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名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝

一騎の影 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝

作者: 条文小説
掲載日:2026/08/24

挿絵(By みてみん)


 琴の師として破格の待遇で雇われた美しい娘を、毎週ひと気のない野道で尾行する謎の黒装束の男。身の危険を感じた娘からの相談を受けた彰子は、「相場の倍の給金」や「距離を保ち続ける尾行」というごく小さな不自然から、背後にうごめく恐るべき陰謀を読み解いていく。莫大な遺産をめぐる強欲な企みと、愛情という名に隠された男の歪んだ執着とは。女の意思を無視して人生を奪おうとする男たちの傲慢を、名探偵・中宮彰子が理の冴えで鮮やかに断ち斬る本格歴史ミステリー。

 後年になって、中宮彰子さまの御名声が宮中のみならず、院の近臣や受領たちのあいだにまで広がってからというもの、奇妙な相談事は絶えることがありませんでした。


 失われた文箱、すり替えられた消息、出所不明の贈物、姿を見せぬ脅迫者、そしてときには人の生死にかかわる暗い企みまで、さまざまなものが御簾の内へ持ち込まれました。


 けれども、私が記し残したいと思うのは、必ずしも血腥い事件ばかりではありません。むしろ、いかにも取るに足らぬ奇妙事のように見えて、その奥に人の欲や執着が絡みつき、最後には思いがけぬ暴力へなだれ込むような一件にこそ、彰子さまの理の冴えはよく現れています。


 これから語ろうとするのも、そうした話のひとつです。若い女房のように美しく、しかも気立てのよい琴の師が、決まった道で、名も知らぬ男の影につけられる。


 しかもその男は、決して近づかず、決して声をかけず、ただ一定の距離を保ったまま、ひと気のない野道をどこまでも従うのだといいます。


 もしそれだけなら、物好きな恋慕の徒、あるいは臆病な求婚者と笑ってすませたかもしれません。でも話はそれほど軽くはありませんでした。


 その影の主は一人ではなく、背後には財の相続をめぐる企みがあり、さらにその先には、婚姻という名目を借りた、もっと乱暴で卑劣な罠が待っていたのです。


 私はこの一件を、後々まで忘れることができませんでした。なぜなら、あの朝、楢の林の奥で響いた女の悲鳴と、それに続く火急の駆け足、そして彰子さまが人の生き死にを前にしてなお、驚くほど冷静に事を見きわめられたお姿が、あまりにも鮮やかに胸へ焼きついたからです。


 その年の卯月も末に近い、夕方のやや遅い刻でした。私は藤壺の一隅で、几帳の影に寄りかかりながら、ここしばらく整理していた書付をまとめていました。


 彰子さまは、ある受領家の内紛にまつわる込み入った文の読み解きに、数日来心を砕いておられました。そのため、その日も御気分はやや鋭く、とりわけ無用な取次ぎを嫌っておいでだったのです。


 そこへ、遅い時刻にもかかわらず、若い女がぜひお目通りを願いたいと申し出がありました。案内してきた女房が、


「たいへん思い詰めたご様子で、明日まで待てぬと申しております」


と添えたので、彰子さまはわずかに眉を寄せられましたが、それでも追い返しはなさらなかった。


「そこまで申すなら、通しなさい」


 やがて御簾の前へ進み出た娘を見て、私はなるほどと思いました。背がすらりと高く、色白で、目もとの涼しい美しい人でした。でもそれ以上に目を引いたのは、ただ美しいというだけではない、健康でしなやかな張りのある身のこなしです。都育ちの箱入り娘とは違い、日ごろからよく動き、外気に触れ、気丈に暮らしている女の姿でした。


