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跋・イザベラとの別れ

 本当のところ、第一次世界大戦以降のイザベラの動向は、詳しくは判らなかった。

 パウルとの結婚を、フランツ・ヨーゼフ皇帝に皇帝に厳禁され、それを諦めた後はどうしたのか?

 ただ彼女の終焉の地が、スイス・アルプスの麓の、風光明媚なラ・トゥール・ド・ペであることから、恐らく赤十字の職員として看護婦の仕事を続け、引退後はそこで静かに余生を送ったのだろう。

 1973年に85歳で亡くなり、遺骸は遺言により、アンホルトに葬られたことも確認できる。

 前章の5年後にまず母が亡くなり、更に5年経って父が亡くなった後も、子供たちは概ね長生きだったが、1962年に姉のクリスティーネと、妹のアリーチェが亡くなり、姉弟の中で1人残っても、イザベラはそれから10年余り生き続けた。


 残念なことにその間、第2次世界大戦が勃発し、当時60歳に近かった彼女は、戦地で活動したかどうか判らないが、もし彼女の胸に去来することがあったとすれば、その頃は教皇庁で要職についていたゲオルクが、ナチのユダヤ人迫害を、どう思っていたかということかもしれない(ただ彼は1943年に亡くなっているが)。

 筆者が数年前に近くの教会の、終戦の日のミサに出席した折、その日の担当だった日本人神父は、この蛮行に対する、当時のヴァチカンの無為無策を、非難するような説教をされたが、時の教皇ピウス12世が、ナチの暴走を止められなかった理由として、①コンコルダート(宗教協約)により、政治には干渉できなかったことと、②ソヴィエト共産主義の脅威に対して、ナチの武力しか頼れなかったこと、そして③教皇自身も若い頃、当時ヨーロッパ中に蔓延していた反ユダヤ主義が、とりわけ強かったミュンヘンで過ごしていた経験から、個人的な影響も受けていたのではないかと言うのが、後世の研究者の分析である。

 だとすればゲオルクも、教皇と同じ考えだったのだろう。


 最後にもう1人のイザベラ(姉クリスティーネの長女)について述べておくと、彼女は第2次世界大戦で夫が戦死した後、反政府主義者の亡命や、無実の罪で収容所へ送られた人々の脱走を助ける等、ナチへの抵抗運動に携わったと言う。

 彼女の居城ヴィッセンを近隣住民に開放し、連合軍の攻撃を受けた際には、地下室を防空壕にして皆を匿ったり、負傷者の治療のために、城内に医療所を設けるなど、奇しくも叔母のイザベラと、よく似た行動を取っている。

 戦後はヴィッセンの城と、領地の維持管理は息子に任せ、オランダ国境近くのケーヴェラールへ移って以降も、地域への奉仕や慈善活動に尽力し、今世紀に入った2009年、あらゆる時代を生きて見続けた、105歳の生涯を閉じた。


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