6.孫堅、出世する (地図あり)
熹平3年(174年)4月下旬 揚州 会稽郡 句章
「許昌の討伐成功に、乾杯っ!」
「「「乾杯!」」」
俺の指揮する決死隊の働きで、敵城を落とした官軍は、当然のごとく酒宴を開いた。
そして例のごとく、俺は英雄に祭り上げられ、酒の肴になっていた。
「グハハハハッ、それにしても見事な作戦じゃったな。おかげでようやく許昌を討ち取り、寿春へ帰れるわ」
「はい、これも臧旻さまをはじめ、皆さまのご協力あってのものです」
「本当に謙虚じゃのう、おぬしは。しかし儂は恩を忘れぬ男じゃ。おぬしの昇進は上奏しておくので、楽しみにしておれよ。まずはどこかの県の丞じゃな。そこから先は、おぬしの才覚しだいよ」
「はっ、深く感謝いたします。それと決死隊への報酬も、よろしくお願いします」
「うむ、そちらも任せておけ」
どうやら臧旻は、手柄を独り占めするような男ではないらしく、俺に昇進を約束してくれた。
まあ、1年半も手こずってたのを、俺が来て2ヶ月でかたづけちまったんだからな。
これを賞しなければ、誰を賞するって話だ。
そして彼は決死隊の面々にも、褒賞を約束してくれた。
決死隊は全軍から腕利きの志願者を募り、十分な報酬を約束して結成したのだ。
悲しいことに数名の死者が出てしまったが、それは遺族への見舞金をはずむ予定である。
もちろん俺も、今回の作戦の立案・主導により、特別ボーナスを得た。
その後も丹陽や会稽の太守と話してから、ようやく朱儁と話す暇ができた。
「本当にお世話になりました、朱儁さん」
「なに言ってるんだい、孫堅くん。お世話になったのはこっちの方だよ」
「いえいえ、朱儁さんがいなかったら、絶対にこんなに上手くいってないですよ」
「ハハハ、ありがとう。少しでも役に立てたのなら、僕も嬉しいよ」
これについては掛け値なしの本音である。
彼は頼りない指揮官たちの中で、頭ふたつは飛び抜けていた。
もしも彼がいなかったら、どうなっていたかと、ゾッとする思いだ。
「君は県丞に推薦してもらうのかい?」
「ええ、そのようですね。朱儁さんは?」
「幸いにも僕も、どこかの県令になれそうだ。これも君のおこぼれだけどね」
「そんな。朱儁さんの実力ですよ」
どうやら朱儁も出世の恩恵にあずかれるようだ。
ちなみに県令とは県のトップで、県丞はその補佐である。
互いにちょっとした、出世コースに乗ったと言えるだろう。
史実でも朱儁は出世を続け、黄巾討伐で俺を取り立ててくれている。
この世界でもそうなるよう、彼にはがんばってもらいたいものだ。
こうして俺は、許昌の乱の鎮圧に大きな貢献を果たし、故郷へ凱旋したのだ。
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熹平3年(174年)10月 徐州 広陵郡 射陽
ハロー、エブリバディ。
孫堅クンだよ。
あれから半年後には、俺は徐州は広陵郡 塩瀆県の丞になっていた。
県丞とは県令を補佐する次官であり、書類仕事をする文官だ。
おかげで以前に比べると、はるかに平和な仕事をこなしながら、俺は実績をつんでいた。
もちろん嫁の呉雨桐も一緒だし、孫静と呉景も連れてきている。
弟たちは俺の部下として使いながら、いろいろと仕込んでるとこだ。
いずれは俺の腹心としてこきつか、ゲフンゲフン。
働いてもらいたいからな。
その一方で俺はいろいろと理由をつけて、広陵郡を歩き回っていた。
そしてある人物の手がかりを、ようやく見つけたのだ。
「はじめまして。私は孫堅 文台と申すもの。貴殿が張紘どので、間違いないでしょうか?」
「……いかにも、私が張紘ですが、何かご用かな?」
「はい、私は塩瀆県で丞を務めているのですが、都に興味を持っております。そんな中で、都で学問をする張紘どのの噂を聞き、お話をうかがってみたいと思い、参りました」
「ほう、そうですか。わざわざ塩瀆から来ているとあらば、無下にはできませんな」
「ありがとうございます。それでは――」
幸いにも張紘には断られず、いろいろと話を聞くことができた。
しかし都(洛陽)の話自体はどうでもいい。