 彼女は深く頭を下げると、よく通る声で名乗りました。


園生菫子そのうのすみれこと申します。無礼を承知で参りました。どうか、少しだけお話をお聞きくださいませ」


 彰子さまは、しばらく無言でその女を見ておられたが、やがて静かに言われました。


「お困りなのでしょう。ですが、ご病気ではありませんね。しかも、かなりよく馬を乗りこなす方と見えます」


 菫子は目を見開いた。


「……どうして、それを」


「袴の裾です。内側の擦れ方が、鞍の脇へ継続して当たる人のものです。それに手の平も、ただ琴だけを弾く人の手ではありません」


 そう言って、彰子さまは御簾越しに、その娘の指先をしばらくご覧になった。


「琴の師で、しかも遠方へ定期的に通っている。違いますか」


 娘は、半ば驚き、半ば安堵したような息をつきました。


「……はい。わたくし、琴を教えております。そして本日参りましたのは、まさにその往き帰りの道で起こる、妙な出来事ゆえでございます」


 私は思わず身を乗り出しました。彰子さまも、さきほどまでの億劫そうなお顔を少しだけ改められた。好奇心が動いた時にのみ見せられる、あの微かな集中の気配があった。


 菫子の話によれば、その父はかつて雅楽寮に関わっていた楽人で、琵琶にも管にも通じた人であったが、数年前に病没した。母と二人きりで、他には頼るべき近親はほとんどない。唯一、父の兄にあたる人物が若いころ西国へ下り、さらに海を越えて大宰府筋の交易に関わったきり消息不明になっていたという。


「その伯父が、つい先の冬に亡くなったと聞かされました」


 菫子はそう言って、少し膝の上の袖を握った。


「それだけなら、何のこともありません。けれど、ほどなくして、わたくしどもの所在を尋ねる文が都に届きました。差出しは都で商いの仲立ちをする者のもとを通じてで、そこに現れたのが、二人の男だったのです」


 その二人の名を、一人は唐沢、もう一人を宇津木といいました。どちらも、伯父の最期に居合わせた旧知の者であり、生前の伯父から、「弟の家の女たちがもし貧窮しているなら見捨てるな」と頼まれたのだと語ったという。


 私はそこまでは、よくある話だと思って聞いていた。遠方で成功した者、あるいは逆に没落した者が、死の間際に都の縁者を気にかけることは、珍しくもありません。でも菫子は、ここで少しためらってから言葉を継いだ。


「……宇津木という男が、ひどく嫌らしい者でございました」


「どう嫌らしいのです」


 と、彰子さま。


「目つきも口ぶりも下卑ていて、会ってまもないのに、わたくしを値踏みするように見ました。髭は赤茶けて、顔は膨れ、酒に灼けたように赤い。とても、父が生きていたら、家へ入れることすら許さぬ種類の男でございます」


「もう一人の唐沢は」


「その方は、ずっと年長で、寡黙ではございましたが、礼儀がありました。色白で、どこか病身らしい陰もありますが、音曲を理解し、言葉も穏やかでございました」


 その唐沢が、やがてひとつの申し出をしてきたのです。自分には十歳になる娘が一人おり、母を早くに亡くしている。その娘のために琴の師を探していた。もしよければ、都から離れた山城と近江の境あたりにある自分の館へ住み込みで来てほしい、と。


「給金は相場の倍近く。しかも、月に三度は必ず都の母のところへ帰ってよいと申すのです」


「よすぎる話ですね」


 私がつい口をはさむと、菫子も苦く笑った。


「はい。けれど、父亡きあと、母と二人で暮らしていくには、あまりにありがたい条件でございました。それに、唐沢という方は、少なくともその時点では、信用できるように思えたのです」


 こうして彼女は、その館――千谷ちやしょうにある春蘭の院という古い別業――へ移った。


 館には老いた家扶の女が一人いて、家事のことを切り盛りしており、娘も素直で可愛らしかった。唐沢もまた、夜ごと音曲を好み、琴を聞いては心を和ませる風で、しばらくは何ひとつ不自由なく過ごせたという。


 だが、その平穏に最初のひびを入れたのが、赤髭の宇津木だった。


「その男は、十日ほど館に滞在いたしました」


 菫子は、その時の不快を思い返すように眉をひそめた。


「最初から、わたくしには馴れ馴れしく、下品なことばかり。自分は西国でどれほど銭を持っていたか、どれほど女に言い寄られたか、そんな話をしては、わたくしが眉ひとつ動かさぬのを面白がるのでございます」


