(四) 1 知らされなかった事実
最終章。善良制度が起こした思わぬ悲劇、それを聞いたカオリは?
「なんだ、咲かないのね。」
通りすがりの女性が呟いた。ボソッと出た言葉は誰に言うわけでもなく、思わず口から出たのだろう。
私はまるもり弁当店の店先を掃き掃除していた。店の前には、小さいながらも季節の苗を植えた花壇があって、いつも目の保養になっていた。今は芍薬がピンクの花びらを織り重ね、柔らかい影印を連ねていた。
ガーデニングが好きな奥さんは、自宅でもたくさんの花を植えていて、その一部をプランターに入れてドアの前を飾っていた。
先ほど通りすがりの女性が見ていたのはまだ咲いていない紫陽花の方。紫陽花はプランターとは別に直接土に植えていて、この場所で育てていた。私も毎年咲くのが楽しみで、水やりを理由に様子を見に行って、今か今かと咲くのを待っていた。お店をオープンさせた当初からあるらしいこの紫陽花は、他の紫陽花に比べて咲くのがいつも遅い。育て方が悪いんじゃない、そういう品種なのだ。他の公園の紫陽花が今満開に咲き乱れている中で、この紫陽花は幹に指二本ほどの小さな葉がいくつか重なるようにくっついている。その間にほんの小さな蕾が密集してちんまりとくっついていた。初夏の陽が眩しい中で、まだ薄黄緑色の蕾は固く、咲く様子はない。掌サイズの房があっても、全体的に痩せているので、みてくれはそんなに良くない。咲けば青紫色の綺麗な花びらが満面の笑顔で開き、見たものの心を和ませてくれるだろう。
「これから咲きますよ」とわざわざ通りすぎた女性に教えるほど勇気もなく、知らない人だからと、そのまま無言で見送った。次また通るかは分からない。
見過ごされた美しさに、私は一時の優越と寂しさを交ぜ秘そめ、静かにそよぐ紫陽花の緑葉を泰然と見つめた。
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『昨夜未明、市内で住宅を全焼する火災がありました。◯◯さん42歳男性の住む木造二階建て一軒家から出火、他にも妻の◯◯さん、娘の◯◯ちゃんが住んでおり、近くに住む男性の通報により消防が駆けつけ鎮火しました。捜索したところ焼け跡から3人の遺体が発見され、住んでいた家主と連絡がとれないため、彼らの遺体とみて確認を進めるとともに、出火原因を調べています。では続いてのニュースです、、、』
ラジオから流れてきた悲惨なニュースに心が痛い。
「最近火災の話聞かなかったから良かったわぁって思っていたのに、可哀想にね…」
まるもり弁当店開店直後につけたラジオ、そこから流れた不幸に奥さんも悲しそうに呟いた。梅雨も間近の時期に珍しい火災。煙草の不始末、放火、電気系等のショート色々考えられるけど、寝ている間だなんて、不運は重なるものだ。
「おはようございます」
お客さんがやってきた。いつものご近所さん、50歳くらいの女性で目が大きく穏和な雰囲気のある人だ。奥さんとは顔馴染みで、よく井戸端会議ごとく立ち話をしている。道の途中じゃくて、弁当店のカウンター越しだけど。今日ももれなくそのようだ。季節の山菜混ぜご飯弁当を注文したあと、待ちきれないのかすぐ話始めた。
「ねぇ聞いた?深夜に起きた火災の話?」
奥さんに向けた顔は少し暗く、いつも明るい話題を向ける彼女には珍しい表情だった。
「えぇ、さっきラジオで聞いたわよ。市内の火災のことよね?家族3人が犠牲になったっていう。」
「そうそう、それなんだけど。実はあれ通報ミスらしいわよ。」
「通報ミス?」
内緒話するように頬に手を軽くあて、おばさんは声をひそめて言った。
「ミスっていうか、消防のせいじゃないのよ。通報者が目の前で家が燃えてるのに消防に電話しなかったのよ。」
「なんでまた!誰かが通報したって勘違いしたとか?」
「それがどうも違くて、わざと、みたい。」
「わざと?」
