫌っているのだとしても──……そんなことは最早どうでもいい。
偽りの愛を飲み干し、空虚で腹を満たして生きると決めたあの時に、躊躇いなどとうに消え失せた。
──……何があろうと。このちいさな黒猫を逃してたまるものか。生き物としての天命になどくれてやらない、冥界の王にさえも、指一本触れさせない。
アダンの生が燃え尽きるその瞬間まで──否、尽きた後も。この美しい黒猫の居場所は、この竜王の隣にしかありはしない。
「……大掛かりな儀式だから、準備にはもう少しだけ時間がかかってしまうけれど……丁度それが、一番月が美しく、赤く見える日と重なりそうなんだ。だから──その日までに、どうか覚悟を決めておいて、ノエル。……俺の、この世の何より愛しい番」
酷く優しく、一度だけノエルの頭を撫でて。静かにアダン様が出ていった後の沈黙ばかりが落ちる部屋で、ノエルは呆然と佇んでいた。
その間も脳裏を何度も反響するのは、先ほどの酷く、切なそうなアダン様の言葉と、それから──かつての魔女の声。
『貴女、視覚や封印しきれなかった能力に関しては獣人の頃のものに寄っているけれど、今はほとんどただの猫なのよ。ただの猫が番なんて前例がないから向こうは知らないでしょうけど、その状態じゃ逆鱗の儀はできないわ』
『その姿のまま竜王の元に戻って、長くても20年かそこらで死んでみなさい。それがあの竜王と──下手をすればこの国の寿命よ』
……焦燥に駆られながら、どうにかしないとと幾度も思いながら。それでも、ノエルはどこかでこの歪でありながら平穏な日々が、いつまでも続くような気がしていたのかもしれない。
だから、突然タイムリミットを言い渡されて、まるで頬を張られたみたいだった。
──……ノエルだってできることなら、複雑なこと全部を忘れ去って、その言葉にこれ以上ないくらいに喜んで、アダン様の胸に飛び込んでしまいたい。
アダン様は魔女の安全のために、ノエルが頷くだろうと考えているようだったけれど──そもそもノエルがアダン様とずっと一緒にいることを、そんなこの上ない幸福を、拒む理由があるはずないのに。
けれど、拒もうと拒まなかろうと、実際はノエルがこのちいさな黒猫の姿でいるうちは、逆鱗の儀を行うことはできないのだ。
そんな大掛かりな準備をしてまで儀式をノエルと行うことを望んでくれたアダン様は、それができないと分かった時、どれほどに落胆するだろう。
せっかく、せっかく会えたのに、長命種にとっては瞬きほどの間で番の命の灯火が消えてしまうと知ったなら。
あの日、静かな眠りの中で零れ落ちたアダン様の涙を思い出して、ノエルは鈍かった胸の痛みが刺すように鋭くなるのを感じて、思わずぺたりと蹲ってきつく目を瞑った。
──嫌だ。いつ元に戻れるかわからない日々の中で、ずっとそんな悲しみを、絶望を彼に与え続けるくらいなら──……私は。
どれくらいそうしていたのだろう。ノエルは、ゆっくりとそのルビーのような目を開いた。
そこには、強い決意が輝きを帯びて浮かんでいる。
……本当は。この方法だけは、決して選びたくなかったけれど。
窓のないこの部屋からでは、月の状態なんて分からない。だからアダン様の言う「準備」が具体的にあとどれほどかかるのか分からないけれど、あの口ぶりからすると恐らくもうあまり猶予はない。
そうなれば、もう躊躇っている場合ではなかった。
……きっと、彼をとても傷つけてしまうことだけは、凄く、凄く心苦しいけれど。それも、きっと一瞬のことのはずだから。
元の姿に戻ってから、ノエルができる全身全霊で、彼に贖罪をしてその心を癒すしかない。
「……にぃ……」
ごめんなさい、アダン様、と。一度だけ小さく、掠れた声で鳴いて。それを契機に、ノエルは必死で思考を巡らせ始めた。
この方法を使えるチャンスは、ただの一度だけ。だからこそ、絶対に失敗するわけにはいかない。
ノエルが自分を甘やかしていたから、こんなにも突然に期限を突きつけられることになってしまった。だからもう──……後回しにはしない。
決行は、明日。彼が、部屋に戻ってきた時だ。
──……どうか。どうかうまくいきますように、と願って、ノエルはもう一度目を瞑って身体を丸め、何度も何度も脳内で手順を反芻した。
そうしているうちに、ゆっくりと意識が沈み始めても、夢の中でそれを繰り返すほどに。