「唐沢は、それを止めなかったのですか」


「いえ、何度かはたしなめてくださいました。けれど宇津木は酔うとひどく、ある夜など、わたくしが廊へ出たところを追ってきて、腕をつかみ、口づけさせろと申しました」


 さすがに私は顔をしかめた。彰子さまは少しも表情を変えられなかったが、その声は冷えていました。


「それで」


「唐沢さまが止めに入られました。すると宇津木は、逆にその方へ飛びかかって殴り倒したのです。翌朝には、さすがに館を出されました。唐沢さまも、二度とあの男を近づけぬと、私にお詫びくださいました」


 そこまでなら、ただ乱暴な男の不始末で済む。でも、本当の相談はそこから先に始まりました。


「月に三度、わたくしは休みの日の午前に馬で都近くまで戻り、二日後の朝にまた館へ帰ります。


 宿場というわけではありませんが、淀の渡し近くまで供をつけてもらえば、そこからは母の家まで早いのです。


 その往き帰りに通る道の中ほどに、片側が荒れ野、もう片側が古い館の林という、ひどくひと気のない場所がございます」


「その館の名は」


「長林の館と申します。今は誰が住むのか分からぬほど、閉ざされております」


「そこで、男に従われるようになった」


「はい。半月ほど前の帰り道、ふと振り返ると、遠く後ろに一騎の男が見えました。黒い直垂に、黒い烏帽子。年のころは四十くらいかと。近づくでも離れるでもなく、ただ一定の距離を保って、わたくしの行くままに従うのです」


「その次も」


「はい。また都へ戻る日にも、館へ帰る日にも。しかも決まって、長林の館へさしかかるあたりから現れ、そこを過ぎると消えるのでございます」


「顔は」


「遠くて、はっきりは。ただ、黒い顎鬚があるように見えます」


 私は、なるほど不気味な話だと思いました。直接害を加えるのではありません。でも、わざと見えるように付き従うのは、たしかに神経を削ります。


「先日は思い切って、相手を見破ろうといたしました」


 と菫子。


「道の先に急な曲り角がございます。そこで一気に馬を走らせ、角の向こうへ隠れて待てば、その男は止まれず顔を見せるはずだと思ったのです。ところが、待てども現れません。引き返して見ても、一本道のどこにもいない。脇道はございません」


「では、どこかへ消えた」


「はい。考えられるとすれば、荒れ野ではなく、長林の館の林へ入ったとしか」


 ここで菫子は、ひと息おいてから続けた。


「このことを唐沢さまに申し上げますと、その方はたいそう気に病まれまして、今後は牛車ぎっしゃを用意するから、一人であの道を通るなと仰せになりました。


 けれど、手配が間に合わず、今朝もまた一人で通ったのです。そして、やはり同じ男が」


 彼女はまっすぐ彰子さまを見つめた。


「気味が悪くてなりません。何者で、何のために付き従うのか。どうか、教えていただきたいのです」


 話が終わると、しばらく静けさが満ちた。外では、夕暮れの風に庭木がかすかに鳴る。やがて彰子さまが口を開かれた。


「まず、お尋ねします。あなたには、婚約者がおありですね」


 菫子は、はっとして頬を染めた。


「……はい」


「お名は」


惟成これなりと申します。工人に近い家の出ですが、今は内裏で灯台や車の修理にも関わる、手先の器用な方で」


「その方は、突然あなたを訪ねて来られることがありますか」


「ございます。ですが、このところは忙しく、遠出はほとんど」


「他に、あなたへ想いを寄せる男は」


 菫子は困ったように目を伏せた。


「宇津木は論外にございます。ただ……これは思い違いかもしれませぬが、唐沢さまが、ときどき、わたくしをただの師としてだけではなく、ご覧になることがございます」


「求婚されたことは」


「まだ。けれど、二人きりになることを好まれるように思えます」


 彰子さまは、私の方を一度だけ見られた。それは、「聞こえましたね」という無言の合図に近かった。


「わかりました」


 と、彰子さまは言われた。


「ただちに結論は出せません。ですが、まず知るべきことがいくつかあります。長林の館の住人が何者か。唐沢と宇津木の本当の関係はどうか。あなたの伯父の遺産が、実際どの程度のものなのか。それが揃えば、道も見えるでしょう」


