出立と、乙女心と
「では、行って参ります」
「ああ、お前に限っては何の問題もないと思うが……とりあえず、無事に帰ってこい」
「承知しました」
よそ行き用に仕立て上げられた礼服に身を包んだラムセスは、レムリットに出発の挨拶を告げていた。
オリシス家、正門前。
時刻は朝の八時を回った頃だ。
「ほら、お前達も見送りぐらいしっかりしなさい」
レムリットに促され、彼の背中からラムセスの方へ顔を出していたアトムとアンナが前へと出る。
昨晩ラムセスの部屋に忍び込んだ事は、ラムセスが屋敷を離れるという事情があったため、不問になっている。
しかし、一晩の間ラムセスと共に時間を過ごし、寝る前にそれなりに甘えていた双子は、恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだった。
ラムセスの笑顔と体温を反芻しては、それに身悶えし、そしてまた反芻する。
それを繰り返したアトムとアンナは、すっかり体が火照って仕方がなくなっていた。
こうしてラムセスの目の前に出てくることさえ、今は難しい。
しかし、暫く会えなくなってしまうからこそ、二人は勇気を振り絞り、暫しの別れを告げに来た。
もじもじと体を揺らし、寝衣の裾をぎゅっと握りながら、ラムセスへと口を開いた。
「に、兄様……す、少し屈んでください」
「兄様、い、い、一歩……前に出て、ください」
「? こうかい?」
ラムセスと双子は年齢が一つしか違わないのにも関わらず、身長に開きが出来てしまっている。
ラムセスは今年で八つになるのだが、既に身長は百二十センチを越えつつある。
一方双子は、未だ百センチに届くか否かといったところだ。
ラムセスは双子の言う通りに一歩前に進み、膝に手をつけて前かがみになる。
双子はそんなラムセスから目を逸らして、お互いに見つめ合うと、同時に頷いた。
そして、どちらからともなく前へ進み、ラムセスの頬へと唇を落とす。
チュッ、というリップ音がその場に響く。
半ば予想していたラムセスは、驚くことなくその接吻を受け入れる。
双子は昨晩、ラムセスに口づけされた事へのお返しとして、親愛を示すキスを返したのだ。
双子はそそくさとレムリットの背後へと戻り、彼のズボンを握りながら、真っ赤にした顔を覗かせつつ、見送りの挨拶を告げた。
「兄様……無事に帰ってきてね」
「兄様……早く帰ってきてね」
口を揃えて、声を出す。
「「いってらっしゃい!」」
「うん、行ってくるね」
ラムセスは二人へ優しい眼差しを送りながら、頷いた。
レムリットと双子の後ろから、使用人達が頭を下げる。
主君の子息を、屋敷の全員で見送りに来たのだ。
ラムセスは彼らに手を振ってから、馬車へと乗り込む。
先に乗り込んでいたバステトとホルスが、ラムセスを迎える。
ラムセスは二人を視界に収めながら席に着き、御者へ向かって指図する。
「出してください」
御者の男は、屋敷で雇っている土属性の魔術師だ。
彼は魔術を行使し、石材で作られたゴーレムの馬を走らせる。
魔術師によって整備された道を、馬車が走る。
レムリットと双子、そして使用人達は、少しずつ小さくなっていくラムセスを乗せた馬車を、ずっと見つめていた。
それが見えなくなるまで、ずっと。
「それにしても、思ったよりあっさりした別れでしたね。失礼ながら、アトム様もアンナ様も、もっとファラオを引き止めると思っていました」
「まぁ、昨晩は一緒に過ごしたからね…………多分、許してくれたんじゃないかな」
車内の沈黙を崩すため、ホルスはラムセスへ話題を振った。
しかし、それに対するラムセスの返答は、とある奴隷の心を刺激した。
「暫く会えないわけだし、少しくらいは甘やかしてもいいかなって…………バステト、どうかした?」
「なんでもないです…………にゃ」
バステトは分かりやすく頬を膨らませ、そっぽを向いていた。
どうみても、なんでもない、なんて事はない。
バステトは、未だにラムセスと同衾した事がない。
ラムセスは態度からそれを感じさせる事はないが、本来彼とバステトは主人と奴隷の関係だ。
奴隷の方から主人の寝床へ向かうのは、論外である。
そして、ラムセスはバステトを普通に従者として扱おうとしているため、夜伽を命じることもない。
さらに言えば、ラムセスの肉体はまだ幼く、本人も性欲より向上心の方が強いため、そういう事にはまだ興味を持っていない。
しかし、そうしかし。
バステトは猫の獣人である。
