第七章 最後の封印
――共鳴は、二人の魂を深く、そして逃れられないほど強く結びつけた。
その繋がりの向こうには、四百年前の終わりにて閉ざされたはずの「最後の記憶」が、静かに眠っていた。
* * *
『……始まった』
静まり返った研究室に、エドワードの低く引き締まった声が響いた。
魔法陣の中央。
紅と蒼の光が交差するその狭間に、おぞましい黒い亀裂が走っている。それはまるで、二つの魔力を繋ぐ不可視の道を、見えない何者かが外側から無理やりこじ開けようとしているかのようだった。
『エドワード』
アーシェが、険しく眉をひそめて尋ねる。
『これを止めることはできませんの?』
『今のままでは難しいですね』
『何故?』
『この術式は、遥香とレインの魔力だけで成立しているわけではありません』
エドワードは手元の魔導具を素早く操作しながら、冷徹な事実を告げる。
『四百年前の術式そのものが、二人の共鳴を媒介にして再構築されているのです』
エヴェンが苦い表情で呟いた。
遥香が口を開く。
「……つまり。アルフェンは、四百年前の続きを今の二人で完成させようとしているのか」
『その通りです』
遥香はグッと拳を握りしめ、自身の胸元にある熱を帯びた印を見据えた。
「だったら――」
遥香は顔を上げ、かつての仲間たちに問いかける。
「四百年前に、どうやって止めたんだ?」
その問いに、即座に答える者はいなかった。
重苦しい沈黙の中、フランシスがゆっくりと目を閉じる。
『……止めたというより』
「え?」
『封じたんだ』
遥香が息をのむ。フランシスの声は、かすかに、しかし確実に震えていた。
『そして、そのために――』
フランシスは、隣に立つヤガミへと視線を向けた。
『僕たちは、一人を失った』
ヤガミは何も言わない。ただ、遥香の胸元にある光る印を、どこか切なげな瞳で見つめていた。
「……ヤガミ?」
遥香が呼ぶと、ヤガミはしばらく黙っていたが、やがて困ったように、けれど観念したように小さく笑った。
『……もう、隠せないな』
「何だ?」
『これから見せるものは――』
一瞬、ヤガミの声が細かく揺れる。
『……私自身が、一番忘れたかった記憶だ』
* * *
次の瞬間、魔法陣が暴威を振るうように大きく眩い光を放った。
紅。
蒼。
そして、すべてを呑み込む黒。
三つの光が激しく重なり合い、遥香の視界のすべてを真っ白に染め上げていく。
すかさず、レインの強い手が遥香の手をしっかりと握りしめた。
「遥香」
「ああ」
「離れないで」
「……分かってる」
その声を最後に、現在の世界は急速に遠ざかり、意識は四百年の時を遡っていった。
* * *
――四百年前。
王都の上空は、絶望の色である「黒」に塗りつぶされていた。
かつて美しく栄えていた王宮は業火に包まれ、街中では「魔女狩り」の名の下に無慈悲な弾圧が続いている。
逃げ惑う人々の悲鳴と、魔術師を容赦なく捕らえていく兵士たちの怒号が交錯する地獄絵図。
そして、炎に包まれた王宮の最上階。
そこに、一人の男が立っていた。
絹糸のように伸びた長い銀髪。血を思わせる鮮烈な紅い瞳。そして、その全身から噴き出す禍々しい黒い魔力。
青年へと成長したアルフェンは、崩れゆく王都を冷徹に見下ろしていた。
その美しい顔立ちには、もはやかつての幼い頃の寂しさやあどけなさのかけらもなく、ただ冷たい静けさだけが支配していた。
「……素晴らしい」
アルフェンは独りごちるように呟いた。
眼下には、彼が黒い呪術で完全に操る父王の姿がある。
そして、その王の絶対的な命令によって狂ったように動き始めた兵士たちの姿も。
「これで――」
黒い魔力が、王都の隅々まで蛇のように覆っていく。
「誰も、私を拒絶できない」
誰も、逆らえない。
誰も、二度と自分から離れていけない。
それこそが、孤独の底でアルフェンが狂おしく望んだ世界の姿だった。
「……ヤガミ」
アルフェンは静かに、愛しい者の名を呼ぶ。
「これでお前も――」
