クソみたいな人生
その少年は、どうしても金が必要だった。
だから、中学卒業と同時に働くことにした。
元々少年の家は裕福ではなかったが、かといってまだ中学校を出たばかりの彼が働かないといけないほど切羽詰まった状況ではなかった。
そう、父親が莫大な借金を残して蒸発するまでは。
彼には、母親と一人の妹がいた。
母親はパートと内業で体を酷使し、いつ倒れてもおかしくはなかった。
妹は彼よりも遥かに賢く、美しく、そして性格も良かった。
少年は、そんな二人のために働くことを決めた。
とはいえ、学歴という壁は彼の目の前に大きく立ちふさがった。
母親の伝手を頼って町の小さな工場に勤めることになった彼は、そこで自分達の行く末が何処までも暗闇の中にある事を自覚した。
金だ。金がどうしても足りなかったのだ。
妹ほどではないとはいえ、それなりに頭の回転が良かった彼は、このままの生活を続ければいずれ破滅が訪れる事を、よく理解していた。
借金と利子と生活苦。
家計は火の車であり、何か少しでも歯車が狂うような事があれば、今の生活はすぐにでも崩壊する。
それがいつになるかは分からない。
明日か、一年後か、もう少し先の話か。
もしかしたら、それが今日になるかもしれない。
金が必要だった。
母親を休ませ、妹を大学まで連れて行き、その上でもっとずっと余裕を持った生活を続けられるだけの金が、どうしても必要だった。
彼は粗暴であり、礼儀も弁えていなかったが、それでも不良というわけではなかったし、家族に対する情は大きかった。
浪費癖も酒癖も悪く、仕事もしなかった父親を反面に育ってきたからこそ、そんな性格になったのかもしれない。
しかし先の見えない、いずれ崖へと続く道の上を歩む日々は、そんな男の精神をも疲弊させ、歪めた。
金が必要だった。
大切な物を守り、不幸や理不尽に屈しないための金が必要だった。
そんな彼は、借金の取り立てに来た男達に取引を持ちかけた。
自分が借金取りをするから、利子を減らしてくれと。
搾取される側から、搾取する側へ。
もちろん、まだ子供といっていい彼のそんな言い分を聞くような者たちではない。
そもそも、この借金自体が違法性のあるものであり、それの取り立てに来るような男がまともな人間であるはずもなかった。
だからこそ、そんなまともではない者によって、男の取引は身を結ぶ事となった。
道楽だった。
彼の要求を飲んだ男は、金融業者の元締めだった。
その男は何を気に入ったのか、様々な事を彼に教えた。
『金っていうのはな、ある所にはあるもんなんだ。だが、無いところにはとことん無い。そんな場所に暮らす連中っていうのはな、生まれながらに損しているんだ。裕福な奴らの割を食って生きているんだよ。馬鹿馬鹿しいと思わないか? 所詮数字の書かれた紙だぞ?』
その男も、元はといえば貧乏であったらしい。
だから、自分よりも弱い人々から搾取する事で、その場所から逃げ出そうとしたのだ。
ある日、少年は男に呼び出された。
少年の目の前の机の上には、大量の札束が置かれていた。
男は言った。
『こんな紙切れに人は泣き、苦しむ…………お前にこれを貸してやる、どんな手段を使ってもいい。増やしてみろ』
金持ちの男の道楽だった。
しかし、それは彼にとってチャンスでもあった。
搾取される側から、搾取する側へ。
少年は一人の青年になり、そして屑になった。
彼は自分よりも立場の弱い者から搾取する事を決めた。
面白いように上手くいった。
男のやり方の猿真似ではあったが、元より貧乏人の考える事をよく理解していだ彼は、継続的に弱者から金を巻き上げるシステムの構築に成功した。
楽なものだった。
弱者とは力に弱く、そして抵抗するための力が非常に弱い。
そんな人たちを犠牲にする事で、彼は父親の残した借金の返済を終えた。
それなりの時間が過ぎ去っていた。
工場の仕事などは、とうの昔にやめていた。
もう大人になっていた彼は、借金取りになった彼は、依然として変わらぬまま、金を求めた。
金が必要だった。
それは決して家族のためなどではなく、自分のためだけに。