……真綿で包まれたような夢の中、元の姿に戻ったノエルは、酷く嬉しそうにエメラルドの瞳を蕩かせたアダンの腕の中で、これ以上ない幸福を味わっていた。
──ノエルに、逆鱗の儀を乞うてから初めて部屋に戻った後。
もしかしたらこれを機に、ノエルが魔女の身の安全と引き換えにしている「アダンを愛するふり」に、罅が入るんじゃないかと思ってアダンは微かに怯えていた。
勿論ノエルがどんな態度を取ろうと、アダンのノエルへの態度や想いが変わるなんてことは絶対にあり得ない。いっそアダンが本人がそれを望んだとしても、そんなことは不可能だ。
けれど魔女の使い魔だっただけあって演技の上手いノエルは、これまで完璧にアダンを騙し通してくれていたから、アダンは既に完全にそれに依存していた。
ノエルの甘い声が、蕩けたルビーのような瞳が、ちいさなその身体で必死になってアダンに擦り寄るのが、おかしくなりそうなくらいに可愛くて、愛しくて。
だからそれに影が差したらと思うと胸が苦しくて、部屋に入る前に深呼吸しなくてはならないほどだった。
けれど、おそるおそる部屋に戻ってみればいつもよりもずっと早い時間にも関わらず、ノエルはすっかり丸くなってぷうぷうと息を鳴らしながら寝入ってしまっていた。
肩透かしを食らったような、安心したような気持ちで照明を落としつつ、引き寄せられるように足は愛しい番の元へ向かう。
アダンが目の前に来た瞬間にノエルが身動ぎをしたものだから、起こしてしまったかと一瞬焦ったけれど、どうやらただ寝返りを打ちたかっただけらしい。
もぞもぞと黒くて小さい手足を頼りなく動かして、無防備に腹を見せて寝転がるあまりに愛らしい姿に、アダンは何もかも忘れてどろりとそのエメラルドの瞳を蕩かせて、気づけばその手を伸ばしていた。
──とくん、と、指先にちいさくて、速い鼓動を感じて。ふわふわで、あたたかくて、幸せを固めたみたいな感触がして。
最初にノエルに出会って、手を伸ばした時と寸分違わない感想を抱いたことに気がついて、アダンは苦笑を浮かべた。
あの日胸に湧き上がった狂喜を、幸福を、忘れられた日など一度もない。……当然、その直前、番との出会いを諦めることを強いられた絶望と狂気も。
だからこそ、この手の中にある幸福を、アダンの命そのものを、喪うのが恐ろしくてたまらなかった。
想像しただけでも、正気がいつかのように奈落へと落ちていきそうなほどに。
でもその別れに怯える日々も、もうすぐ終わりを迎える。
──例えそこに、ノエルの本当の意思がなかったとしても、もう構わない。ただ片時も離れることなく、ずっと彼女の傍にいたい。
祈るように、ただ一度だけ指先で酷く優しく、ノエルのちいさな額を撫でて。
それがくすぐったかったのか、むにゃむにゃと口元を動かすノエルの平和な表情に馬鹿みたいに許された気になって、アダンは目元を緩ませた。
──月が愛しい番の瞳の色に染まるまで、あと少し。……それが、こんなにも待ち遠しい。
愛しい番に倣い、少し早めに寝台へと横になったアダンは、それでもノエルの無防備な寝息に誘われてか、ゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた。
そうして愛しい黒を纏った子猫と同じように、真綿に包まれるような夢を見る──愛おしい番と、永遠に共にある幸福な夢を。
──……そうして、運命の日はやってくる。
ふわりと浮き上がるように意識が鮮明になっていったノエルは、何度か眠たげにそのルビーの瞳を瞬かせた。
起きなければと、ぼんやりする意識の中でも急かされたような気になって、目覚まし代わりにくしくしと頼りない前足で何度か顔を洗う。
そうして漸く昨日何があったのかを思い出して、ノエルははっと顔を上げた。
──……そうだ、アダン様に、次に月が赤くなる日に逆鱗の儀を執り行うと言われて──それで。
確かめるように部屋を見回すと、ぱちりと音を立ててエメラルドとルビーの視線が交錯した。
思わずびくりと肩を跳ね上げたノエルと同じように、こちらを見つめていたアダン様もまた、少しだけ目を見開いて。
──それから、いつものようにふわりと、柔らかい笑みを浮かべた。
「……おはよう、ノエル。いつもより早いけど……もうご飯にする?それとも、もう少し寝ていたいかな」