七歳で成人を迎え、「生涯仕える相手に名前をつけてもらう」という古風なしきたりを持つ種族なのだ。
バステトは既に、子供を産むことができる体だ。
そしてラムセスは男であり、主人であり、初恋の相手である。
バステトは、まだ具体的な性知識は少ないとはいえ、そういう事を本能で感じ取っている。
それなのに、いや、それを抜きにしても、まだ一度も一緒に寝たことがないのだ。
複雑な乙女心というものは、流石のラムセスを持ってしても解き明かす事は出来ない。
それはラムセスが男という生き物だから。
そして、貴族という価値観を持っているからだ。
この国では、貴族の血筋というものは大事だ。
なにせ、貴族の血縁であることが、そのまま魔術の才能を持つことへと繋がるから。
だから、国は貴族が沢山子を産み、育てる事を推奨している。
しかし、無理やり行為に及ぶことや、家格や身分によって愛し合う者を引き裂く事は、固く禁じられている。
前者はいうまでもなく、悲劇につながる。
権力を傘に、横暴な態度を取るという事は、それだけ怨みを買うということ。
そして怨みは、悲しみは、苦しみは、そのまま魔物の産まれる原因へと変わる。
そして後者も同じく、魔物を産み出すきっかけとなる。
「引き裂かれた恋人」という固有種族が、かつて一度だけ産まれた事がある。
王国が出来て、それから王が何度か代替わりした頃の時代。
一人の王族と、一人の平民が恋をした。
周りはもちろん反対した。いや、してしまった。
そして、「魔術王」が「恋愛の自由を妨げる事無かれ」と言い残していたその言葉の意味を、その時代の貴族たちは思い知る事になる。
王族の男の知らぬ所で、平民の女は街を追放され、そのまま帰らぬ人となった。
女が死んだ理由は判明していない。
行くあてもなかった彼女は、魔物に殺されたとも、貴族に始末されたとも、自ら命を絶ったとも言われている。
そして、膨れ上がった愛憎混じりの歪な精神は肉体を作り変え、一体の魔物になった。
それは馬の下半身を持ち、首が胴体の数倍もの長さとなり、頭は竜の物だったという。
魔物は王国へと向かった。
そして、周囲の反対を押し切って彼女を探しにきていた王族の男を見つけると、その首から上を千切り取った。
すると、男の首の断面から竜の頭が生え、首から下は馬の下半身となり、女だった魔物の下半身と逆方向を向きながら合体した。
それが、世界で一度だけ確認された悲恋の固有種族、「引き裂かれた恋人」。
王国はこれを討伐するも、その顛末に同情した国民の顰蹙を受け、それ以降は「恋愛の自由」が全面的に認められる事になったのだ。
恋愛関係が原因の魔物誕生を例にあげれば、他にもいくつかのエピソードが存在している。
だからこそ王国の貴族は「自由恋愛」を提唱しながら、子孫繁栄に努めているのだ。
王国貴族であり、そして公爵という立場を持つラムセスは、奴隷であるバステトを無理やり寝床に連れ込むことも無ければ、無責任に愛を囁くこともしない。
誠実に、そして正直に。
それがラムセスなりの結論だ。
だが、バステトからすればそんな事は知った事ではない。
彼女はラムセスと同じ布団で眠りたいし、枕元で愛を囁いて欲しいのだ。
例え今のラムセスが恋愛感情を抱いていないとしても、それはバステトが気持ちを抑える理由にはならない。
不思議そうな顔をしているラムセスを視界に入れながら、自分なりにアピールをしているのだ。
双子とは寝れるというのに、自分はダメなのか、と。
勿論、場合によっては不敬と取られる事もある。
しかし、バステトはそうならない事を確信していた。
ラムセスはそんな狭量な男ではないと。
そして、バステトの想いに気がつかないほど鈍感ではないと。
何かを察したのか、ラムセスはバステトを前に躊躇うようなそぶりを見せる。
バステトはそれを見て、心の中で「お願い! 気がついてください、にゃ!」と叫んだ。
勿論、顔は逸らして、頬を膨らませて、ラムセスへチラチラと視線を向けながら。
ラムセスの隣でニヤニヤ笑っていたホルスが、ラムセスの耳元へ顔を近づけ、何かを囁く。
ラムセスはそれを聞き届けると、瞳を閉じて何かを思案し始めた。
車輪が音を立てる事、数回。
ラムセスは瞼を開き、その瞳に決意を乗せながら、バステトへと口を開いた。
「ねぇ、バステト……もし、バステトがよかったらなんだけ」
「魔物です! 捕まってください!!」
御者の声が、ラムセスの台詞をかき消した。




