〔ハル編〕だった?(ハルサイド)
心は穏やか。
冷たい月に照らされて青白く光る廊下を滑るように歩く。
4度目。
慣れたもの。なにより。
「……木島さんかい?」
廊下の窓際に立って夜空を眺めていた老人が、私の方を向かずに言葉を発す。
深夜2時、私は照明の無い廊下を進みながら答えてみる。
「うん。死神参上」
「ハルちゃんは天使だよ。この病棟のみんな知ってる」
やはり私の方へは顔を向けない。
私が天使なわけないのだけれど、否定するまでも無いような気がして。
「ありがと」
と、それだけ言って私は老人をすり抜ける。
42歳。女性。
木島さんの人生はいい人生だったのか、どうか。
思い返して歯噛みするような苦労や後悔があったとして、それが『不幸』だった事にはならず。
霧散した未来に胸を撫で下ろしたくなるような、悲惨な時間を過ごしてきたとしても『不幸』だったことにはならない。
本当の不幸は。
私に命を絶たれる事だ。
それを望まずには居られない現在の木島さんの境遇だ。
ぺたんぺたんと一歩進む度、膝から下の冷気は濃密さを増していく。
「……」
窓のサッシのシルバー、
非常口のグリーン、
壁の薄いブルー、
私のパジャマのピンク。
「…………」
死の纏わりついた病棟と、患者しかいないこんな場所でも世界はカラフルなのだと感心する。
私はポケットに入れてあった注射器を月明かりにかざしてみた。
控えめに月光を蓄えたガラス容器はきらきら輝いていて。
私たちには届かなかった幸運の欠片のように思える。
「おじゃまします」
少しだけ重く作られたドアをするすると横に滑らせると、そこには笑顔の木島さんが迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「幸せだった?」
まず、聞く。
一瞬表情を硬くさせた木島さんは、それでもすぐに笑顔に戻す。……手馴れている。おそらく誰かお見舞いにくるとこの表情をしてきたのだろう。それは木島さんの優しさだし、強さでもあって。
「聞かないでハルちゃん」
「ダメだよ。幸せだった?」
す、と木島さんの呼吸する音が闇に亀裂のように走る。
ビシビシとパラパラとひび割れていく木島さんの表情はそれでも笑顔を作ろうと。
「……」
言葉を失いつつ俯いて、見開いた瞳はまだ真新しい布団の皺だけを捉えて離さない。私は木島さんの言葉を辛抱強く待つ。
どんな言葉が出てこようとゴールは見えている。変えるつもりは木島さんだって無いだろうし私だって無い。
ただ、聞いておかなければ。
どんな人だったのかを聞いておかなければ。
私が今から殺すヒトはどんな心根の持ち主なのかを知りたかった。
木島さんは音が出るほど歯を食いしばり、手が白くなるほどシーツを硬く握り締める。は、と断続的な呼吸とも言葉ともつかない『音』。
--は、……く--
どんな葛藤があるのか誰にも分からない。
この病棟にいる人間だって、病気じゃなくたって。
他人の気持ちなど分かるはずが無い。
でも。
「幸せ、だったよ」
そう細く呟いた木島さんの言葉は何より気高かった。
す、と流れる涙もヒビみたいな笑顔すら尊い。
その言葉が真っ赤な嘘でも、だ。
「ハルちゃん……迷惑かけるね」
「いいんだよ」
私は木島さんの腕に注射器の針を刺す。
「あぁ。ありがとう、ありがとう」
「いいんだってば」
木島さんの涙と腕に刺した注射器が月明かりに揺れる。
私は。
花の散ってしまった桜の木の枝を窓の外に見つけ。
私は、やっぱり。
悔しくて悔しくて、
悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてくやしくてクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテクヤシクテ
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