第15話 誰のものでもない旗
王都リュミエール。
古より続く光と秩序の都。
その朝、空に“闇”が揺れていた。
風に乗って落ちてきたのは、一枚の布。
漆黒の、それでいてどこか温もりを感じさせる――旗だった。
音もなく、王宮の大広間を貫くように舞い降り、
衛兵たちの間をすり抜けて、中央広場の噴水の前に着地する。
旗の中央には、刺繍のように繊細な一文字。
“自由”
それだけだった。
「……これは、何の魔術だ?」
「誰の仕業だ? 誰が投げ込んだ?」
貴族も騎士も狼狽し、王都軍は戒厳態勢に入る。
だが、誰もその旗を持ち上げることができなかった。
触れた者の魔力が逆流し、指先に痺れが走る。
まるで、その旗が――「誰のものでもない」と拒んでいるようだった。
その夜、都中の空気が変わった。
広場に立ち寄る者が増え、旗の下に花を供える者、
物言わぬまま膝をつく者、手をかざして目を閉じる者が現れ始める。
どこかで誰かが言った。
「……あれは、王でも、貴族でも、軍でもない。
私たちのための、旗だ」
誰かが扇動したわけではない。
組織された暴動もない。
それなのに、王都の一角に**“空白”が生まれた**。
政令が届かず、警備が撤退し、誰も命令を下せない――
無政府地帯ではなく、静かな“無指導地帯”。
それが、最も恐ろしい現象だった。
その頃、漆黒の塔の頂上では、
リアーナが遠くの空を見つめていた。
「旗は、降りたかしら」
彼女はひとりごちる。
椅子にも座らず、玉座も持たず。
ただ黒のドレスを身に纏い、風を感じる女。
「私は、“扇動”がしたかったわけじゃない」
「私は、“仕返し”がしたかったわけでもない」
彼女はそっと胸に手を当てる。
かつてそこにあった、聖女としての核はもうない。
あるのは――自分が選んだ“魔”の在り方だけ。
「ただ、私は。
“命令されずに生きる感覚”を、誰かに知ってほしかっただけなの」
「選ぶということが、どれほど恐ろしくて。
どれほど、気高いかを」
空に小さく黒い光が揺れる。
それは、王都のどこかにある旗と呼応していた。
「私は、王にならない。指導者にも、偶像にもならない。
ただの――“最初に飛び込んだ女”でいい」
そして、リアーナは微笑んだ。
その笑みには、憐れみも誇りもなかった。
ただ、完全な自己肯定があった。
こうして、王都においても“誰のものでもない旗”が翻り、
秩序は揺らぎ始める。
だが不思議なことに、暴動は起きなかった。
人々が、**「誰かに命じられなくても、動ける」**ことに気づいてしまったからだ。
その日を境に、王都は静かに、“支配されない空気”に包まれていく。
そして、その空気が王政を最も深く侵食していくことになる――
貴族でも、軍でも止められない、
“思想という魔”の拡大が、ついに始まったのだった。