一度外道に落ちた彼は、そのまま外道として生きていくしかなかった。
それしか出来なかったのだ。
それしか生き方を知らないのだから。
そんな彼を見て、金融業者の男は笑った。
『な? 馬鹿みたいだろ? 人間は結局のところ、何処までいっても求め続ける生き物なんだよ。こんな紙切れ一つをな』
彼はただひたすらに、金を求め続けた。
弱者を虐げ、紙切れを集め続けた。
そんなある日、彼は自分の妹に絶縁を叩きつけられた。
『兄さんが私達のために汚い事をしているのは知っていました。私に教育を受けさせてくれた事は感謝しています。それでも、今の兄さんを見るのは辛いんです』
妹は彼の目の前に金を積み上げ、そう言った。
大学を出て起業し、順調に業績を上げていった彼女が手に入れた『真っ当』な金だった。
彼よりも賢く、彼よりも高等な教育を受けた彼女は、以前から自分の兄の所業に気がついていたのだ。
頬を打たれて呆然としていた彼は、そこに至って漸く、自分が道を間違えた事を理解した。
もちろん、今までやってきた事を否定するつもりはない。
彼が搾取する側に回ったお陰で、彼の家族は人並みの生活を送れるようになったのは事実なのだから。
それは彼の母親も、そして目の前の妹も理解していた。
その点については、妹も複雑な心境でありながらも彼に感謝していた。
だからこそ、彼女は自分と母親のために彼が集めただけの金銭を稼ぎ、こうしてそれを彼の元に差し出す事で、今までの関係に終わりを告げようとしたのだ。
『兄さんが苦労していたことも、悩んでいたことも、私は理解しています。だから…………もし、少しでも自分の行いを悔いるつもりがあるのなら、もう今までのような事はやめてください! 必要のない悪業から手を離し、私と一緒に暮らしてください!! もうこれ以上、あなたが罪を重ねる必要は無いはずです! 兄さん!!』
そう言った妹に対し、それでも彼は素直に頷く事は出来なかった。
引き返せるところなど、既に通り過ぎていたのだから。
『誰の…………誰のお陰で今があると思ってるんだ! 俺が! 俺様が手を汚して得た金で生きてきたくせに、良くそんな事が言えたもんだな! 恩知らずが!! 誰のせいで…………俺様が、誰のせいでまともに勉強すら出来なかったと思ってるんだ!! お前達のせいだろうが!! お前達がいたからだろうが!!』
咄嗟に出た言葉は、彼にとっても悍ましいものだった。
自分の言ったことが信じられないのか、片手を口に当て、目を見開く。
違う、そんな事が言いたかったんじゃない。
彼はそう弁明しようとした。
弁明しようとして、その言葉は掠れた吐息となって口から漏れていった。
彼の妹はそれに酷く傷ついた様子で、それでも彼の言った事を否定せずに、涙ひとつ流さなかった。
狼狽える彼に背を向け、その場から走り去っていった。
いつかの日に見たような、机の上の札束だけを残して。
そして、その日の夜だった。
妹が通り魔に刺され、命を落としたと連絡が入ったのは。
妹を殺したのは、彼が搾取してきた人間の一人だった。
自分の人生を嘆き、借金取りであった彼を憎んだ上での犯行だったのだ。
彼は、膝から崩れ落ちた。
彼は今更になって、あの男の言葉を思い出していた。
『金に目が眩んだ奴っていうのはな、一番大切なものが何かを忘れちまうんだよ。大抵、それはなくした後に気がつくんだ。そして口を揃えてこう言うんだ、こんな筈じゃなかったってな』
何故、どうして。
彼はそう問い続けた。
何処で間違えたのだろうか、何処から間違ってしまったのだろうか。
それだけを考え続けてきた。
だからこそ、彼はその答えを見つけ出した。
金だ。
金がなかった事が、全ての原因だったのだ。
最初から金があれば、苦しむ事はなかった。
金があれば、借金取りという非道に手を染めることもなかった。
金があれば、妹と仲違いする事もなかった。
金があれば、妹を殺した者もそんな凶行に出る必要はなかった。
最初から金があれば、妹が死ぬ事はなかった。
貧困は悪であり、敵だったのだ。