「では、わたくしは」


「しばらくは、予定どおり振る舞いなさい。ただし独断で相手を試そうとしてはなりません。次の往き帰りは、こちらで様子を見ます」


 菫子は深く礼をし、退出した。彼女が去ると、私はすぐに言った。


「恋慕の者の尾行、というだけではなさそうですね」


「ええ」


 彰子さまは、すでに別の思考へ移っておられる顔だった。


「ただ恋慕だけなら、あそこまで距離を保つ必要はありません。近づきたいのに近づけぬ事情がある。しかも姿を見せることには意味がある。


 それから、相場の倍の給金を払いながら、牛車一つ常備しない館。気前がよすぎる話には、たいてい理由があるものです」


「では、私が」


「ええ、衛門。ひとつ、野道での見張りを頼みたいのです」


 私は、こうして翌々日の朝、頼みとする随身ずいじんを数名連れ、千谷へ向かうことになりました。私は約されたより少し早く都を出て、昼前には問題の道近くへ着きました。


 長林の館は、まことに名のとおり、老いた木々の林に埋もれるような古い屋敷で、正門の柱には崩れかけた家紋が残り、車寄せへ続く土の道には雑草が多かった。人目から隠れるにはうってつけの場所でした。


 私は随身たちを少し離れた林に待機させ、自らは道を見渡せる茂みの陰へ身を潜めました。しばらくすると、館とは反対の方角から、黒装束の男が一騎、ゆっくりと現れました。


 中年らしく見え、黒い顎鬚も、菫子の言ったとおりです。男は長林の館のあたりへ来ると馬を下り、林の切れ目へとすっと入り込んで姿を消しました。


 その少しの後、もう一騎、今度は都の方から菫子が現れました。淡い青の袿に狩袴を重ね、馬上の姿がひどくすっきりとして美しい。


 彼女が長林の館へさしかかると、先ほどの男が林から出てきて馬に乗り、距離を置いて後ろを進み始めた。


 私はじっと見ました。なるほど、ただ付いてくるのです。近づきもせず、追い越しもせず、ただ一定の距離を保つ。やがて菫子が振り返って歩みをゆるめると、男もゆるめた。


 菫子がついに馬を止めると、男もまた止まる。次の瞬間、菫子はいきなり馬首を返し、追う者へ向かって駆け出した。ところが男も即座に向きを変え、一度も顔をはっきり見せぬように逃げる。


 しばらくして菫子は諦めたように元へ戻り、そのまま先へ進んだ。男もまた距離を置いて従い、二人はやがて坂の向こうへ消えた。


 私はなおその場にとどまりました。するとしばらくして、黒装束の男だけが戻ってきたのです。男は館の門の前で下馬し、しばし立ってから、手を顔へやった。まるで紐か何かをほどくように見えました。


 その仕草を見た時、私は奇妙な違和感を覚えましたが、何が引っかかるのか、その場では判然としませんでした。男はそのまま林の中の道へ入り、館の奥へ消えてゆきました。


 その後、私は近くの茶店で長林の館のことを尋ねました。でも、確かな話は少なかった。最近借り手が入ったこと、その主は白髭の老法師のような男で、名を源正教みなもとのまさのりだとも、あるいは還俗した僧だともいうこと。時折、柄の悪い客が出入りすること。とりわけ赤髭の若い男が目立つこと。


 私はこれを携えて都へ戻り、夕刻には一部始終を彰子さまへ報告しました。ところが、私はお褒めの言葉を期待していたにもかかわらず、中宮さまは少しも喜ばれなかった。


「衛門、それではまだ足りません」


「足りませぬか」


「近くで顔を見るべきでした。あの男が、菫子の知る誰かであるか否か、それが今は大事なのです。それに、館から戻ってきたあと、顔のまわりへ手をやったと言いましたね。そこにこそ鍵があるかもしれないのに」


