祇園精舎での問答――3
そして王が満足して坐ると、入れ替わるようにアーナンダが立ち上がって尋ねる。
「世尊、もし私達の見方に生ずることも滅びることもないとしますと、私達は世尊の仰せられるように、『本心の性を失って転倒の見方によって動いている』とは、云えないのではありますまいか」
「物も心も、すべてのものはみな因縁によって起こるものである」
世尊は答えた。
「そしてその因縁は、もと心から現れたものである。これは今までもしばしば説いたことである。してみれば汝らの身も心も、もともと微妙な明らかな心があって、その中から表れたものであるということは解るであろう。しかるに汝らは、その微妙な本心を他にして、本来悟りの性を持った心の中で迷いを結び、その迷いの妄想を本性であると思い込み、それがこの肉身にあるように信じている事である。それゆえ、山河、大地、虚空の涯に至るまでも、みな微妙な本心の中から現れたものであるということに気がついていない。まことに、小さな泡を捉えて大海を究めたように思っている愚かさではないか」
アーナンダは師の言葉を胸に収めた。だが、なおも訊く。
「世尊のお言葉によって、心の本である常住の心性について悟ることは出来ましたが、しかしこのお言葉を悟ることが出来たのも、やはり分別の心によったのではありますまいか」
「アーナンダよ、もし分別の心を以って法を聞いたというのならば、その聞き及んだ法もまた分別の法であって、法そのものの性にふれたものとは云われない。アーナンダよ、手を以って月を指し示されたときに、その指の先に眼をつけて月を見たと思うならば、その人は月を見ないだけではなく、また指をも解ることが出来なかったことになる。さらに、光のない指を光ある月と思い違えたとするならば、その人は明るさと暗さの性をすら知らないことになる。まことに分別によっては、ものの真の性を知ることは出来ない。アーナンダよ、いま汝は分別の心を以って私の言葉を悟ったと云ったが、もし分別が真に汝の心であるならば、その分別の心はいつまでも変わらずに存せねばならないが、しかし分別は縁にふれて起こるもので、縁つきれば変わりもし滅くなりもする。まことに、縁を離れては分別の性はない。しかるに、その縁の来たりまた去ることには関わりなく、永しえに動かず滅びぬ心性がある。それこそ汝の心の本体であり、主である。
アーナンダよ、一つの喩を以って説こう。旅亭には客人と亭主とが在る。客人は分別の心であって、縁あれば来たって宿るが、縁がつきれば去って姿を消すであろう。しかし、客人の去来生滅に関係なく、亭主は常に住って居る。客が去り居なくなったからといって、それで宿屋がなくなったとは云えない。縁につれて分別の心が消え去ったからといって、自分がなくなったとは云えない。アーナンダよ、外縁によって移り変わる分別の心を性とするな。外縁の心には関係なく、常に移らず変わらぬ心を主とせよ」
「では世尊」
と、アーナンダはさらに訊く。
「外縁に動かされない本性の心は、どうして消え去ることがないのでしょう」
「アーナンダよ、あきらかに聞くがよい」
彼の師は、詳しくまた説き明かす。
「いまこの講堂は日が出ているので明るいが、もし日が没れれば暗くなる。この場合、明るさは日に還ることが出来るし、暗さは夜に還ることが出来る。けれども、ものを明らかに見きわめる力は、どこにも還ることがない。明るさ来るも暗さを知る力がなくなったのではない。暗さが去っても、それは明るさを見る力が起こったためではない。明暗の去来に関係はなく、明暗を見る力は常にとどまっている。明るしと見るも一時の心、暗しと見るも一時の心。それは心の真性ではない。明と暗とに捉われない常住の心、それが汝の真心である。されば心の心性は明に侵されず暗に侵されず、外の因縁にひかれて去来する善悪好憎などの煩悩の中に包まれながら、しかも染まることなく汚れることなく、本来、微妙清浄にして消えることのないものであると知らねばならぬ。
アーナンダよ、丸い器に水を盛れば丸くなり、四角な器に盛れば四角となる。しかし本来、水に丸さ四角さの形があるのではない。ちょうどそのように、すべての人々は始めなき昔から、盛られた水に人生を見て、あるいは大小を考え、あるいは方円を考え、あるいは善悪を考え、あるいは好憎を考えて、その考えのために使われて外物をのみ追って苦しんでいる。しかしそれは、器という外の縁に縛られて、その縛られた自己を己の心性のように思うために起こった妄想である。ゆえに縛られた見方を縛る外縁に還して、縛られない自分の真心に立ち帰るならば、その人は仏と同じものになって身も心も円かに明らかとなり、何ものにも障られることなく、この身このままにして、十方の法界をも受け入れることが出来るのである。
アーナンダよ、鏡を取って陽に向かい、艾をあてて火を求めるときに、その火は鏡から出るのであろうか、艾から出るのであろうか、あるいは陽から来るのであろうか。鏡は手に執られ、陽は天より来、また艾は地から取られる。陽と鏡とは隔つことすこぶる遠くて、和することも出来ず合することも出来ない。けれども、陽の中の火が鏡を縁として艾の上に現れたことには何の疑いもない。いま仏を生む根本である如来蔵[人々の中に煩悩に覆われながら存在する仏の本性]の真心は、本来清浄にして法界にあまねくゆきわたる信火の根源である。ひとたび仏慧の鏡を縁として衆生の艾に点ずるならば、そこに焔焔として仏性開覚の焔が燃え立つこと疑いない。すでに一つの処に鏡を執れば、一つの処に火が起こる。したがって法界のすべてに向かって鏡を執れば、世を挙げて火に満つることは確かなことである。
アーナンダよ、仏はこの理によってすべての人々に対して、常に法の鏡を示すのである」
こうして世尊の話が終わると、人々の心には静かな、それでいて深い想いが湧き起こった。アーナンダを始めとする多勢の人々は皆ともに、世尊の教えを受けて悟性の本心のことを知り、この肉身は大虚空の中に浮かぶ微塵のようなものであると覚り、肉身の生滅に捉われて憂い悲しみ悩むことの愚かさを悔いたのであった。
『善友篇』 完
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