「そう、深夜に近い時間だったけど、誰も通らなかったわけじゃなかったみたい。午前1時くらい?会社帰りのサラリーマンがいたらしいんだけど、燃えるのを見て、待ってたんだって。」
「なにそれ、放火でもない、でも通報しないって…どうしてまた…」
私もお弁当をよそっている間、支離滅裂なおばさんの話を気になって聞いていた。ひそひそ話どころか、感情が高ぶって声が大きくなっているので集中するまでもない。
「ほら、善良ポイントあるでしょ?それ欲しかったみたいよ。」
その言葉にドキッとした。
「通報者には善良ポイント入るじゃない?それが欲しかったみたいなんだけど、早く連絡しても、消防来る前に家主が気づいて鎮火しちゃったら意味ないって思ったらしいのよ。」
「なにそれ…」
「酷い話よね。私の息子にさ、消防に勤めてる友達がいるんだけど、そんな話聞いたみたい。友達もやるせないって嘆いてたわよ。家の人たち寝てる時間じゃすぐには気づかないわよね。そんなことも分からないのかしら。」
「善良ポイント欲しさにって、死んじゃったらなんにも意味ないじゃない!もっと早く連絡していたら、誰も死なずにすんだかもしれない、こんな大きな火災にならなかったかもしれないのに。」
奥さんの言葉が心に重く響く。
善良ポイントの操作、人がポイントによって支配されたために起きた不幸。自分自身にふりかかるならまだしも、他人を巻き込んでやっと気づく浅はかさに憤りを感じた。遅すぎた通報者はなにを思って燃える家を見ていたのだろう。他人の不幸を利用して、自分に利益をもたらす行為に高潔さも、まして良心なんて持ち合わせていない。それで善良ポイントをもらって本当に嬉しいの?
世の中の空気が変化してきている。
もともと元号が変わってから何かがガラッと変わった。何かの一つは善良制度。手のつけられない風潮と意識の齟齬はますます広まりをみせる。
まとわりつくような不快な匂いが忍び寄り、呼吸がしづらくて、不安と焦燥感に体が鈍くなっていく。いっそのこと、雨でも降ってくれたら、まとわりついた黒い泥を洗い流してくれるかもしれないのに、このときばかりは外の景色も暗雲とした灰色の雲が、空を這うように覆ってるだけだった。
そんな変化についていけず置き去りのまま、私はなにも変わらない。母の事故があってから六年間、私は成長できていない。変わることの後ろめたさもあるし、母がいないこの状況に慣れたとき、それは忘れるということなのかと、冷たい自分を呪いそうになる。
あのとき男の子に向けた恨みは自然と薄れてきている。だけど恨みを受けた人間は、忘れられる?それとも…?
ふと思った思考に、私はいいようのない不安にとらわれた。私が忘れちゃいけなかったのは、母ではなく…
「カオリちゃん?お弁当は?」
「あ、はい!できています。」
ハッとして奥さんにお弁当を渡す。
思考中にいながらもかろうじて慣れた作業に手を動かし、お弁当を作り終えていた。
「ありがとうございました!」と送り出しホッと一息つく。そこで息をつめていたんだと分かった。中断された思考に戻りそうになった私は、目の前の仕事に集中する振りをして、いやな考えを脇へ押しやった。
私は善良制度がはじまってから他人に期待することをやめた。見返りありきの制度が後ろに見え隠れして、どうしても信用できない。人の笑顔の裏が怖い。お金になって帰ってきた母のことを思い出して、あのときの感情が浮かび、私を暗い方へと導く。逃げたくてたまらない。そんな私が誰かを助けることなんてできるわけがない。だから自分にも期待していない。
慎ましく生きていければそれだけでいい。
今回の火事の話は痛ましい他ない。
私もいつか、どちらかの立場に立つときが来るのだろうか。そんなとき、私はどんな選択をするのだろうか。起きてもないことを考えてもしかたがない。
そう思っていたのに、その日は意外とすぐにやってきた。
だって私の選択は、すでに過去に行われていたんだから。




