燃え立つ夜 2
「なんだ、これは…………」
それは村の中心、何もない開けた空間に静かに佇んでいた。
一言で例えるならば、まるで巨大な壁のようだった。
カリスからはやや距離が離れているため、彼にはそれが具体的にどのようなものなのかは認識出来ない。
視線の先にあるそれは、手に持った松明に照らされ、薄っすらと光を反射している。
ただ、遠くからでもハッキリと分かる「大きさ」が彼を圧倒していた。
先ほど話しかけた男が警戒した足取りでゆっくりと近づき、突如現れた不審物を検めようとしている。
嫌な予感に苛まれ、カリスは大きな声で注意を促した。
「おい、まて! 不用意に近づくな! 冒険者がくるのを待ってからにしろ!」
ここはそれなりの規模の村であるため、国から派遣された冒険者が滞在している。
貴族ほどの力は持っていない平凡な者たちだが、ただの村人よりは遥かに荒事に慣れている。
今はその数人が夜警で巡回をしている頃だ。
小さくない騒ぎになっているため、すぐにでも此処へ駆けつけるだろう。
何か行動を起こすのは、彼らを待ってからでも遅くはない。
カリスはそんな思いを込めていたが、男は不用心にも「大丈夫だ!」と一言返すだけだった。
一歩、また一歩と。
「壁」に近づく男を眺めながら、カリスは改めて不審物の巨大さに驚愕した。
彼の前を進む男は、成人男性であるカリスと同じかそれ以上の身長を持っていた。
しかし遠目ながらに見比べてみれば、「壁」は少なくともその二倍以上の高さに届いている。
そんな巨大な物体が、果たしてどこから現れたのか。
先ほどの揺れを思い出し、彼は閃いて空を見上げた。
「まさか…………落ちてきたのか?」
しかし、そこにあるのは夜空に輝く星々の煌めきと、疎らに散開する数匹の鳥ばかり。
平時と変わらぬ光景を瞳に収めて、カリスは元の高さへと視線を戻す。
男の姿が、消え去っていた。
「おい、何処に行った!?」
「こっちだ、何か書いてある! 明かりを持ってきてくれ!」
たまらず叫び声をあげた彼に対して、「壁」の向こう側から返事が届く。
カリスが夜空を見上げている間に、男は「壁」の裏側へと回っていたのだ。
カリスがほっと溜息を吐き出し、何事も起きていないことへの安堵を露わにする。
未だ何も言わぬ不審な「壁」に近づくことは躊躇われたが、先を行った男が無事であることを心の支えにして、警戒心を残したまま足を進めた。
「壁」に近づくにつれて、徐々にその全貌が明らかになっていく。
足元に辿り着いた時、彼はその「壁」だと思っていたものに奥行きがあり、「柱」の形をしていることを理解した。
近づいてみれば、よく分かる。
不審物は彼の背を追い越して尚、更に高く雄々しくそびえ立っていた。
高さが横幅よりも長く、正面から見れば長方形に見える。
側面に視界を移してみれば、そこには彼が想像したよりも大きな「厚み」が存在していた。
カリスが横へ大きく両手を伸ばしても、その「柱」の面の両端に届くことはないだろう。
そんな巨大な構築物が突如現れた事実は、彼の心に大きな不安の影を落とす。
ただでさえ、この村は直前まで魔物の襲撃を受けていたのだ。
「また、何か異変が起きたのでは?」、そう考える事は普通だろう。
ましてや、その魔物も。
ある日突然、なんの前触れもなく出現していたのだから。
この、天を貫く柱のように。
「こっちだ、何か書いてあるぞ」
先に近づいた男が、カリスを招いた。
暗さで顔は伺えないが、声は少し震えていることが伝わってくる。
緊張感のない奴だと思っていたが、その態度は虚勢に近いものだったのだろう。
目の前の男が自分と同じような心境であることを確認して、カリスはまた一つ安堵のため息を吐き出した。
それも一瞬のことで、彼はすぐに気持ちを切り替えて「柱」の背面へと回った。
「どうした、なにか見つかったか?」
「こっちだ、ここに何か書いてある…………松明をくれ」
「ほら、これでどうだ」
カリスが持っていた松明を近づけると、光が男の手元を照らした。
光沢を放っていることから、少なくとも素材が金属であることが伺える。
その滑らかな柱面に、短い文章が刻まれていた。
ーー勇敢なる魔術師・アドルフ、此処に眠るーー
「これは…………どういうことだ?」
男がこぼした声は、カリスの心情と同じものだった。
なにも、それが理解できないというわけではない。
アドルフという人物は、この村の誰もが知っていた。
先日の「牛頭鬼」襲撃の際に村人たちを避難させ、足止めを行なった魔術師の名前だ。
この村を擁する領地を任された、貴族の領主の次男坊。
定期的に村への訪問が行われていたため、カリスもよく顔を合わせた覚えがある。
自分たちの上に立つ存在でありながら、それを感じさせない気さくな面をもった人格者だった。
だった…………そう、過去形だ。
何故なら、アドルフは既にーーーー。
「墓…………いや、もしかして棺か?」
「なんだって?」
「この大きい金属…………柱か何かと思っていたけど、ひょっとすると棺なんじゃないのかって思ってな」
「棺って…………誰のだよ」
「そりゃお前、分かるだろうよ…………アドルフ様だよ」
そう、あの戦闘でアドルフは帰らぬ人となった。
彼だけではない、追従していた三男も戦死していた。