 私はすっかりしゅんとしてしまった。だが、彰子さまはそれ以上責めず、静かに続けられた。


「ただ、長林の館と赤髭の男がつながっていることは、これでまず間違いありません。そして、尾ける男はおそらく、正体を隠したいのです」


「では、次は」


「私が動きます」


 その二日後、菫子から文が届いた。内容は、私が見たとおり、例の男がやはり同じように従ってきたことの確認であった。だが追伸に、より重大なことが書き添えられていました。


 唐沢さまが、わたくしを妻に迎えたいとお心をお打ち明けになりました。わたくしはすでに惟成と約しておりますので、お断り申し上げました。あの方は穏やかに受け入れてくださいましたが、館にいるのが前よりも息苦しく感じられます。私はそれを読み上げてから、思わず言った。


「やはり、唐沢は」


「ええ」


 彰子さまは小さくうなずかれた。


「これで、あの尾行がただの他人の痴情でないことは、いよいよ濃くなりました」


 さらに数日後には、もう一通が届いた。いよいよ暇をいただき、次の都へ戻る日には館を去るつもりです。牛車も用意されましたので、帰り道は一人にはなりません。


 ただ、宇津木がまた近くへ来ているらしく、今朝も林の向こうに姿を見ました。あの男を思うと身の毛がよだちます。これを聞くなり、彰子さまはその日のうちに準備を整えられました。


「衛門、明朝、千谷へ同行なさい。今度は見張りではなく、止めに入る用意が要ります」


「危険がございますか」


「あります」


 それは、ほとんど断言でした。


「道を見張るだけの男と、館の陰に潜む乱暴者。それに、遺産が絡んでいます。菫子が去るとなれば、相手に残された時間は少ない。そういう時、人は一気に手荒になります」


 私は背筋が冷えました。それまで、どこか奇妙事として見ていたものが、急に生々しい危険を帯びてきたのです。


 翌朝は、夜半の雨が上がったばかりで、野の草は濡れ、朝日が一面に光っていました。


 私と彰子さまは、身分を隠した屈強な武官たちを護衛につけ、千谷へ向かいました。事が事だけに、彼らには万一の備えをさせてあります。私も懐に小さな懐刀を忍ばせたが、彰子さまはそれを見て、ただ一言、