紅い瞳を細め、彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「私の側に戻ってくる」
* * *
――そして。
激しい戦いの火蓋が切って落とされた。
場所は、王都から遠く離れた辺境の地。
昼間でさえ薄暗く、不気味な黒い木々が空を覆い隠す深い森。
後に人々から恐れを込めて―――シュヴァルツヴァルト(黒い森)と呼ばれる、呪われた土地。
そこには、太古から眠る強大な魔脈が潜んでいた。
「ここしかなさそうだな」
エヴェンが周囲を見渡す。
「この森そのものが、巨大な魔力の器になっている。術式を展開すれば、奴を完全に封じ込められる」
「よし、封印陣の構築を急ぐぞ」
エドワードが素早く複雑な魔導式を展開していく。
アーシェは周囲に鋭い警戒の視線を配りながら叫んだ。
「……来るわ!」
鬱蒼とした木々の間から、どす黒い霧が立ちこめる。
その中心から、アルフェンが姿を現した。
「……五人揃って、私を殺しに来たのか?」
紅い瞳。
艶やかに伸びた銀の髪。
そのたたずまいは、かつての孤独な少年の面影など微塵もない、冷酷な魔王そのものだった。
「アルフェン」
ヤガミが一歩だけ、静かに前へ踏み出す。
「……ヤガミ」
その瞬間だけ、アルフェンの歪んだ顔から狂気が引き、ほんの僅かに声が揺らいだ。
「まだ間に合う、引き返してくれ」
「何が『間に合う』だ……」
「戻るんだ、アルフェン」
アルフェンは自嘲するように狂おしく笑った。
「……もう無理だ、そんなもの」
「何故だ」
「私はもう、引き返せないほどに多くの人間をこの手で傷つけ、殺してしまった」
「だからこそだ」
ヤガミはまっすぐに彼を見据える。
「ここで、すべての間違いを終わらせるんだ」
アルフェンの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……お前は」
「なんだ」
「最後まで、私を救おうとするのだな」
「ああ」
「……それが、嫌なんだ」
「アルフェン」
「お前にそんなふうに憐れまれるくらいなら――!」
絶叫と共に、爆発的な黒い魔力が森を吹き飛ばさんと暴れ出した。
* * *
死闘は、常軌を逸した激しさだった。
エドワードが次々と術式を組み替えてアルフェンの魔術を相殺し、アーシェが仲間たちを致命傷から守るための硬い結界を張り続ける。
エヴェンは瞬時にアルフェンの膨大な術式の隙を突き、的確に弱点を暴き出す。
そしてフランシスは、自身のすべての魔力とヤガミの魔力を繋ぎ合わせ、絶え間なく術式を供給し続ける。
五人の魔女の力が、いま一つに融合する。
それでもなお、アルフェンという存在は圧倒的に強大だった。
アーシェが放った無数の光の矢を、アルフェンは片手で容易く弾き飛ばす。
エヴェンが繰り出す古代魔術をいなし、エドワードが命がけで術式の弱点を解析していく。
フランシスは激しい衝撃を潜り抜け、アルフェンへとまっすぐ走った。
「アルフェン!」
「来るな!」
放たれた黒い魔力の奔流が、フランシスを容赦なく吹き飛ばす。
「ぐっ……!」
「フランシス!」
ヤガミが素早く駆け寄り、その体を支えた。
「大丈夫か?」
「ああ……なんとかね」
胸を押さえながら立ち上がり、フランシスは歯をくいしばる。
「僕が……あいつを止めるんだ」
「無理をするな」
「でも――」
「分かっている」
ヤガミはフランシスの肩にそっと手を置き、穏やかだが揺るぎない瞳を向けた。
「一緒に止めよう」
「……ああ!」
* * *
その隙を突き、エドワードが魔導具を掲げて叫んだ。
「術式の中心を見つけました!」
「どこですの!」
「アルフェンの背後にある、あの巨大な魔法陣の中心……そこに黒い核が存在しています!」
「そこを破壊すればどうなりますか!」
アーシェが息を詰まらせて問う。
「王都全体を縛っている術式のすべてが崩壊します!」
「では――!」
アーシェが両手を構える。
「私が、一撃で撃ち抜きますわ!」
その掌に、眩いまでの巨大な魔力が一点に凝縮していく。
「アーシェ!」