彼と親交を結ぶのが目的だ。
なにしろこの張紘は、後の孫呉の功臣であり、張昭と並び称されるほどの重要人物なのだ。
歳は俺の3つ上で、今は洛陽で学問に励んでいる。
史実ではその後、故郷に帰るのだが、出仕はせず、戦乱を避けて江東へ移住したらしい。
そして俺の息子である、孫策が旗揚げした時に初めて仕え、孫呉の重臣になっていく。
その政務能力は高く、張昭と共に深く信頼されたという。
そんな彼に、俺はツバをつけておくことにしたのだ。
しかしそれは、あくまで先を見据えての話だ。
今の仕事では、呉景や孫静でさえ暇を持て余しているのだから。
だが10年以上先になってくると、張紘のような名士の助けが必要になってくる。
そもそもなぜ孫堅が、黄巾討伐や対董卓戦で名を上げながら、独自の地盤を持てなかったかというと、名士や豪族との関係をおろそかにしたからだ。
その結果、袁術なんてケチな群雄の使い走りとして、荊州を攻めた挙句が例の討ち死にだ。
そうならないためには、事前に名士や豪族と顔をつなぎ、それなりの足場固めをしておく必要がある。
そのため徐州へ来てからも、官吏や学者の知り合いを増やそうと動いてる。
しかし県丞程度では、そっけなく扱われるのがほとんどで、あまり上手くはいってない。
そこで張紘ならばと思ってやってきたら、大成功だった。
やっぱり孫呉とは相性がいいんだろうな。
俺は彼と再会を約し、上機嫌で帰路についた。
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光和4年(181年)3月 徐州 彭城国 彭城
あれから7年経つうちに、俺は下邳国の盱眙という県を経て、今は下邳県で丞をやっている。
その間に嫁さんとの間には孫策が生まれ、スクスクと育っていた。
まだ7歳だが、後の猛将となる才能の片鱗は、うかがい知れる。
ぶっちゃけヤンチャ過ぎて、ちょっと困るほどだ。
一方、俺はまじめに仕事をこなしながら、上流層の知り合いを増やそうと努力していた。
その甲斐あって、多少は俺も名を知られるようになったし、張紘ともたまに連絡を取り合っている。
そして最近、とうとうもう1人の重要人物の情報をつかみ、彭城に人を訪ねたのだ。
「はじめまして。孫堅 文台と申します。あなたが張昭どのでしょうか?」
「……」
話しかけた人物は、無言で眉を上げた。
いきなり訪ねられて、いぶかしく思っているのだろう。
それでも俺が辛抱づよく待っていると、やがて彼が口を開いた。
「いかにも、私が張昭です。以前、どこかでお会いしましたかな?」
「いえ、貴殿のお噂をうかがって、一度でもいいからお話をしてみたいと思ってきたのです。ちなみに私は下邳で、県丞を務めております」
「ほう、下邳からわざわざ来られたと聞けば、無下にはできませんな。どうぞお入りください」
俺が県丞をやってると聞いて、ようやく安心したのか、張昭は屋内に招いてくれた。
張昭 子布。
彼も張紘と並び称されるほど有名な、史実の孫呉の重臣だ。
年は俺と同じなので、今は26歳。
いかにも頭の良さそうな顔立ちで、ほっそりとした青年である。
彼は都にこそ出ていないが、学問を好み、若い頃から名声をはせたという。
その名声を買われて陶謙という有力者から、茂才という試験に推薦されたのだが、彼はそれを断った。
おかげで腹を立てた陶謙に、投獄されてしまうのだが、友人の助けでなんとか釈放される。
その後、戦乱を避けて江東へ移住し、やはり孫策に仕えることとなるのだ。
彼は孫策の死後も孫権に仕え、孫呉政権を切り盛りしたのは有名な話である。
つまり彼の能力は折り紙つきで、しかも孫呉と相性がいい。
これは知り合いにならない手はないだろう。
俺は張昭が好みそうな話を持ちかけ、彼の興味をひこうとした。
すると張昭は少しキツい口調ながらも、いろいろと話に応じてくれた。
けっこう中身はいいヤツなのかもしれない。
結局、俺はさんざん張昭と議論をし、また再会を約して別れたのだ。
この調子で張紘と張昭は、いずれゲットしたいものである。
なにしろ戦乱の時代は、すぐそこまで迫っているのだから。