どこか窺うようなその声と、エメラルドの瞳の奥の微かな怯えを見てとって、ノエルはきゅうと胸が締め付けられた。
多分、昨日のことでノエルがどう思ったのか、不安がってくださっているんだろうということが分かるくらいには、ノエルはアダン様と共に過ごしてきたのだ。
そんな心配は取り除いて差し上げたくて、ノエルは殊更に甘く鳴いて、寝台を飛び降りて駆け寄るとその足元に擦り寄った。
「にゃぁ」
アダン様とご飯がたべたいです、と、伝わらないと知りつつ鳴いて示してみせると、アダン様は微かに強張っていた表情を緩めて、そのエメラルドの瞳に安堵を浮かべた。
しゃがんでノエルの背を優しく、慎重に撫でながら、その口元に酷く切なげな、淡い笑みを浮かべて。
「……ノエルはすごいね。本当に……」
首を傾げたノエルに、アダン様はなんでもない、と首を横に振って。それから食事を用意するね、とノエルに微笑みかけた。
──すっかり馴染んでしまったアダン様の隣で、いつもと同じように、アダン様が用意してくれた頬が蕩けてしまいそうなほどに美味しい食事をゆっくりと味わって。
それから暫くしてアダン様が、何度も名残惜しそうにこちらを振り返りながら、ノエルに見送られて部屋を出ていく。
いつも通りだった──少なくとも、ノエルの心情を除けば。このちいさな黒猫の姿になってから、鼓動はずいぶんちいさく速くなってしまったような気がするけれど、今日はその比ではない。
気がつけば呼吸さえおかしくなってしまいそうで、ノエルは落ち着けと自分に言い聞かせながら深呼吸を繰り返した。それでも、そう簡単に緊張は引いてくれない。
チャンスがただの一度しかないというのもそうだけれど──……この方法は。
成功したとしても……アダン様の目の前で、命を落とすことになる。……それも、きっと酷く、彼を傷つけて。
そうと分かっていながらこれを決行するのは、自分が一度命を落とす恐怖よりも余程、ノエルのちいさな胸に苦痛をもたらした。
愛しい番を、本当は傷つけたり悲しませたりなんてしたくない。それでも、ノエルの貧弱な頭ではもう、これ以外に方法は思い浮かばなかった。
ごめんなさいと、何度でも胸の中でアダン様に謝罪を繰り返しながら、それでもノエルはその傷を背負う覚悟を決めて顔を上げた。
何度も何度も、脳内で反芻するのは──……魔女の元で暇を持て余していたときに与えられた、竜人に関する文献。
知識は力であり、己の身を守る術であると教えてくれた両親に、ノエルは深く感謝していた。
この知識を持たなければ、ノエルは成す術なくアダン様の元で短い寿命を迎えていただろうから。
じりじりとした気持ちで、何度も深呼吸をしながら、ノエルはうんともすんとも言わない扉を見つめていた。──……あの扉が、開いたら。
その時が、アダンとノエルの命運を左右する、勝負の始まりだ。
まんじりともしないまま扉を見つめて、どれほどに時間が経っただろう──どうしようもない猫の本能から、あれほど緊張していたのも忘れて多少うとうとし始めた頃に、きぃ、と扉の軋む音を聞いてノエルはそのちいさな黒い耳をぴんと立てるとはっと顔を上げた。
当然ながら、この部屋に入ってくる人物は一人しかいない。扉の隙間からノエルの大好きな金色が見えて、きゅうと胸が締め付けられた。
ノエルが出迎えに出るのはいつものことだけれど、流石に扉の真ん前に座り込んでいるのは珍しいからか、戻ってきたアダン様は微かに目を見開いて、それから酷く嬉しそうにエメラルドの瞳を緩ませた。
「……ただいま、ノエル。どうしたの? お腹が空いた?」
ノエルと目線を合わせるために屈んで、そっと優しく頭を撫でてくれるアダン様に、いつもであればとめどない喜びが湧き上がるのに、今はまるで刺されたかのように胸が痛む。
それでもそれを悟られることのないように、ノエルは肯定するように高く鳴いた。
実際には緊張から食欲なんてなかったけれど──これも必要なことだから。
その膝に擦り寄ってしきりにお腹が空いたというように鳴くと、アダン様はふわりと頬を緩めて、少し待ってね、と言いながら立ち上がった。
「ごめんね、今ご飯を用意するから……ノエル?」
「みー」
