お嬢さまは立ち食い蕎麦がお気に召したようです
ケイの向かった先では、連絡通路の両脇の壁面にカウンター口があいていて、軽食のスタンドが等間隔で並んでいた。移動中に遅めの昼食にありついているらしいサラリーマンや、学校帰りだろう一〇代の少年少女のグループが、黙然と、あるいはにぎやかに立ち食いをしている。もう今日の仕事を切りあげたらしい労務者風の男たちは、手にエールやジントニック、その他安酒の紙、プラのカップを持っていた。中途半端な時間でもこれだけ人がいるということは、朝晩のピークはそうとうに混雑するのだろう。
タコスやフィッシュ・アンド・チップスにケバブ・サンドといったホットスナックから、プレッツェルやドーナツ、アイスクリームなどのスイーツまで、さまざまなスタンドが軒を―というより口を―連ねる中、ケイは迷いなくスタンドのひとつへ向かっていって、勝手知ったる様子でカウンター越しにオバちゃんへ注文をする。どうやら、もうなじみ客になっているようだ。
「鳥ネギ冷やしで、そばね」
「あいよ。冷やし鳥ネギおそばで一丁」
オバちゃんが差し出してきたタブにケイがICカードをかざすと、決済を知らせる電子音が響いた。見た目はレトロだがシステムは新しいようだ。
ケイは振り向いて、周囲とは一線を画した毛色のスタンドに立ち尽くしていたさゆりとクレスをうながす。
「おふたりとも、カウンターの上にメニューが出てるから、もっとこっちきて」
「……パスタじゃねえな。なんのヌードルだ?」
「おそば。うどんもあるよ」
怪訝げな顔をしていたクレスだったが、ケイの説明を聞きながらカウンター内の様子を一瞥して、ピンときたようだ。
「ああ、飲み物か。醤油汁好きだなおまえ」
「たしかにサイドメニューにカレーもあるけど。ここのメインはあくまでそばとうどんだよ」
「おでんが飲み物なら、これも確実に飲み物じゃねえのか」
そばとうどんが飲み物あつかいされていないことにクレスが釈然としないものを感じているうちに、ケイは違う点に気を取られていた。
「そういえばだしは使ってるんだから、おでんも出せそう。……ねえオバちゃん、おでんはメニューにないの?」
「おでんを出すと客の回転が悪くなっちゃうんだよ、あれはお酒と合わせて食べるモンだから。それにしても、あんたがほかの子連れてくるのは、はじめてだね。友達かい?」
茹であがったそばを流水にさらして冷ましながら、オバちゃんはケイの質問に答えると逆に訊ねてきた。
「どういう関係に見える?」
茶目っ気ぶくみに問い返してみるケイに対し、オバちゃんはお盆に器を並べながらさゆりとクレスに目をやる。
「お嬢ちゃんのほうは同級生だろうけど、兄ちゃんのほうはなんだろうね? どっちかの彼氏って感じはしないけど。はい、冷やし鳥ネギそばお待ち」
「いただきまーす。……もしかして、ふたりともぜんぜんお腹空いてなかったり?」
割り箸をふたつにしたところで、ケイはさゆりとクレスの顔を交互に見遣った。クレスはもっぱら連絡通路を行き交う人々の動きを視線で把握していて、仕事をしながらメニューをじっくり見ていられないということがわかったが、さゆりはただ決めかねていただけのようだ。
ケイの前に出てきたお膳を見て、さゆりはオバちゃんへ声をかけた。
「すみません、同じものをください」
「あいよ、冷やし鳥ネギそばもう一丁。……あんた、財閥のお嬢さまによく似てるねえ。さゆりちゃん、だったっけ」
オバちゃんがそんなことをいいはじめたので、そばへ伸びかけていたケイの箸がとまり、クレスもカウンター内に視線を戻す。
さゆりはにこやかに笑いながらタブにカードをタッチして、
「たまにいわれます。でもわたしは財閥とはまったく関係ありません」
と、うまく切り抜ける。そばの入ったデボを湯にくぐらせながら、オバちゃんも笑った。
