(一) 3 無知の領域
第一章完結です。
柳井さんとの再開、カオリが語った過去とは?
「思い出したんだ。」
柳井さんは会うなりそう言った。
「場所移しましょうか」
私達は近くの喫茶店に入って珈琲を2つ注文した。また待ち伏せされたことは、気にしていない。誰かに話したい気分だった。これから話すことは、別に面白くも何ともない話。彼にとってタイミングが良いのか、悪いのか、捌け口の受け取り手になってもらう。待ち伏せのはそれでお相こ。
珈琲が来るまで二人とも無言だった。頭の中を整理するのにちょうどいい。マスクとマフラーを外し、手元の珈琲を一口飲んで、私は話始めた。
「母は『善良ポイント制度』初の受給者でした。特別手当金っていうのかな、母は死んでしまったから、もらったのは私だけど。」
どこか他人事のようにしゃべる。じゃないと気持ちが高ぶって平静でいられなかった。
「六年は立ちますかね、あのときはニュースやネットで取り上げられたみたいだけど、私それどころじゃなかったから。知らなかったんですよね、私未成年なのに結構テレビ映っちゃったんですよ。」
ははっと笑ったけど片頬だけを上げたいびつな顔になってしまった。私はどんな顔になってる?彼の反応を見ずに話し続ける。
「ほら、何年か前にあったじゃない?あの頃、私が中学の時だったかなぁ、ボランティアの男性が行方不明になった男児を発見したニュース。あとは通り魔に切りつけられた女性を商店街の人達が助けた話とか、児童養護施設にランドセルをプレゼントするとか。あの頃からなんだよね、善良ポイントの案が出たのは。でも法案としては突拍子もないし懸念が多くて通るか通らないかって話になってて、そのまま流れそうになってたみたい。でもね、そんなとき母の列車事故があった。法案出した議員は飛びつくわよね。しかも救出された子どもはその議員さんの秘書の息子だったっていうじゃない!こんな好機ないわよね。お涙ちょうだいのシナリオつくって私の家に押し掛けて、あなたのお母様は素晴らしいって称賛を贈る。遺された一人娘にお金が渡る。今後の生活も安心ねって。そしたら簡単に世間はこれは良い法案だって認知しちゃった。」
そこまで一気にいうと、珈琲のことを思い出し一息つく。味は分からなかった。ミルクと砂糖ないと私駄目なのにな。ブラックで飲んでる。柳井さんの手元を見れば、彼はまだ一口も飲んでないようだった。「もったいないよ」そう指摘すると「あっ」と気づき、片手で持とうとしてすぐに両手で支えるように口元に持っていった。あなたは美味しい?
香りが私の心を落ち着かせる。目の前の人に瞳を写す。彼はどんな人間なんだろ?少しだけ彼の断片を知りたいと思った。
**
「あなたのお母様はとても素晴らしい方だった」
と何も知らない人達が私の母を誉め称えた。
特別手当てについて中学生の私にはさっぱりで、遺族に譲渡されることになりましたと、スーツ姿の人たちが何人も私のところへやってきた。
母の命がお金になって戻ってきた。私の目の前にお金が並べられ、放心したままどこか他人事のようにもう一人の自分が答えている。
「ありがとうございます」と条件反射で答える私がいて、後から後悔と自分の醜さに吐き気がした。ほとんど食べてなかった私は、ただトイレでうずくまり、身動きできずに汚物臭さを身にまとわせた。
お母さんのせいだよ、何かもらったらお礼を言うように仕向けたのは。人が慰問に訪れる度にありがとうございますと言い、お母さんは立派だったねと言葉をかけられる。命を亡くして立派なら、世の中の生きた人たちはみな立派じゃないのだろうか?
事故の事実を受け止めきれない私は、生きる気力も無くしてただ座っていた。そんなときあの子が来た。母に助けられた男の子はまだ小学生で3年生くらい。両親と共に一緒に来て、私の目の前で頭を下げた。外にはカメラと報道陣がつめかけていた。夜なのに、外は部屋よりも明るかった。
「本当にありがとうございました。」
頭を下げた大人二人の間に挟まれた男の子は、キッチリとした服装に包まれ利発そうで優しい子に見えた。助かって良かったね、という言葉は出てこなかった。
あのときなんであそこにいたの?
この子があの場所にいなければ
自転車を線路に挟まなければ
母があの時間通らなければ
母が助けようとしなければ
この子を先に行かせなければ
母が転ばなければ
誰かが助けてくれれば
なぜ死んだのが母だったの?
考えたら切りがない。
私の顔はどんな顔だったのかな。鏡がないから分からないけれど、酷いものだったでしょうね。
あぁ…悲しみより、憎しみの方が、生きる理由になるのね…
分かったのはそれだけー
**
あの日の夢を見たせいで、目覚めは最悪だった。寝汗で肌着がまとわりつき、脱ぐのに一苦労した。着替えるのもめんどくさい。そばにあったカーディガンを羽織りまた布団の中に戻る。あんなに汗をかいたのに体が冷えている。冬の冷気が足元から這い上がり寒気が止まらない。不安が心を侵食する。
叔父に引き取られてから数年後、高校を卒業すると同時に一人暮らしを始めた。あのときのお金は使っていない。使えるわけがない。お弁当屋さんでパートをすることになってから食事の面は良くなったと思う。物が少ないアパートは居心地は良く、市街地にあっても住宅が密集しているので、車や人の声で起こされることも少ない。
あの日から人と関わることを避けるようになった。ただ細々と小さい虫のように生きていければいい。
二度寝を諦めて窓を開ける。冷たい空気が体をさらに痛めつける。でもそれがちょうど良かった。
向かい側の一軒家の駐車場で男性が車のタイヤを替え、洗車をしていた。東北では冬になるとスタットレスタイヤに替えるのが当たり前だ。ガソリンスタンドでお願いする人もいるけど、あそこのご主人は自分でやるようだ。その光景をアパートの二階から何気なく眺める。家では奥さんらしき人が、室内から家の窓を拭いている。子どもはまだ寝ている時間。絵にかいたような普通の家庭、普通の幸せ。この光景が続きますようにと他人の家族を思いやる自分もいれば、不幸になってしまえと貶す自分もいる。どちらが本当でどちらが嘘とは限らない。どちらもほんとの気持ちだから。
洗車中のホースの水しぶきが角度を変えて、おもいっきりはぜた。車体の反対側に霧ができる。
「あっ」
それはうっすらと、浮き上がっていた。小さな虹。
儚い自然の色彩にみとれた。一瞬の出来事。虹を作り出した隣のご主人は気づいていない。一人の人間が、少しだけ、ほんの少しだけ、幸せな気持ちになったのも気づいていない。
世界がこんな風に無意識に幸せを贈っていたら、どんなに生きやすいだろう。そこに気づくかは、奇跡なのかもしれない。
透かした虹の先が美しいものばかりとは限らないけれど、せめて隠されてるうちは美しいものを夢想していたい。
読了ありがとうございました。
第一章完結になります。引き続き第二章読んでいただけると嬉しいです。ご感想もお待ちしております。