第1話 195円の生還
高層ビルの最上階から見下ろす夜景は、まるで宝石をぶちまけたようだった。
つい昨日まで、西川明央(28)はその宝石のすべてを支配している気になっていた。大学在学中に立ち上げたIT企業は上場を果たし、メディアは彼を「若き天才実業家」ともてはやした。
だが、現在の明央が立っているのは、きらびやかなオフィスの床ではない。激しい雨に濡れた、薄暗いガード下のコンクリートだった。
「全部、あいつが仕組んだことだったのか……」
吐き出した言葉が、冷たい雨の音にかき消される。
神谷光一。大学時代からの親友であり、共に会社を大きくしてきた共同創業者。その神谷の手によって、明央はCEOの座を追われ、不正会計の泥をすべて被せられ、個人資産まで凍結された。
昨日まで頭を下げていた役員たちも、手のひらを返したように神谷に付き、明央を文字通り「一文無し」にして放り出したのだ。
明央は濡れた手で、ズボンのポケットからすり切れた革の財布を取り出した。
重厚だったはずの財布は驚くほど軽く、中身を開くと、そこには紙幣の姿は一枚もなかった。
あったのは、鈍い光を放つ硬貨が数枚だけ。
100円玉が1枚、50円玉が1枚、10円玉が4枚、5円玉が1枚。
「……195円」
自嘲気味な笑いが漏れる。
ふと、昔読んだ本の知識が脳裏をよぎった。仏教における三途の川の渡し賃――「六文銭」。現代の価値に換算すると、諸説あるがちょうど195円程度だと言われている。
「おいおい、神谷。お前は俺に、死ねって言いたいわけか」
明央は天を仰いだ。プライドを引き裂かれ、すべてを奪われた絶望が体を満たす。いっそ、このまま雨に溶けて消えてしまえば楽になれるかもしれない。
「死ぬにはちと、おこがましい金額だな」
突然、背後から声をかけられた。
驚いて振り向くと、いつからそこにいたのか、薄汚れたトレンチコートを着た老人が立っていた。ビニール傘を差し、穏やかな、しかしすべてを見透かすような眼差しで明央を見つめている。
「……誰だ」
「ただの通りすがりさ。あんた、いい目をしている。すべてを失って、死の縁に立っている人間の目だ。だが、その財布の中身……195円あれば、まだ何か始められるとは思わんかね?」
老人は明央の手元を一度も見ていないはずだった。それなのに、正確な金額を言い当てたのだ。明央の身体に緊張が走る。
「195円で何ができる。自販機のジュース一本買えば終わりだ」
「道具にするか、ただのゴミにするかはあんた次第だ。一度死んだ男なら、失うものは何もないはずだが?」
老人は意味深な笑みを浮かべると、懐から一冊の古びた手帳を取り出し、明央の胸元に押し付けた。
「西川明央。あんたの逆襲劇、特等席で見せてもらうよ」
老人はそれだけ言うと、雨の帳の向こうへと歩き去っていった。呼び止めようとしたが、その姿は驚くほどの速さで雑踏に消えていく。
呆然と立ち尽くす明央の手には、老人が残していった手帳。
それを開こうとした瞬間、激しい水しぶきをあげて、一台の高級黒塗りのセダンがガード下に滑り込んできた。
後部座席のドアが開き、一人の女性が傘もささずに飛び出してくる。
「明央社長……!」
息を切らせて駆け寄ってきたのは、水野莉子(27)だった。明央の有能な秘書であり、神谷のクーデターの際にも、唯一明央の味方をしようとして更迭された女性だ。
「莉子……なぜここが」
「ずっと探していました。神谷社長――いえ、神谷たちはもう、次の手を打っています。明央さんを完全に社会的に抹殺する気です。ここにいては危険です、乗ってください!」
莉子の目は真剣そのものだった。自信家で傲慢だった自分を、それでも信じようとしてくれる人間が、まだ一人だけ残っていた。
明央は濡れた髪をかき上げ、手の中の195円を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、かすかな痛みが彼を現実に引き戻す。
「……莉子。俺はまだ、終わってない」
その目は、絶望から鋭い野心の光へと変わっていた。
明央が莉子の差し出す車に乗り込もうとした、その時。
セダンの運転席から、一人の初老の男が降りてきた。仕立ての良いスーツを着こなし、ただ者ではないオーラを放っている男――黒崎(52)だった。
黒崎は明央の前に立つと、深く一礼し、不敵な笑みを浮かべた。
「はじめまして、西川明央さん。お待ちしておりました」
「お前は……誰だ」
「私は、あなたをもう一度“西川明央”にするために雇われた男です。……さあ、195円の軍資金から、世界をひっくり返す仕事を始めましょうか」
雨の東京。
195円を握りしめた元天才実業家の、壮絶な人生逆襲劇が、今ここから幕を開ける。