「使わぬに越したことはありません」


 とだけ仰せになった。私たちが問題の道へ着いた時、まだ菫子の姿はありませんでした。


 そこで少し安堵しかけたのですが、ほどなく、向こうから空の牛車が、牛飼童の姿もなく、牛が怯えたように小走りで揺れながら戻ってくるのが見えました。


 その瞬間、彰子さまのお顔が変わった。


「遅れました」


 それだけ言うや、あのお方は武官たちに命じ、すぐさま林の方へ向かわせました。私も、ほとんど転ぶようにして後を追いました。


 道のわきに、若い牛飼童が倒れていました。額に傷を受け、気を失っています。まだ息はある。でも、いま構っている暇はありません。


 林の土はぬかるみ、そこへ新しい足跡が乱れています。女の履き跡、複数の男の跡、引きずられたような跡――。


「こちらです」


 武官たちが道をひらく後ろから、彰子さまは迷いなく楢の奥へ進まれた。


 するとその時、林の深みから、女の鋭い悲鳴がひとつ上がった。切り裂くような、喉の底から絞り出した叫びでした。私は胸を打たれ、夢中で走った。


 林の奥に、ぽっかりと開けた空地がありました。そこで私たちが見たものは、いま思い出しても胸が悪くなります。


 中央の楢の幹へ半ばもたれるようにして、菫子が立たされていた。手首を強く掴まれ、口には白布を噛まされ、顔は恐怖のため蒼白です。


 その前に立つのが、赤髭の宇津木。げびた笑みを浮かべ、片手に太刀、もう片手で女を自分の方へ引き寄せています。


 そしてその脇には、白髭の老いた男が、僧衣のようでもあり法師姿のようでもある半端な格好で、祝詞とも経ともつかぬものを終えたところでした。


 私は直感しました。これは、婚姻の真似事をさせたのだ、と。


「やめなさい!」


 私は叫んだが、その声をかき消すように、背後からもう一人の男が飛び出した。黒い顎鬚をむしり捨て、青白い顔を露わにしたその男こそ、唐沢でした。


「その手を放せ、宇津木!」


 彼は短刀を抜いていた。宇津木は振り向き、ぎらりと笑いました。


「遅いぞ、唐沢。もうこの娘は俺のものだ。そこな先生に、ちゃんと祝わせたあとだ」


「違う!」


 唐沢はほとんど狂気じみた声で叫んだ。


「お前なんぞに渡すくらいなら――」


 次の瞬間、二人はもつれ合いました。宇津木は太刀を振り、唐沢は短刀を突き出す。老法師はわめいて脇へ退いた。私は菫子の方へ走ろうとしましたが、彰子さまが鋭く一喝された。


「捕らえなさい!」


 声は決して大きくなかった。でも、その場を切るような厳しさがあり、命を受けた武官たちが一斉に踊り出た。彼らがもつれ合う男たちをねじ伏せる間に、私は菫子のもとへ走り、口の布を外してその身を楢の陰へ引き寄せた。


「衛門、娘を!」


 そう命じられ、私は彼女を支えた。菫子は震えていたが、意識はしっかりしています。


 その間に、宇津木の太刀が唐沢の肩を打ち、唐沢の短刀が宇津木の脇腹を浅く裂いたが、あっけなく武官たちに取り押さえられたのを見て、宇津木は無念そうに舌打ちし、老法師は観念したように肩を落としましたた。


 唐沢だけは、なおも血走った目で宇津木を見ていたが、彰子さまが静かに言われた。


「唐沢。あなたは守るつもりだったのでしょう。ならばいま短刀を納めなさい」


 その一言で、彼はようやく力を失ったように膝をつきました。


 菫子は館の一室へ運ばれ、私は付き添って湯を飲ませました。


 しばらくして震えが少し治まると、彰子さまは別室へ男たちを集め、順に事情を聞かれました。


 最初は皆、互いを罵るばかりで要領を得ませんでした。でも、彰子さまが一つひとつ筋を立てて問い詰められるうち、しだいに全貌が見えてきました。


 菫子の伯父は、都を離れて西国から大陸筋の商いに手を出し、晩年になってかなりの財を作っていました。ただし本人には子がなく、死ねば最近親たる姪――つまり菫子――が、その財を受けることになる。


 唐沢と宇津木は、その伯父の近くで働いていた。遺言が整わぬまま老人が弱っていくのを見て、二人は先回りして菫子を捜し出し、どちらかが彼女と婚姻すれば、その財に手が届くと考えたのです。


「くじのようなもので決めたのですか」


 と私が呆れて言うと、宇津木は血のにじむ脇を押さえながら、ふてぶてしく笑った。


「そうだ。道中の勝負で、俺が勝った」


 私はその顔を見ただけで吐き気がしました。当初の筋書きでは、唐沢がまず菫子を館へ呼び寄せ、そこで宇津木が言い寄り、力ずくででも婚姻へ持ち込むつもりだったそうです。


ところが、唐沢は途中で本気で菫子に惚れてしまった。彼女を宇津木に渡すことが我慢ならなくなり、二人は激しく対立した。


「ならば最初に、彼女へ真実を話せばよかったのではありませんか」


 私は唐沢へそう言いました。でも彼は、蒼白な顔で首を振った。


「離れていってしまう。それだけは、耐えられなかった」


「それで、尾け回した」


「……はい」


 黒い顎鬚は変装でした。菫子に自分と知られぬようにしながら、館へ帰る日も都へ戻る日も、あの道を見張っていたのです。宇津木やその仲間がどこで手を出すか分からなかったからだ。


