最終話 チェックメイトの時刻
ワンボックスカーが滑り込んだのは、都心の喧騒から外れた大井埠頭のコンテナ街だった。
錆びついた倉庫の一角に車を止めると、黒崎は手際よく後部座席のシートを跳ね上げ、床板を外した。そこには、外部の電波を完全に遮断する簡易型のサテライト通信端末が格納されていた。
「ここなら警察のGPS追跡も届きません」
黒崎が手際よくシステムを起動する。「15時まで、あと12分です、明央さん」
明央は無言で端末の前に座った。
画面に映し出されているのは、ネクスト・フロンティア社のメインサーバーの監視画面。かつて自分が1行ずつコードを書き上げ、世界基準にまで育て上げた、いわば明央の「最高傑作」だ。
「明央さん……本当にやるんですか?」
莉子が不安げに尋ねる。「神谷社長がTOBで全資産を注入している今、メインシステムをダウンさせれば、会社の信用は一瞬で地に落ちます。株価は紙クズ同然になる。それはつまり、明央さんが作った会社を、自分の手で殺すということです」
「莉子、よく見ておけ」
明央の指がキーボードの上に乗り、驚異的な速度でタイピングが始まった。
「俺は会社を殺しはしない。神谷に寄生された“癌細胞”を摘出するだけだ。神谷は株を安く買い集めるために、俺の流した噂を利用して意図的にプレスリリースを遅らせた。それは市場に対する明白な背任行為だ。……そして、あいつは忘れている。このシステムの『本当のマスターキー』がどこにあるかを」
明央が叩き込んだのは、手帳の後半に書かれていたシンガポールの投資ファンドのアクセスコードだった。
画面のコードが次々と書き換わり、深紅の警告灯が点滅を始める。
『ACCESS GRANTED(アクセス許可)』
「これは……!?」莉子が目を見開く。
「このファンドの正体は、お袋が昔、親父の遺産を運用するために作ったプライベート・コンパニオンだ。そして、ネクスト・フロンティア社の初期のサーバー費用は、このファンドから融資の形で出させていた。神谷はそれを『ただの担保』だと思い込んで放置していたが……融資契約書の特約には、CEOの不正、あるいは会社の信用に関わる重大な事態が発生した場合、債権者がシステムの一時差し押さえ権(ロック権)を行使できると明記されている」
明央の指が、最後のキーの手前で止まった。
時刻は、14時59分50秒。
神谷がメインサーバーの管理権限パスワードを書き換え、会社を完全に独裁体制にするまで、あと10秒。
「195円から始まったゲームだ。神谷、お前の全財産、この六文銭の川に沈めてやる」
――エンターキーが、鋭く叩かれた。
システム画面が暗転し、巨大な文字が浮かび上がる。
『SYSTEM LOCKED BY CREDITOR(債権者によるシステムロック執行)』
同じ時刻。港区のネクスト・フロンティア社、CEO室。
「な、なんだこれは!? 何が起きた!」
神谷はデスクのモニターを叩き、絶叫した。
目の前の画面は完全にフリーズし、社内のすべてのPC、サーバー、そして顧客向けのサービスサイトが瞬時にシャットダウンしていた。
「神谷社長! 大変です!」
秘書が顔を青ざめさせて飛び込んでくる。
「全システムが停止しています! 顧客からのクレームが殺到しており、決済システムも完全にダウンしました! 市場では『神谷新体制の管理不足による大規模システム障害』と判断され、TOBの買い注文がすべてキャンセル、売りが殺到しています!」
「バカな……! パスワードは今、私が書き換えている最中だったはずだ! なぜだ、誰がこんなことを――」
その時、神谷のスマートフォンが鳴った。
表示されたのは、先ほど警察に逮捕させたはずの男の名前だった。
震える手で通話ボタンを押す。
「明央……! お前、一体何をした!」
『言っただろう、神谷。お前の次の罠は、もうお前の足元にあると』
受話器から聞こえる明央の声は、かつてないほど静かで、そして絶対的な勝者の響きを持っていた。
『お前は会社という「箱」を手に入れるために、全財産を注ぎ込んだ。だが、その箱を動かす「心臓」の所有権は、最初からお前にはなかったんだよ。お前が市場を騙して安く買い叩こうとしたツケだ。システムロックによる損害賠償、そして株価暴落による追証(追加保証金)で、お前の個人資産は1時間以内に完全に破産する』
「待て、明央! 頼む、システムを戻せ! 俺たち、一緒にやってきただろ!? 大学のサークル室を思い出してくれよ!」
神谷のプライドは完全に崩壊し、声は涙声に変わっていた。
『サークル室か。懐かしいな』
明央は冷酷に言い放った。
『だが、お前が俺を裏切ったあの夜、俺の財布には195円しか残っていなかった。神谷、お前には三途の川の渡し賃、残してやるよ。……あとの片付けは、俺とお袋でやらせてもらう』
ブツリ、と通話が切れた。
ガタガタと震える神谷の前に、今度は本物の東京地検特捜部の捜査員たちが、令状を持って踏み込んできた。市場操作および背任の容疑だった。
大井埠頭の倉庫。
明央は静かに端末の電源を落とした。
「終わりましたね、明央さん」
莉子が、どこかホッとしたような、それでいて引き締まった表情で明央を見つめる。
「いや、ここからが本当の始まりだ。ネクスト・フロンティア社の株価は暴落した。明日、お袋のファンドを通じて、神谷が手放さざるを得なくなった株をすべて買い戻す。俺はもう一度、社長としてあのビルに戻る」
明央は立ち上がり、ポケットから最後の一枚の硬貨を取り出した。
15円。21万円を使った後に残った、本物の「最後の15円」だ。
「黒崎。お袋のところへ連れて行ってくれ。この15円で、美味い缶コーヒーでも奢ってやる」
「かしこまりました、明央社長」
黒崎は深く一礼し、車のドアを開けた。
195円から始まった、地獄からの生還劇。
すべてを失った男は、地面の石コロを掴み、以前よりも遥かに強大な「怪物」となって、再び東京の頂点へと駆け上がろうとしていた。
完




