第132話 生還
暗闇だった。
光もない。
風もない。
空もない。
上も。
下も。
境界だけが、永遠に続いている。
ジンナイは、その闇の中を静かに漂っていた。
身体があるのかも分からない。
時間さえ、もう存在しない。
遠く。
誰かが笑っている気がした。
春の風。
青草の匂い。
澄んだ紫黒の双眸。
「・・・シキ」
返事はない。
ただ、静寂だけが広がる。
「シキ」
もう一度。
名前を呼ぶ。
約束だった。
――時が来たら、おれを呼べ。
――引っ張ってやる。
「シキ!」
今度は叫ぶ。
「シキッ!!」
その瞬間だった。
闇の奥で、小さな光が灯る。
一本の細い亀裂。
そこから白い光が漏れた。
ひびは音を立てて広がっていく。
ぱきり。
ぱきり、と。
世界そのものが砕け始めた。
無数の光が雪のように舞う。
その向こうで。
誰かが笑った気がした。
『……遊ぼう』
あの、穏やかな声だった。
ジンナイは思わず手を伸ばす。
届かない。
光は静かに遠ざかる。
最後に。
紫黒の双眸だけが、一瞬だけこちらを見た。
その口元が、たしかに自分の名前を刻んだ。
――ジンナイ・ショウマ。
異世界で目覚めて、たったひとりだけ、真名を交換した。
「――四季」
その瞬間。
眩い閃光が、すべてを呑み込んだ。
◇ ◇ ◇
白い天井だった。
消毒液の匂い。
規則正しく響く心電図の電子音。
重い。
身体が、鉛のように重い。
肺へ冷たい空気が流れ込む。
苦しい。
喉が焼ける。
ゆっくりと瞼を開く。
白い蛍光灯が滲んだ。
病室だった。
(・・・戻ってきた)
夢ではない。
シーツを握る。
柔らかな布の感触。
現実だった。
その時だった。
「・・・おにいちゃん?」
震える声。
ベッドの傍らで、一人の少女が立ち上がった。
やせ細った肩。
髪が伸びていた。
肩までしかなかったはずの髪は、背中へ届こうとしている。
一年。
その時間だけが、何より雄弁だった。
何度も泣いたのだろう。
赤く腫れた目。
「おにいちゃん!」
ケイトだった。
信じられないものを見るように、何度も何度も瞬きを繰り返す。
「先生!」
「先生ぇ!!」
泣きながら病室を飛び出そうとして。
次の瞬間には引き返してきていた。
「やだ・・・」
「また目を閉じたらどうしようって・・・」
震える手で、そっとジンナイの手に触れる。
温かい。
「ほんとに・・・」
「起きた・・・」
その場へ崩れ落ちるように膝をついた。
涙が止まらない。
ジンナイはゆっくりと思い出す。
赤い月。
冷たい池。
「死にたい」と泣きながら水へ沈んでいく妹。
必死で伸ばした手。
抱き寄せた温もり。
そのあと、自分の記憶は途切れている。
医師の声が聞こえた。
「奇跡です」
「一年近く意識が戻らなかったんですよ」
「妹さんが・・・毎日ここへ通われていました」
ジンナイは静かにケイトを見る。
ベッドの脇には、小さな折り畳み椅子。
読みかけの参考書。
着替え。
色あせた花。
もう何度取り替えられたのか分からない花瓶。
ケイトは泣きながら笑う。
「今度は」
しゃくり上げる。
「今度は、私がお兄ちゃんを助ける番だって、ずっと思ってた・・・」
ジンナイはゆっくりと手を伸ばした。
その頭へ触れる。
「・・・ごめんな」
ケイトは首を振る。
何度も。
何度も。
「生きててくれて、よかった・・・」
ジンナイは妹の手を握る。
温かい。
生きている。
瞼を閉じる。
赤銅色の髪。
紫黒の瞳。
そして。
最後までラゴウの手を離さなかった、一人の王。
青灰色の瞳。
胸の奥が、痛んだ。
恋だったのか。
友情だったのか。
執着だったのか。
それとも。
あの世界で生きた、もう一人の自分の記憶なのか。
分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがある。
あの世界で。
たしかに、自分は、生きていた。
病室の窓の外では、夏の風が、静かに木々を揺らしていた。
そして、四季は、巡る。
◇ ◇ ◇
季節は巡った。
一年。
二年。
三年。
白衣を着る。
患者を診る。
手術をする。
論文を書く。
大学病院。
助教。
整形外科。
誰もが羨む毎日。
それでも。
心だけが、
草原へ置き去りのままだった。
◇ ◇ ◇
夜。
病院を出る。
一人、行きつけのバーへ向かう。
いつもの席。
「マティーニを」
「もう一杯」
いつもの注文だった。
理由はない。
ただ。
透明な酒を見ると、
草原の夜明けを思い出す。
透明な酒が揺れる。
「あーあ……」
小さく息を吐く。
何も面白くない。
何をしていても。
何を見ても。
何かが足りない。
ぽっかり穴が空いたまま。
「・・・呼ばない」
あの女も。
あの王も。
そして。
あいつも。
名前を呼べば。
また戻りたくなる。
グラスを回す。
「・・・まったく」
苦笑する。
「シキでもいれば、一緒に飲むのに」
独り言だった。
本当に。
それだけだった。
カラン。
店の扉が開く。
ジンナイは振り向かない。
「いらっしゃいませ」
マスターの声だけが聞こえた。
第132話「生還」を読んでくださり、ありがとうございました。
異世界から現代へ帰ってきた陣内ですが、帰ってきたのは「身体」だけでした。
心には、ラゴウとの日々も、シキとの約束も、アレクと交わした想いも、そのまま残っています。
現実へ戻れば、すべてが元通りになるわけではない。
大切な人と出会ってしまった人間は、その出会いごと、これからを生きていくしかありません。
この物語を書きながら、私自身も「帰る場所」とは何なのだろうと考えていました。
異世界なのか、現実なのか。
あるいは、人なのか。
きっと答えは一つではありません。
そして、最後にバーの扉が開きました。
誰が入ってきたのか。
それは、次話で。
もう少しだけ、この物語にお付き合いいただけたら嬉しいです。