 私は、呆れと怒りとが入り混じった気持ちになりました。守るためと言いながら、結局は自分もまた、彼女の自由を奪う企みの一端にいたのだから。


 問題の老法師――長林の館を借りていた男は、源正教と名乗っていましたが、実際には還俗同然の破戒僧で、金でこうした婚姻の真似事を引き受ける卑しい男でした。


 そして決定打になったのが、二日前に届いた一通の急使です。伯父がついに死んだ、という知らせでした。


 それで宇津木は焦った。菫子が館を去る前に、何としても「夫婦」にしてしまえば、後でいくらでも言い立てようがあると考えたのです。


 そこで牛飼童を襲い、牛車から菫子を引きずり下ろし、林へ連れ込んだ。唐沢もまた不安から後を追っており、私たちが駆けつけたとき、ちょうど追いついてきたのでした。


 事情を聞き終えると、彰子さまはしばらく黙っておられた。男たちは、それぞれ違う意味で青ざめていました。宇津木は怒りと負傷で、唐沢は絶望で、老法師は保身ゆえに。やがて、彰子さまは言われた。


「まず、はっきり申し上げます。この“婚姻”は、婚姻ではありません」


 宇津木が何か言い返そうとしたが、彰子さまはそれを許されなかった。


「本人の同意なき婚姻は成り立ちません。まして口を塞ぎ、力で連れ込み、僧籍もあやしい者に祝わせたところで、何の効もない。あなた方がしたのは、婚姻の形を借りた脅しにすぎません」


 その言葉を聞いた瞬間、別室で休んでいた菫子が、障子の向こうで泣き崩れる気配がした。きっと、心のどこかで、すでに取り返しのつかぬことになったのではと恐れていたのでしょう。


 唐沢は顔を上げ、かすれた声で言った。


「わたしは……わたしだけは、あの人を助けようと」


「助けるなら、最初から企みに加わらねばよかったのです」


 彰子さまの声は少しも揺るがなかった。


「あなたが途中で悔いたとしても、呼び寄せた時点で、すでに彼女を罠へ導いていた。しかも真実を隠したまま、彼女が去るのを恐れて黙っていた。それは愛ではなく、自分本位です」


 唐沢は何も言えなかった。その沈黙の中に、彼自身も分かっていたのだと私は思いました。


「衛門」


「はい」


「使いを出して、検非違使へ知らせなさい。牛飼童への暴行、誘拐、強要。十分です」


 私はすぐに供の一人へ言い含めて走らせました。


 男たちが拘束され、館に見張りがつくころには、菫子の顔色も幾分戻っていました。でも、さすがに心の衝撃は大きく、身体の震えはなかなか止まらなかった。私は彼女のそばに付き添いながら、できるだけ静かな声で話しかけました。


「もう大丈夫にございます。あの者どもは、二度とあなたへ触れませぬ」


「……本当に」


「ええ。中宮彰子さまが、はっきりそうお定めになりました」


 菫子は、しばらく涙をこぼしていたが、やがてぽつりと尋ねました。


「唐沢さまは……最初から、全部ご存じだったのでしょうか」


 私は答えに窮しました。人というものは、悪と善とがそうきれいには分かれません。唐沢はたしかに彼女を守ろうとしました。でも同時に、彼女を欺く側でもあった。結局私は、正直に言うことにしました。


「途中で心を変えたのでしょう。けれど、最初の企みから無関係ではございませぬ」


「……そう、でしょうね」


 菫子はうなずいた。その顔には、悲しみはあっても、未練はなかった。


「わたくし、あの方を少しだけ、気の毒に思っておりました。どこか寂しい人のように見えましたから。でも、あの方も結局、わたくしを“人”としてではなく、“手に入れるもの”として見ていたのですね」