「そりゃそうだ。こんなところに世界一の金持ちの孫がいるわけないか」
「わたしたちは皆この街にきてから日が浅いのですけれど、おかみさんはずっとこの街でお仕事をされているのですか?」
「おや『女将』なんて言葉、よく知ってるねえ」
「母が旭東皇国の人なので。おそばのお店を出しているし、おかみさんも、もしかすると、と思ったのですが」
横で聞いていたケイが唖然とするほどあっさりと、さゆりはオバちゃんの心理的ふところに飛び込んでいた。やはり財閥令嬢としての育ちの賜物だろうか。オバちゃんはすっかり相好を崩して、自身のルーツを話してくれた。
「うちはひい祖母さんの代に開拓団としてこの国にきたんだよ。荒れ地ばかりで、最初のうちは畑になにを植えても蕎麦くらいしか育たなかったんだとさ。畑は手放したけど、そば屋はいまもこうしてやってるってわけだ。あんた、さゆりちゃんにそっくりなのも道理だね。お母さまが旭東皇国の出って、お嬢さまとおんなじだ。――はい、冷やし鳥ネギそばおひとつ」
「ありがとう。いただきます」
フォークも用意されていたのだが、さゆりが手にしたのは割り箸だった。ケイはお嬢さまが箸を使うところを見るのはじめてだ。おぼつかないところは一切なく、さゆりはそばをつまんで口へと運ぶ。母親のヨリコが健在のころは、こうした箸を使う料理もよく食べていたのかもしれない。
オバちゃんは並んでそばをたぐるケイとさゆりの姿に顔をほころばせていて、もうなにも注文しなくてもよさそうだったが、ひとり一オーダーは最低限の義理だと思ったか、クレスはカウンター上のガラスケースへ指を擬した。
「そこの握り飯もらっていいか?」
「あいよ、天むすだね」
オバちゃんがおにぎりのふたつ載った皿を出すと、クレスは小銭で支払ってその手で受け取った。クレスが両手をふさがないようにしていると察して、ケイはそのプロ根性に感心する。同時に、冷やっこの小鉢を左手に、箸を右手に持っている自分のありさまに気が差した。護衛としてはまったく役に立っていないかもしれない。
見た目と言動のやる気なさとは裏腹に、お忍び要人の警護役として必要十二分の働きをしている青年は、周囲への警戒を途切れさすことなく天むすをぱくついた。そしていわく。
「フライをくたくたにしようって発想はなんなんだろうな。べつに不味かねえが」
「そのおにぎりに入っているのは天ぷらっていうの。たしかにフライの一種だけれどね」
横からそう注釈を入れたのはさゆりで、
「天ぷらそばもおいしいよ。でも、今度機会があったらおすすめはコロッケそばかな」
と、ケイがさらに補足を加えた。クレスは聞き慣れない単語を反復する。
「コロッケ……?」
「そこにあるでしょ」
ケイのしめした楕円形できつね色の揚げ物を見て、クレスにも意味はわかったものの、理解はできない。
「クロケットのことか。醤油汁にクロケットを浸けて食う……? わからん文化だ」
「コロッケの親戚筋の料理は世界中にあって、スープと一緒のメニューがお決まりのところもすくなくないのさ。それなら最初から同じ器に盛っちゃって悪いことはないだろうよ」
オバちゃんが解説したところで、さゆりがふたたび箸をとめた。
「わたしはコロッケがおそばの具になるというのは、はじめて知りました」
「あー、お嬢ちゃんは育ちが良さそうだもんねえ。コロッケそばはローカルメニューだし、外道食いなのはたしかさ」
「そうなのですか。でも、食べてみたいですね」
「寒い日に食べるコロッケそばは、最高にうまいよ」
「あたしが最初にここにきた日はほんと寒かった。オバちゃんがコロッケそばオススメしてくれたんだっけ」
すこしばかり懐かしげにケイがそういうと、オバちゃんは壁にかかっているカレンダーへ目をやって、