エヴェンが危険を察知して叫ぶ。
「撃て!」
「――ええっ!」
放たれた一条の光が、魔法陣の中心へと容赦なく突き刺さった。
「ぐ……っ!」
アルフェンが、人生で初めてともいえる苦悶の表情を浮かべる。
「……邪魔をするな!」
怒りに満ちた黒い魔力がアーシェへと殺到するが、それを予測していたエヴェンが瞬時に立ちはだかった。
「させない!」
展開された巨大な結界が、押し寄せる黒い魔力と激しく衝突し、火花を散らす。
「エヴェン!」
「今だ!」
エドワードが絶叫する。
「フランシス!」
「分かっている!」
フランシスは弾かれたようにアルフェンへと肉薄した。
「アルフェン!」
「……っ!」
二人の強大な魔力が、正面から激突した。
* * *
その瞬間だった。
アルフェンの心の奥底に眠っていた記憶が、共鳴するようにフランシスの脳裏へと流れ込んできた。
幼いアルフェンが閉じ込められていた、底冷えのする暗い部屋。
『寒い……』
誰もいない、救いのない絶望。
そして、記憶のなかのフランシス自身の姿。
『僕は見ているよ、アルフェンだからだ』
さらに、ヤガミの優しい声。
『笑った方が、ずっと良い顔をしている』
すべての記憶が奔流となって駆け巡り、最後に映し出されたのは――。
『僕を選んで』
泣き叫ぶようなアルフェンの声だった。
フランシスは、溢れる涙を止められなかった。
「……アルフェン」
「見るな……!」
「君は……ずっと」
「見るなと言っている!」
「孤独で、寂しかったんだな……!」
「……黙れ!」
アルフェンの魔力が制御を失い、完全に暴走し始める。
「私は……!」
森全体が轟音を立てて崩れ落ちていく。
「私は、ただ――!」
そして、張り裂けそうな絶叫が響き渡った。
「――愛されたかっただけだっ……!」
その叫び声は、悲痛な響きを伴って森の隅々までこだました。
「……っ!」
アルフェンから爆発するように、鋭く尖った黒い魔力の槍が、放たれた軌道を変えてヤガミの身体を容赦なく貫いた。
「ヤガミ――――――――っ!」
フランシスが血を吐くような悲鳴をあげる。
鮮血に染まったヤガミの身体が、力なく崩れ落ちた。
「……フランシス」
「喋るな、傷を見るな……っ!」
「いいから……封印を完成させるんだ」
「嫌だ、そんな状態で……!」
「最後まで私の話を聞け」
ヤガミは震える血塗れの手を伸ばし、フランシスの腕を強く掴んだ。
「私の残りの魔力をすべて使え」
「……っ、そんなこと……!」
「お前なら……できる」
「できない、無理だ、君なしでなんて……!」
「できるさ」
ヤガミは苦痛のなかに、しかしどこか穏やかな笑みを浮かべた。
「お前を……信じているから」
フランシスの瞳から、止めどなく涙が溢れ落ちる。
「……ヤガミ」
「頼む」
「嫌だ、嫌だ……!」
「フランシス」
「君を失いたくない、行かないでくれ……っ!」
「……」
ヤガミは、ほんの僅かだけ、愛おしそうに目を細めて笑った。
「私もだ……側にいられなくて、すまない」
「……」
「だからこそ……頼む、この世界を救ってくれ」
* * *
その隙を突くように、アルフェンが狂気と涙に濡れた顔でこちらへ歩み寄ってくる。
「……ヤガミ」
その声には、先ほどまでの殺意ではなく、途方もない恐怖と焦燥が滲んでいた。
「どうして……」
「……」
「どうして、そこまでして私を止める……?」
ヤガミは消えゆく意識の中で、最後の力を振り絞って静かに答えた。
「お前が……私にとって、かけがえなく大切な友だからだ」
「……っ!」
「だから」
ヤガミの紅い瞳が、濁りのない光でアルフェンをまっすぐに見据える。
「これ以上、お前に罪を重ねさせたくない」
アルフェンの顔が、ぐしゃぐしゃに歪む。
「……私は」
あふれる涙を拭うこともしない。
「私はただ……君に愛されたかっただけなのに……!」
「……分かっている、最初からずっと」
「だったら……だったらどうしてだ!」
「だが」
ヤガミは静かに、しかしきっぱりと首を横に振った。