 私は、その言葉の鋭さに胸を突かれました。まったくその通りだったからです。


 その日のうちに、菫子は母のもとへ送り届けられました。惟成にも知らせが行き、彼は翌日にはすぐ駆けつけたといいます。


 宇津木と老法師は、検非違使に引き渡されました。唐沢については、彼が最後に止めに入ろうとしたこと、またこちらに事前に尾行の事実を隠したとはいえ、実際に菫子の身辺を見張って危害を防ごうとしていたことも考慮され、最も重い咎めは免れました。でも、企みに初めから関わっていた以上、無罪というわけにはいきませんでした。


 数日後、この一件を振り返って、私は彰子さまに尋ねました。


「最初にお疑いになったのは、どこでございましたか」


 彰子さまは、几帳の向こうから静かに答えられた。


「相場の倍の給金です。世に善意はありますが、理由なき厚遇は少ない。


 次に、尾ける男が決して近づかなかったこと。害意だけなら、機会はいくらでもあったはずです。


 つまり彼は、彼女を守りたいが、顔は見られたくないという、矛盾した立場にいた」


「それで、知った男だと」


「ええ。そして菫子が、唐沢から求婚されたと知らせてきた時点で、輪郭が見えました。


 唐沢は彼女に執着し、宇津木もまた別のかたちで執着している。


 遺産の話がその中心にあるなら、彼女が去る前に手荒な真似へ出るのは、むしろ自然です」


 私は嘆息しました。


「説明されると、いかにも道理にございます」


「理は、見えた後ではいつも平凡です」


 そう言って、彰子さまはごくかすかに笑われた。


 のちに聞けば、菫子は伯父の財産のうち、正当に受け継ぐべきものを受け、その一部で母と穏やかな家を持ったという。そして惟成と無事に婚儀を挙げ、都の外れで睦まじく暮らしました。


 私はそれを聞いて、心から安堵しました。でも、この事件を思い返すたびに、もう一つ忘れがたいのは、唐沢という男の姿です。


 彼は冷酷な悪人ではありませんでした。むしろ、途中から本気で菫子を守ろうとしたのでしょう。


 けれど、その「守る」という思いが、自分の欲と結びついた時、彼は真実を告げることも、彼女を自由に去らせることもできなかった。そこに私は、人の情のもっとも厄介なかたちを見ました。愛していると言いながら、相手の自由より自分の望みを優先してしまう心です。


 宇津木のような男は分かりやすい。乱暴で、欲深く、力で奪おうとする。でも唐沢のように、自分でも善いつもりでいながら、結局は相手を縛る側に回ってしまう者の方が、あるいは始末が悪いのかもしれません。


 彰子さまは、そのことを見抜いておられた。ゆえに宇津木には怒りを、唐沢には軽蔑に近い厳しさを向けられたのでしょう。


 この「一騎の影」の一件は、尾行する男の謎から始まり、野道の誘拐と偽の婚姻に終わりました。外形だけ見れば、ずいぶん芝居じみた話です。


 けれど、その芯にあったのは、ただひとつ――女一人の意思を無視して、自分たちの都合でその人生を決めようとした男たちの傲慢でした。


 そして、その傲慢を断ち切ったのは、宮中の簾の内にあってなお、人の心の歪みを誰よりも鋭く見抜く、中宮彰子さまのお力だったのです。

〜出典〜

The adventure of the solitary cyclist(自転車乗りの影)

作:Arthur Conan Doyle 訳:大久保 ゆう

コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/54914_47226.html


〜舞台背景〜

 「孤独な自転車乗り」(こどくなじてんしゃのり、"The Adventure of the Solitary Cyclist")は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち28番目に発表された作品である。この短編のタイトルには定番となっている日本語訳が存在せず、訳者・出版社により様々に翻訳されてきた。作中には自転車乗りとしてヴァイオレット・スミスとボブ・カラザースの二人が登場するが、the Solitary Cyclist がどちらを指すのかは明らかでない。しかし、カラザースを a solitary cyclist と表現する場面があることから、カラザースのことだとする説もある。出典:wikipedia


※タイトルが、被害者か犯人かどちらを指してるのか分からず、マニアの皆様が盛り上がってるそうです。

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