「ありゃ、もう半年たつんだねえ。すっかり夏になっちゃって。この歳になると月日がすぎるのがあっという間だよ。……あんたたち、いつまでも若さがあると思ったら大間違いだからね。貴重なんだからちゃんと使うこった」
と、なにやら意味深長な表情を浮かべた。箱入り娘のさゆりはさることながら、見た目はともかく実際には生まれて三年しかたっておらず、身体的にはこの先も変わることがないケイも、オバちゃんのいわんとするところがわからなかったのできょとんとしている。
仕方ないので、クレスが微苦笑して応じた。
「貴重なご忠告をいただいておいてあいにくだが、あんたの最初の見立てどおり、俺たちはそういう連れ合いじゃない」
「おやおや、こんなかわいい娘ふたりもエスコートしながら、なんにも思うところがないってのは、逆に失礼じゃないかい」
こと色恋に関しては旭東皇国の奥ゆかしさではなくこの地の情熱的な愛を奉じているらしいオバちゃんに対し、
「そっち方面では信用あってのお務めでね。美男子すなわちプレイボーイってのは偏見ってもんさ」
クレスはそういってすました顔をしてみせたが、しれっと自分で美男子を標榜したのでは、神妙さのない科白であった。
「ふうん、他人さまの性癖にケチをつける気はないけど、なんだかもったいない話だね」
人それぞれと納得したのか、還らぬ青春のひとときが空費されているというやるせなさなのか、オバちゃんが吐息をついたところで、年長者がよくわからない話をしているあいだに箸を早めていたさゆりとケイがそばを食べ終わっていた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした。おいしかった」
オバちゃんは満面の笑みで、カウンターの内側に空になった食器を引っ込める。
「ありがとうねえ。お口に合ってよかった」
「おそばのスタンドってはじめてでしたけれど、こんなに早くて安くてもおいしいおそばが出てくるのですね」
「そばも寿司も、そもそもは屋台で食べるファストフードだったんだよ。高級料理になってうまいものになったわけじゃなく、最初からうまかったのさ」
オバちゃんが食器を洗いながら『ワショク』の歴史を述べると、クレスがつぶやいた。
「寿司か。俺はアボカドロールやらクラブスティックロールしか食ったことないな」
「まわるのでよければ、安くておいしいとこ知ってるよ。今度いく?」
ケイが訊ねてみたが、クレスは本日幾度目だろうか、不可解そうな顔になる。
「まわる……? 縦にか? 横にか?」
「ああそっか。回転寿司って、知らない人にとっては謎の単語だね」
「お寿司もいいけど、うちにもまたきとくれよ」
商売人の声になってそういうオバちゃんに、
「もちろん、すくなくともあたしはまた来月にはくるから」
とケイは応じ、
「わたしも、できるだけついてこられるようにします」
さゆりもそういって会釈した。クレスは無言ながら、軽く手をかざしてから背を向ける。
「じゃあ、ここからだと展望台のほうが近いんで、そっちから行きましょう」
乗継ぎ方面ではなく、地上のほうへ向かいながら、やや斜めうしろからついてくるさゆりへ、ケイはつぎの目的地を告げた。さゆりは薄いが柔らかい笑みで、うなずく。
「まかせるわ。あなたが案内してくれるところは、わたしもきっと、全部好きな場所になる気がする」
ふたりのあとを、クレスは一見ではぶらぶらとした歩きかたで、ただすれ違っただけの通行人からは三人連れだとわからない程度の距離を空けながら、しかし全周囲へ鋭い警戒の神経を張りめぐらせつつ、ついていった。
陽がかたむき、街にはじょじょに黄昏の空気が広がりつつあった。中心街のほうへ向かっていることも相まって、人どおりも、だんだんと増えていく。