「愛とは、相手の自由を奪って自分の殻に閉じ込めることではないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
アルフェンは、それ以上の言葉を完全に失った。
* * *
その、わずかな精神の揺らぎを逃さず、エドワードが叫んだ。
「今だ、全力を注げ!」
「間に合わせる!」
エヴェンが持てるすべての術式を完全起動させる。
「フランシス!」
「わかっている……っ!」
「絶対に、失敗させませんわ!」
アーシェが放った最後の結界が、周囲の空間を完全に固定する。
五人の魔女の膨大な魔力が、一斉に一点へと収束した。
そして。
ヤガミの体内に残されたすべての魔力が、最後の絆としてフランシスへと流れ込んでいく。
「――っあぁぁぁっ!」
視界を埋め尽くすほどの眩い紅い光。
その輝きのなかで、ヤガミの身体が嘘のように薄れていく。
「ヤガミ……っ!」
フランシスがすがるように手を伸ばす。
「……フランシス」
「嫌だ、消えないでくれ……!」
「最後に」
ヤガミは穏やかに、微笑んだ。
「お前と出会えて……本当に、よかった」
「僕もだ……!」
フランシスの声が、痛切に震える。
「僕も……君に会えて、本当によかった……っ!」
そして。
ヤガミは静かに、永遠に目を閉じた。
その身体は、無数の紅い光の粒へと変わり、夜空へ溶けるように消えていく。
「ヤガミ――――ッ!」
フランシスの魂を絞り出すような絶叫が、暗い黒い森の奥底へとこだました。
* * *
アルフェンは。
ただ呆然と、その光景をその目に焼き付けていた。
「……あ…」
そして、何かがプツリと、彼の精神の中で完全に音を立てて壊れた。
「……返せ…」
紅い瞳から、とめどなく大粒の涙が溢れ続ける。
「私の……ヤガミを返せ……!」
制御を失った凄まじい黒い魔力が、森の木々を根こそぎ呑み込んでいく。
「私から……奪わないでくれ……!」
「フランシス、今しかない!」
エヴェンが声を張り上げる。
「わかってる……!」
フランシスは頬を伝う涙を乱暴に拭い去った。
そして、ヤガミから託された最後の魔力のすべてを、構築した封印術式へと一気に叩き込む。
「――これで、すべて終わらせる!」
紅。蒼。白。そして、おぞましいまでの黒。
すべての魔力が激しくぶつかり合い、巨大な封印の檻へと姿を変えていく。
「嫌だ!」
アルフェンが狂ったように叫ぶ。
「私は……!」
その身体が、まばゆい光の奔流に包み込まれる。
「まだ……!」
黒い魔力が最後の足掻きとばかりに暴れ狂う。
「ヤガミ……っ!」
最後に。
アルフェンの濡れた紅い瞳が、目の前に立つフランシスを捉えた。
「……お前まで」
ぽろりと、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「私を置いて、どこかへ行ってしまうというのか……?」
フランシスは、溢れ出る涙を抑えきれずに、しかしまっすぐにそれを見つめ返した。
「……違うよ」
「……」
「僕は、君のことを決して忘れない」
その言葉に、アルフェンの瞳がわずかに揺れた。
「だから……」
フランシスは震える両手を合わせ、封印の術式を最後の領域へと完成させる。
「眠ってくれ」
「……フランシス」
「いつか」
あふれる涙で掠れた声が、夜空に響く。
「君自身が、いつの日か自分の罪を許せる日が来るまで」
そして。
すべての術式が完全に噛み合い、封印が完成した。
アルフェンの身体が、幾重もの光の鎖に縛られながら、黒い森の深奥へと沈んでいく。
その時、最後に視界に捉えたのは。
涙を流しながらも、どこか哀しげに微笑む、かつての愛しい少年の顔だった。
「……ヤガミ」
その名を微かに呟いたのを最後に。
アルフェンは、シュヴァルツヴァルトの冷たい大地の底へと、完全に封じ込められたのだった。
* * *
圧倒的な静寂。
凍てつく黒い森に、いつしか冷たい雪がしんしんと降り始めていた。
誰も、しばらくの間その場から動くことができなかった。