その報せを受けた時、村人たちはみな動揺を隠しきれなかった。
狭い世界で生きている彼らにとって、魔術師…………それも貴族は自分達よりも遥かに偉大で絶対的な存在だったのだ。
ともすれば、深層意識で恐怖心を抱いてしまうほどに。
圧倒的な強者だったアドルフの死は、村人たちに魔物への畏れを駆り立てた。
今まで信じていたものが、足元から崩れ去っていく音が聞こえた気がした。
「いや、だが…………仮にあの方の棺だとしたら、そもそもどうしてこんな所にあるんだ?」
「そんなの俺が知るわけないだろう」
「それもそうだが…………」
カリス達にとって不幸だったのは、アドルフの死んだ状況を知らなかったことだろう。
戦いの嵐が去った後、その場所に残されていたのは右腕一本だけだった。
魔術師と魔物の戦闘に常人が近づけるはずもなく、貴族という存在の希少さ故に、戦いに出たのはアドルフとその弟の二人のみ。
二人が戦死したというのも、状況証拠を鑑みた上での結論だ。
だから、二人の本当の最期がどのようなものだったのか…………それを知るものはいない。
ーーーー彼らを害し、命を奪った存在を例外として。
「とにかく、領主様に報告するべきだよな?」
「なにがあるか分からない、見張りを付けて他の奴らには近づかないように徹底させよう」
魔物という脅威が跋扈する世界で、人々は時代の流れによって徐々に適応していった。
それは可能な限り魔物を生み出さないための単純にして異質な変化。
人の善性を信じ、悪意を遠ざける。
未練を残さず生き抜き、悲劇を起こさないために他者を思いやる。
多かれ少なかれ、今日の人類はある種の悟りに近しい性質を兼ね備えていた。
もちろん、全ての人々が根から善人であるわけではない。
善も悪も兼ね備えてこそ、人である。
今この瞬間でさえ、魔物は誕生し続けているのだから。
だがそれは、かつて人同士で戦争が行われていた頃に比べれば遥かに稀有で小さいものでーーーー。
「俺が村長を呼んでくる、くれぐれも気をつけろよ」
「任せた、こっちはなるべく近づけさせないようにする」
だからこそ、彼らには想像できない。
人の本性、その先にどれだけの悪意が存在しているのか。
自分本位な行動で、どれだけの被害を生み出すことが出来るのか。
ーーーー他者を害する。
それだけのために、人は何処までも「人でなし」になれるのだ。
その場を離れようとしたカリスは、不思議なものを目撃した。
「炎が…………これは、引っ張られて…………?」
彼が持つ松明につけられた灯りが、点滅を繰り返す。
風もないというのに、強く激しく揺らめいている。
手元の火が自分の後方へと伸び、徐々に勢いが衰えていくのを見届けた。
いや、それだけではない。
背筋を走った悪寒を頼りに周囲を見渡せば、村人たちが手にしている全ての火種が同様の現象を起こしている。
まるで誰かが操っているかのように、自発的に動き出した炎が宙を飛び、一点へと集中していく。
それは、自分が先ほどまで触れていた「棺」の方へと吸い込まれていた。
「な、なんだ…………っ! 何が起きている!?」
奇怪さに相反して、その光景は幻想的でもあった。
炎の線が幾重にも重なり、一つの大きな力となって勢いを増す。
夜空を駆け抜ける流星群のような、光の持つ神秘性が発露した瞬間を切り取ったような景色だった。
だが、彼らはそれを恐れた。
魂の奥底に刻まれた恐怖が、胸の内から飛び出そうと暴れ狂うのだ。
本能が訴えている。
堪らず、叫び出した。
「…………っ! 全員! 此処から離れろォ!!」
彼らは想像出来なかった、少しも考えたことすらなかった。
魔物を生み出すためだけに、他者に苦痛を与える者がいる事を。
その犠牲となり、高潔な精神を冒された者がいたという事を。
その結末が、創り出された「悲劇」が。
いま、自分たちへと向けられている事を。
その最期の瞬間まで、彼らが思い至ることはなかった。
「ーーーーーーーーぁ」
男と、目があった。
まるで信じられないものを見たような、驚愕を張り付けた表情をしている。
先ほどまで一緒にいた男だ。
少なくない交流を持ち、共に助け合って暮らし、言葉と信頼を重ねて過ごした相手だ。
何かを伝えようとしていたのか、口を開いた状態のまま固まっている。
首から下が、無くなっていた。
「ーーーーーーーーォ!!」
大気を切り裂くように、爆音が村へと鳴り響く。
それはまるで、獣の咆哮のようで。
カリスには、聞き覚えのある音だった。
巨大な「棺」を中から切り裂いて、その魔物は姿を現した。
牛の形相、金属で造られた体。
片手に握られた巨大な鉈と、纏うように張り付き噴出する熱気。
腕を振り抜いたような姿勢のまま、そこに佇んでいる。
暗闇を照らす、炎の柱となって。
何処からか、声が聞こえる。
『ワタシからの贈り物だ、受け取ってくれたまえ』
ーーーー悪意が、産み落とされた。
「牛頭鬼」
想像を絶する苦痛を与えられ、命尽きるまで痛ぶられた者の成れの果て。
とある拷問器具によって全身を焼かれた彼らの怨念は、自らの命を奪った道具へと閉じ込められた。
平時は只の巨大な鉄の塊だが、炎を纏うことで活性化する。
人を生きたまま捕獲し、鎧の内側へ取り込むことで燃料へと変換できる。