自ら道を間違えた事に目を背けながら、彼はそう自分に言い聞かせた。
金さえあれば、と。
最後の時が訪れ、その命を落とすまで。
彼はずっと求め続けていた。
誰もが一生金に悩む事なく、自分の大切なものを見失わない程に満たされた生活を送る事を。
満たされない者は、自分の最も大切なものすら見失ってしまう事を、彼は理解していた。
だから、全ての人々が『金』などに過大な価値を感じない事を、彼は願っていた。
金の価値は二番目、三番目。
あるいは、もっとずっと後の方へ。
そんな風に願いながら死んだ彼は皮肉にも、この世の誰よりも多くの富を得た。
『世界契約の第二法則』
異なる世界で資質あるものが死んだ時、その魂に契約を持ちかける事で、『力を持った者』をこの世界に呼び寄せる『契約魔法』。
異能の力と引き換えに、世界を救う義務を与える『隠された法則』。
それに選ばれた彼は、『取り替え妖精』という存在となって、この世界に生まれ落ちた。
人の魂が世界を越える時、その性質は超常のモノへと変換される。
人の器のまま世界の壁を越えることは不可能であり、そのために人をやめる必要があるからだ。
その契約を結んだ彼は『ゴルデバラン・グランベルグ』という少年として、新たな人生を得た。
彼の金への執着と思想は『黄金妖精』という種族となる形で現れた。
無限に金の湧き出る壷をその身に宿して、『転生者』という形で人生をやり直す事になった彼は、誓ったのだ。
「そう、だから俺様は誓った。誰もが一番に『価値』のあるものを見失わないよう、この俺様が導くと。誰かにとって最も『価値』のあるものを護る、それこそが俺様の『価値』たりえると信じているからこそ! 尽きる事のない金の本当の『価値』を伝えると誓ったんだ!!」
慟哭は衝撃となり、空間の隅々まで伝わっていく。
その中に込められた想いを感じ取り、バステトは一歩足を下げた。
いや、下げようとした。
「最初は、ただ単純にテメェらの思惑を知るためだった。いつか訪れるかもしれない悪意を察知し、前もって排除する…………優秀な人材というのは、金に替えることはできない。ラムセス、あいつはこの国の未来を担う人材の一人だ。この世界、国、そして多くの民のためにも、人材というものは大切にする必要がある。魔術師というのは、金で替える事のできない『価値』がある…………だから、金銭という最も後腐れない、俺様なりの方法で問題を解決しようとした。本当に、それだけが動機だったんだ」
バステトは自分の足元を見た。
そこにあったのは、つま先から徐々に侵食しつつある黄金だった。
既に膝の上までが金へと置き替わり、身動きを取ることができなくなっていた。
そう、ゴルドはただ自分語りをしている訳じゃなかった。
バステトの理解できない力を使い、その選択肢を奪うために、彼女の自由を奪うための時間稼ぎをしていたのだ。
足を動かそうと無理に動く彼女をよそに、ゴルドはその心中を語る。
「だが…………あぁ、信じられるか? 確かに、素直に頷くとはこれっぽっちも思っていなかった。公爵家の長男ともなれば、金銭に苦労することなんて殆ど無いだろうよ。それでも、目の前に金を積み上げられれば、それに気を取られてしまうのが人間というものだ。道端でコインが落ちる音を聞いた時、人は反射的に地面を見てしまう…………それは非難されることではない、人として当然の反応なんだ。だから、ちょっとした試しのつもりだったんだ。悪趣味な事とは理解しているが、どうしても相手の『価値』を測りたくて仕方なくなっちまうんだ、俺様は。それを……あいつは…………ラムセスの野郎は…………」
一呼吸おき、叫ぶ。
「全く! これっぽっちも! 一瞬たりとも気を取られなかったんだ!! 俺様だけにはそれが分かる! 奴を此処へ呼び寄せる事は不可能だった!! それは何故か!? 簡単だろうが!! それだけ自分の大切なものを理解しているからだ!! あいつは、テメェという存在と金を一瞬たりとも天秤にかける事はなかった!! 一瞬、これっぽっちもだぞ!? それがどれだけ素晴らしい事か…………テメェに理解できるか!」