アーシェが、震える手でそっと涙を拭う。
「……これで、終わったの……?」
エドワードは目の前で静まり返った封印陣をじっと見つめた。
「……いや」
エヴェンが重々しく首を振る。
「終わったわけじゃない」
「……」
「ただ、封じ込めただけだ」
フランシスは何も言わなかった。
ただ、ヤガミの姿が消え去ったその場所から、いつまでも目を離すことができなかった。
その手には、ヤガミから託された最後の温もりと、封印の反動の痛みが残っている。
そして。
エヴェンは静かに、しかし確信を持って呟いた。
「いつか」
「……?」
「この封印は、遠い未来の誰かによって必ず揺さぶられる」
エドワードがハッとして振り返る。
「なぜ、そう言い切れる?」
「アルフェンの持つ魔力は、決して消滅していないからだ」
エヴェンは黒い森の遥か奥、封印の底を見据えたまま言った。
「ただ、眠っているだけだ」
アーシェが不安に満ちた表情で尋ねる。
「では……いつか、また目を覚ますというの?」
「わからない」
エヴェンは静かに目を伏せた。
「だが――もし、あの男が再び目を覚ます運命の日が訪れるのだとしたら」
その言葉を聞き、フランシスは初めてゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、かつての迷いは消え、強い決意が宿っていた。
ヤガミから託された魔力を、しっかりと胸のなかで握りしめる。
「その時は」
フランシスは静かに、しかし揺るぎない声で誓った。
「僕たちが、何度でも止めてみせる……この血にかけて―――」
* * *
――そして、現在。
「……っ!」
遥香ははっと息を呑んで目を見開いた。
頬には、止めどなく一筋の涙が伝っている。
「……ヤガミ」
隣では、レインもまた苦しそうに自分の胸元を押さえて荒い息をついていた。
「……これが」
レインが掠れた声で呟く。
「四百年前の、最後の封印……」
フランシスは何も語らず、ただ静かにうつむいていた。
遥香はその背中を見て、初めて理解した。
フランシスが、この四百年の長きにわたって、どれほどの重荷と後悔を背負い続けてきたのかを。
「……フランシス」
『……』
「ヤガミは」
遥香の声が震える。
「最後まで……アルフェンを憎んでなどいなかったんだな」
そこにあったのは、ただ一つの、どこまでも温かで深い愛情だった。
フランシスはしばらく答えなかったが、やがて顔を上げ、涙を湛えながら小さく微笑んだ。
『……ああ』
その傍らで、ヤガミは静かに目を伏せ、黙って佇んでいた。
* * *
その瞬間だった。
レインの首元が、激しく、痛々しく輝き始めた。
「……っ!」
走る黒い亀裂。
そして、その奥底から、冷たく低い声が響きわたる。
『――封印は、もはや完全ではない』
一同が凍りつく。
「……アルフェン?」
遥香が青ざめて呟く。
『四百年前、私は確かに封じられた……だが――』
黒い亀裂がレインの首筋から遥香のほうへと不気味に伸びていく。
『お前たちが強く共鳴したことで』
紅と蒼の光の束が激しく明滅する。
『その扉は、再び開かれたのだ』
「……!」
エドワードが魔導具の数値を見て絶叫する。
『封印領域が異常な数値で反応しています!』
『シュヴァルツヴァルトの……!』
エヴェンが歯噛みする。
「アルフェンの封印が解けかけているのか!?」
『ああ』
フランシスがスッと立ち上がった。
その顔から悲しみの色は消え失せ、代わりに揺るぎない強い決意が宿っていた。
『……行かなければならない』
フランシスは遥香とレインをまっすぐに見据える。
『ドイツへ』
「……!」
『アルフェンが封じられている場所、シュヴァルツヴァルトへ』
その言葉が研究室に響き渡った、まさにその時だった――。
(……行くな)
「……っ!?」
唐突に、脳髄を直接揺さぶるような冷たい声が遥香の頭の中に響いた。
遥香は思わず息を呑み、激しい眩暈に襲われたように片手で額を押さえる。
(……まだ早い)
(な……なんだ……!?)
