〔ハル編〕アキ、高らかに
ぎぃ、と鉄製の扉をゆっくりと開けると広がる青空。
僕は昼休みの時間、アキに屋上へと呼び出されていた。
「遅かったじゃない。私そんなに暇じゃないの」
呼び出しに応じる義務もなければ理由もない。
フェンスに手を付きながら僕を振り向くアキは、まるで僕がここに現れるのが当然とでも言いたげなほど不機嫌そうな表情をしている。
「行ってないみたいね病院。なんで?」
「な、なんで……って」
ハルに会ってから3日が経とうとしている。たかだか、3日。非難される覚えは無い。行かなきゃならない訳でもないだろう。
「分かってるよあなたが病院に行かない理由。そりゃそうかなとも思うわ」
「なななんだよ理由って」
・・
「2日前、また患者さん亡くなったの。木島さんっていう品のいいおばさん。私は話した事は無かったけど姉さんは仲良かったみたい」
「……」
あの病棟に居るならば不測の事態って訳でもないじゃないか。冷たく聞こえるかも知れないが、それは分かってた事なんじゃ。
「もう遅いの。それは分かってる」
なにが、遅い?
「取り返しは付かない。姉さんは」
「だ、黙れよ!!」
そんな訳無いんだ。
あのハルが人を何人も殺してる、なんてことあるはずない。冗談にしたってタチが悪い。もう聞きたくない。
「あなた本人から聞いたんでしょう?姉さんは珍しく嬉々として私に話してくれた。『シショウはアキちゃんと違う』ってね。そうそう、こうも言ってたっけ、『わたしを理解してくれる病気じゃない初めての人』って。気に入られたものね」
淡々と告げるアキの口調には極端に抑揚が無い。
青空に吸い込まれていくような……まっすぐな棘のようだ。
「私があなたにお願いしたかったのはね。友人やましてや恋人に、なんて事じゃないの。『普通の感覚の高校生』と交流してほしかっただけ。あなたじゃなくても良かったの」
多分アキは怒っているんだろう。
ハルに。
そして僕に。
「姉さんはもう長くない。そしてあの人はこのままだと何の良心の呵責もないまま死んでいくことになるわ。それってどう思う?おかしくない?」
アキはフェンスを掴んだ手はそのままに僕との距離を詰めようとはしない。しかし僕はいま、なぜか息苦しさを感じている。
「あそこにいると『普通』が見えなくなるの。姉さんは自分の考えは絶対曲げないし、曲げなくても困らない環境なのよ。もう多分警察だって動き出す。安楽死は日本では違法だし、そんなこと姉さんだって知ってる。でも止めない。なんで?それは自分がもうすぐ」
死ぬから。
そう、アキは言った。
「関係ないのよ全部。残った私や両親、姉さんが殺した人の家族の全部。表ざたになった時の社会的体面や倫理観や常識。病気で可哀想、なんて感情は正直もうないわ。姉さんはおかしくなってしまったの。だから『外側』の視線がいるのよ。あなたみたいな普通な高校生からみたら姉さんがおかしく見えない訳が無いもの」
――だからあなたは病院に行かないんでしょ?と。
――怖くなったんでしょ?と。
――それでいいの。と。
――それが『普通』なんだから。と。
そう話すアキの目は僕の眼球を捉えて離さない。
「……」
そういえば。
僕は。
なんで病院に行かなかったんだろう?
僕はアキの言うようにそこまで具体的に考えていた訳じゃなかった。なにかもっとこう……うまく言葉に出来ないなあ。
「でもあえてもう一度お願いするわ。姉さんに気に入られてるあなたならきっと姉さんだって一度立ち止まってくれるはずなの!考えてくれると思うわ!心から反省してくれるかもしれないし、後悔だってするはずなのよ!その時初めて姉さんは安らかに眠ることになる!そのときはじめて私や両親は姉さんが死ぬことを悲しめる!もう姉さんが罪を償う方法はそれしかないの!」
まあ確かにそうか。
裁判だ、法律だと言って見たところで本人には残された時間が余りにも少ない。重病人を法廷に引っ張り出す、なんてこともないだろう。しかも何人も、となると判決が出るまでにはハルは多分この世に居ない。もうこうなってくると残された道はせめて懺悔して悔やんで貰わないと。アキの言い分はこんなところか。
「姉さんを『普通』にしてほしいの!新木くん、お願い!」
しかし気持ちよさそうに喋るんだな。
歪み加減は明らかにアキの方だと思うのは僕の勘違いなのかなあ。
確かにハルが人を殺してる、なんて聞きたくないし怖かったりもするが。
僕は僕をまだ信じてるんだ。
ハルが人殺しなんて絶対しないって。