場違いである事を自覚しながらも、その言葉を聞いたバステトの心の中には、感動に近いものが存在していた。
それはつまり、ラムセスはバステトの事をーーーー。
そんな気持ちが熱となり、口から溢れる。
「ら、ラムセス様が…………」
「あぁ、そうだよ!! だから気に食わない! テメェがそんなあいつの気持ちを利用している事も! 何処の誰ともしれない奴がそれを蔑ろにして『価値』を貶めようとしている事も! テメェのどっちつかずの態度も!! 全部だ! 全部が腹立たしい!! 俺様には…………許せない!!」
そう、ゴルドはどうしても許せなかった。
彼にとって理想的な、そんな生き方をしているラムセスの側に、それを汚すような不誠実さが存在している事が許せなかったのだ。
そして、許せないというのなら。
それはバステトも同じ事だった。
憤りを言葉に乗せ、正面から直接ゴルドへとぶつける。
「違う!! 私はそんなつもりであの人の側にいるんじゃない!! あ……あっ…………愛して、いるんだ!! それをあなたが勝手に自分の都合で判断しているだけだ!! 私の気持ちを馬鹿にするな!! あなたの思い込みで私の愛情を否定するな!!」
彼女らしくない、強気な言葉使いだった。
それを聞いたゴルドは人ならざる顔に笑みを浮かべると、今までの興奮が嘘であるかのように落ち着いた口調へと変化する。
「そうか…………じゃあ、話は簡単だな?」
そして、決定的な言葉を口にする。
「俺様は『契約魔法』の力を一部だけ行使する権利を有している。この世界に訪れる前に、受け取ったものだ。それだけは此処から持ち去る事を許してやる…………だから、誓いだ…………テメェはこれから先、ラムセスに対して誠実に向き合い、その心に一寸たりとも疑心を持たず、隠し事をせず、正直に向き合うと誓え。それだけでいい…………テメェらの事情は理解するつもりもないが、あいつを裏切るような事さえしなければ、テメェの素性については黙っといてやる。だから…………誓え、自分からあいつに全てを語ると!!」
ゴルドの要求は、バステトにとっては難しい事ではなかった。
しかし、それを飲む事は出来ない。
何故なら彼女は、この場所に訪れる前から既にーーーー。
「選べ…………誓いを立てるか、此処で死ぬかだ」
逡巡する彼女を気にする事なく、ゴルドは判断を迫る。
彼の中では既に結論が出ていた。
本当にラムセスの事を想っているのであれば、悩む必要すらないと思っている。
殺すつもりなどは、毛頭無い。
それはラムセスの『価値』あるものを奪うことに繋がり、ゴルドの信念に反するからだ。
だから彼がこうして脅迫しているのも、少しでもバステトの背中を押す結果になればいいと判断しての事だった。
どこまでいったとしても、借金取りの少年だった頃から変わる事は出来ない。
一度悔やんだ程度、一度死んだ程度では、人の心根はそうそう変わる事はできない。
ゴルドは心の奥底で、それを理解していた。
だからこそ、彼は彼なりのやり方で、自分の信念を貫くつもりだった。
たとえそれがどれだけ卑劣で、唾棄されるべき方法であったとしても。
彼には、それしかやり方が無いのだから。
「どうした? …………簡単な事だろうが、何故それが出来ない? …………お前のあいつに対する愛情とやらは、偽物なのか?」
挑発で冷静さを削ぎ落とし、自分の要求を通しやすくする。
かつて、弱者に対して何度も使った手だった。
そして、バステトはそれに釣られそうになった。
姉との約束を忘れ、衝動的に言葉を吐き出しそうになる。
二人とも気がついていなかった。
既に、この世界は二人だけの場所では無くなっていることに。
バステトは感情の赴くままに、言葉を吐き出そうとした。
口を開き、結論を告げようとしてーーーー。
「やれやれ…………あまり私の妹を虐めないで欲しいところだ、にゃん!」
バステトではない誰かの声が、その口から放たれた。
「にゃはははは!! 呼ばれなくても飛び出てにゃにゃにゃにゃん? 私だよ! ……え? 私が誰かって? 私だよ私! お姉ちゃんだよ!」