遥香は驚愕し、咄嗟に目の前に立つヤガミへと視線を向けた。
ヤガミは数歩離れた場所で静かに佇み、伏し目がちに固く口を閉ざしている。その薄い唇は一切動いておらず、遥香に向かって言葉を発している様子など微塵もない。
(な……なぜだ? 目の前にヤガミがいるというのに……なぜ、私の中でヤガミの声が直接聞こえる……!?)
目の前のヤガミが発した声ではない。
それどころか、声が聞こえてくるのは「外」からではなく、自分自身の肉体の内側――熱く脈打つ胸元の『印』の奥底から、まるで骨を伝うように直接響いてきているのだ。
遥香の背筋を、冷や汗がすっと伝い落ちる。
目の前のヤガミと、自分の中に潜むヤガミの声。この不可解な乖離はいったい何なのか――。
(シュヴァルツヴァルトには――)
遥香の困惑を置き去りにしたまま、脳内の声はなおも言葉を続けようとする。初めて、その声には氷のように冷徹なヤガミの面影を覆い隠すほどの、明確な「恐怖」と「焦燥」の色が滲んでいた。
「……ヤガミ……?」
遥香は必死に声を振り絞り、目の前に佇むヤガミを凝視した。
だが、声はそこでプツリと途絶えた。胸の奥の不気味な熱量も一気に冷め、静寂だけが残される。
「ヤガミ……!!」
唐突に自らの名を呼び、胸を押さえて苦しむ遥香の様子に、目の前に立っていたヤガミははっと息を呑み、驚きに目を大きく見張った。
(――まさか……聞こえているのか?)
動揺がヤガミの整った顔を過る。
だが、すぐにその瞳に切なさと深い罪悪感が宿った。
「おい、ヤガミ! どうしたんだ、答えてくれ!」
叫ぶ遥香に対し、目の前に立つヤガミはただ悲しげに目を伏せ、何も語ろうとはしなかった。
自らの血の呪縛が、こうして未来の末裔である遥香の精神を侵し、不要な恐怖と負担を背負わせている。その事実が、ヤガミの胸を痛く締め付けた。
「……何を隠している? 私の中に……一体何があるというんだ……!」
遥香は服の上から自身の胸元を強く、爪が食い込むほどに握り締めた。
誰も答えない。
ただ、隣に立つレインの首筋に走った黒い亀裂が、まるで四百年前の封印術式を嘲笑うかのように、不気味なきらめきを纏いながらじわじわと広がっていくのだった。
* * *
――ドイツ、シュヴァルツヴァルト。
誰をも寄せ付けない深い森の奥底、その誰も知らない地下。
そこには、巨大な石の棺が置かれていた。
四百年の年月を経た今も、砕けた十字架や無数の複雑怪奇な封印陣がその表面に刻まれ、一度たりとも開かれることのなかった絶対の檻。
だが、今、その堅固な表面に、微小な亀裂が走っていた。
「……」
暗闇のなかの静寂。
何かが、長い眠りの底から、ゆっくりと目を開いた。
血の色をした、紅い瞳。
そして、闇を這うような低い声。
「……ようやく、私を見つけたな」
黒い魔力が、石の棺の隙間から、まるで生き物のようにあふれ出していく。
四百年前、世界を自分の手で変えようとした青年は、黒い森の深奥へと封じられた。
そして今、その封印の扉を開こうとしているのは、他ならぬアルフェン自身ではない。
現代に生きる遥香とレイン――二人の魂の「共鳴」だった。
その先に何が待ち受けているのかを、まだ誰も知らない。
ただ一つ確かなことは、四百年前のあの日に終わったはずの悲劇は、決して過去のものなどではなく、いま、この瞬間も続いていたということだった。
次章、第八章 四百年の約束