ととと、と軽やかな音を立てながら、ノエルは背中にアダン様の視線を受けつつ早足で棚に向かうと、そこに両方の前足をつけて立ち上がり、アダン様を振り返って呼ぶように鳴いた。
その棚は以前、アダン様がノエルのために猫用のとても美味しいチーズを取り出してくれた場所だった。
訴えるようにちょいちょいと前足を動かしながら甘えるように鳴き続けると、意図を察したのか目を瞬いていたアダン様はふわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ああ……まだご飯には少し早いと思ったけど、もしかしてこの間のチーズ、そんなに気に入ってくれたの? 嬉しいな。今出してあげるから、少し待ってね」
そう嬉しそうに甘い声で囁いたアダン様はにーにーと急かすように鳴くノエルを宥めて棚に近づくと、以前と同じ引き出しから未開封の小さな袋を取り出した。
鳴きながら足にまとわりつくノエルがあまりに愛らしくて、引き離すのが惜しいと葛藤しつつ、アダンそれを無理矢理飲み込むと困ったように笑って優しくノエルの背を撫でた。
「ノエル。袋を開けるけど、危ないから少し離れていて。すぐだから」
にぃ、とお行儀よく鳴いたノエルは、大人しく少し距離を取った。──そう言われるであろうことを、ノエルは知っていたから。
ノエルが離れたのを確認して、愛しい番のために早く給餌をしたいと僅かに急いた気持ちで、アダンはいつものように爪を伸ばした。
それを何気なく、袋に滑らせようとして──……突如走った衝撃に、完全に油断していたアダンは目を見開いた。
ごく近い視界に映るのは、アダンがこの世の何より愛する黒の色。
──先ほどまでアダンに甘く給餌をねだっていた愛しい番に突然飛び掛かられた、と理解すると、混乱より何よりも、転がり落ちる前にそのちいさな身体を支えなければ、と本能が判断した。
だから利き手でノエルに触れようとして、しかし直前で踏みとどまる。
──今、アダンは大抵のものは切り裂ける鋭い爪を出したままだった。万が一にも、ノエルに触れるわけにはいかない。
瞬時にそう考えて、慌てて爪を仕舞おうとして──……この時を待っていたノエルは、躊躇いなく。
その柔らかな唇に、ノエルのちいさな口をむぎゅりと押し付けた。
「……──……ッッ!?」
大きく見開かれたエメラルドの瞳と、ルビーの瞳が触れ合いそうな距離で交錯する。
今自分の唇に触れている柔らかくてあたたかいものが何なのか、数瞬おいて漸く理解したアダンは、ぶわ、と瞬く間に耳の先まで朱に染め上げた。
ぼとりと未開封のチーズが床に落ちる音がしたけれど、息をすることもままならず、頭が真っ白になって爪を仕舞うことさえできない。
ただ呆然と固まることしかできなくなったアダンを、ノエルは決意に染まったルビーの瞳でじっと見つめていた。
──魔女に与えられた文献を読み込んで知った、竜人の……アダン様のこと。
竜の姿に変化するには、例え身体の一部だけだったとしてもそれなりに集中する必要がある。
普段は竜と人間の二つの姿を完璧に使いこなすことを得意とし、それを誇りにしている竜人だけれど、感情が酷く昂ると制御が効かなくなることがあるらしい。
だから、例えば爪を出しているときに酷く動揺したとすれば──きっとノエルを傷つけることを良しとしないこの人は、咄嗟にノエルに触れて引き剥がすことができないはず。
思った通りにいったことに安堵しつつ、これは必要なことだから、今アダン様と唇が触れていることは深く考えないようにと必死に自分に言い聞かせた。
意識してしまったら、きっと向こう一日は羞恥で動くことすらできなくなるからだ。
爪が出ていない方の手で引き剥がされる前にと、ノエルは脳内に叩き込んだ竜人に関する文献を、必死になって捲った。
竜人の身体は鱗に覆われていないとしても、とても頑丈で治癒力も高い。
竜の血液は魔力を源としているから多量に失ったとしても死に至ることはない上に、多少の傷ならば少し目を離せば治ってしまう。──それでも。
人と竜の特性を併せ持つ以上、身体の全てが鋼鉄でできているわけもない。
どうしたって皮膚が薄い場所はあるわけで──例えば。
ごめんなさい、本当にごめんなさい、でもどうしても必要なことだから、と胸のうちで何度でもつぶやいて。
ノエルは覚悟を決めると──思い切り、その唇に噛み付いた。




