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言祝ぎの神は願い方を知らない ~世界を変える神と、願いが尽きないエリート巫女~  作者: 深井利用


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第19話 無花果

豊穣神が丘に来るという報せは、三日前に届いた。


公務である。北西の村の土の治療——不作二年の根を診るための巡回で、その途中、言祝(ことほ)ぎの神殿に立ち寄るという。神が神を訪ねる作法は祭祀書に三頁あるが、実際に起きたのは六十年ぶりだと、トバイアスは祭祀書を抱えたまま三回読み直した顔で言った。


受け入れ準備で一つ問題が出た。神対神の会見を監察する様式が存在しないのである。ヴォスは局に照会を出し、回答は「準用」だった。何を準用するのかは書かれていなかった。様式の世界にも、たまに白地図がある。ヴォスは結局、通常の帳面を持って壁際に立つことにしたらしい。様式がなくても立つ。それがあの人の様式だった。


当日、豊穣神は徒歩で石段を上ってきた。小柄な老婦人の姿のまま、籠を提げて、供は担当の巫女がひとり。巫女は豊穣神より日に焼けていて、爪の際に土が残っていた。神学者の手ではなかった。畑の手だった。


「北西の村の土、診てきたよ」


挨拶より先に、豊穣神は言った。リゼアの背中が、少し硬くなった。あの村である。二百俵と、五年四割の、あの村である。


「根は生きてた。二年休ませれば戻る。……戻るけどね、あの子たち、休ませる余裕を売っちまったろう」


「……はい」


「だから今年は、あたしが土の側を手伝う。収穫が三割増えれば、四割納めても、去年よりは残る」豊穣神は籠から乾燥させた無花果を出して、齧った。「全部は救えないよ。でも、根は殺させない。そっちの基準の穴は、そっちで塞ぎな。土の穴はうちの管轄だ」


リゼアは深く頭を下げた。頭の中で手帳が開いた。制度の穴を、制度の外の神が土の側から塞ぎに来る。この世界はときどき、様式の知らないところで正しく回っている。


*


「三割は多いです」と、豊穣神付きの巫女が横から言った。


「多くないよ。あの土なら伸びる」


「伸ばすと再来年に反動が来ます。二割五分まで」


「けち」


「輪作計画を見てください。けちはどちらですか」


豊穣神と担当巫女の応酬は、聖堂の前庭で、商談のような速度で進んだ。リゼアは見学した。胸の内側で何かが静かに沸騰していた。


(数字で神と交渉してる。収量を、年次で、土の体力から逆算して。願文ですらない、あれは営農計画だ)


(各神殿、本当に文化が違う──)


言祝ぎの神は、聖堂の定位置からそれを見ていた。見ているだけで、何も言わなかった。二柱の神が同じ丘にいる時間は、空気が少しだけ重い。重いのに、誰も事故を心配していない。この組み合わせは安全なのだった。


*


午後、豊穣神は聖堂に入り、祭壇の前で言祝ぎの神と向き合った。ヴォスが壁際に控え、帳面を開いた。神同士の会見も、監察対象である。


「久しいね」


「うむ」


「窮屈そうだね」豊穣神は、壁際のヴォスを隠しもせずに見た。


「規程どおりだ」


「規程ねえ」老婦人は籠を床に置いた。「畑にも柵はあるよ。柵はいいもんだ。鹿が入らない。……柵しかない畑ってのは、見たことがないけどね」


神は答えなかった。答えない相手に慣れた様子で、老婦人は続けた。


「相変わらず、口数が実りと逆だ」豊穣神は堂内を見回した。盆。カップが二つ。片方は乾いて、片方は伏せてある。老婦人の目がそこで止まった。


「──茶を始めたんだって?」


聖堂が静かになった。


「誰から聞いた」


「風の噂だよ。うちの畑まで流れてきた。……『コトホギヌス』の名でね。いい名だ」


「やめてくれ」


「本人の前では使わないよ。本人の前では」豊穣神は無花果をもう一つ出し、齧り、それからしみじみと言った。


「ようやく分かるようになったか」


「……何がだ」


「あたしがこれを食う理由をさ」豊穣神は無花果の残りを掲げた。「あたしらは、食う必要がない。飲む必要も、眠る必要もない。必要なことだけしてりゃ、神は保つ。保つだけだけどね」


必要のないものを、あえて取る。老婦人はそれを、畑の言葉で言った。


「余分ってのはね、豊かさのことなんだよ。実りってのは、種の必要分の外側のことを言うんだ。あんたが五百年やってきたのは必要の仕事で、茶は余分だ。余分を覚えた神は──」


豊穣神は、そこでちらりと壁際の帳面を見た。


「──変わるよ。いい方にね」


ヴォスのペンが動いた。正確な速度で、正確な文字数だけ。


リゼアは階段の下に立ったまま、二つのものを同時に受け取っていた。一つは、祝福である。神々の世界の言葉で、あの夕方の茶は、文化で、豊かさで、実りだった。わたしが始めたのは、お茶のつもりだったのに。


もう一つは、記録である。配属後、神格に明確な変化が生じた──監察の様式に写せば、豊穣神の祝福は、一字も変えずに、そういう証言になる。


*


帰り際、石段の上で、豊穣神付きの巫女と並んだ。


「あんた、大変ね」


「そちらもでしょう」


「うちは『麦増やして』で麦しか増えないから」巫女は肩をすくめた。「そっちは『戦争なくして』で概念消そうとするんでしょ?」


「……はい」


「転職しな」


即答だった。営農計画と同じ速度だった。リゼアは笑い、その先を言いかけた。


「しないです。だって──」


だって、の先に、言葉はもう並んでいた。並んでいる言葉の形が、自分でも分かるくらい、剥き出しだった。ここで言えば、壁際の帳面に書かれる。書かれなくても、この丘では、形になった言葉から順に現実になっていく。


「──規程で、転属は局が決めるので」


「様式みたいな女だね」巫女は笑って、石段を下り始めた。三段下りて、振り返らずに言った。「うちの御方が『いい方に変わる』って言うのはね、五十年に一度あるかないかだよ。土と同じでさ、変わるには、誰かが世話してるってことなんだ」


畑の人は、残酷なことを、肥料みたいに置いていく。


*


夕方、聖堂に戻ると、神は定位置にいて、乾いた無花果がひとつ、盆の上に載っていた。


「……これは」


「置いていった。『食ってみな』と」


「食べるの?」


神は無花果を取り、検分し、食べた。検討は、茶の初回より短かった。


「……甘い。茶より複雑だ」


「感想が成長してる」


「余分の勉強だ」と、神は言った。それから自分の言った語をもう一度、確かめるように置き直した。「──余分の、勉強だ」


その繰り返しのあいだ、壁際でヴォスの帳面が閉じる小さな音がした。今日の分の記録が終わった音だった。どの頁にどちらの色の付箋が挟まるのかは、ここからは見えなかった。


リゼアは盆のカップを一つ、伏せたまま撫でて、手を離した。余分。文化。実り。いい言葉を今日はたくさんもらった。もらった言葉の全部に、壁際の帳面の写しがついてくる。それでも、と階段の二段目に座りながら思う。それでも今日の無花果は、記録に残るぶんを差し引いても、甘かったらしい。感想が成長していたから。

お読みいただき、ありがとうございます。

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