Ethics collapse 6
その日の授業が終り、僕は調べものをするために図書室へと向かった。
皆どれかしら部活に入っているが、クラスの中で僕だけは帰宅部だ。
この時間であれば図書室も貸し切り状態だし、何より僕以外誰もいない空間というものは居心地が良かった。
いくつか本を取り出し席に着くと、部屋の扉が開く気配がして耳を澄ませる。
「駄目だよ、先生……。こんな場所じゃ、他の人に見付かっちゃうよ……」
聞き覚えのある声が聞こえ、僕はそっと書棚の隅に身を隠した。
どうやらクラスメイトの新橋あかねが誰かと話しているようだ。
その相手は――。
「見つかるわけがないだろう。こんな時間に図書室を利用する奴なんざ、この学園にいるはずがない。だから……良いだろう? 新橋?」
「う、うん……」
あかねの声は少しだけ震えていた。
彼女の前に立ちいやらしい笑みを浮かべていたのは体育教師の仁田だ。
人気のない放課後の図書室で彼らがしようとしていること――。
考えただけでも反吐が出るが、問題は別のところにあった。
今、僕がいる図書室の奥の席から彼らに気付かれずに外に出るのはかなり難しい。
だがこのまま彼らの行為が終わるまで息を潜めているのも息が詰まる。
どうにかして、上手いことこの場から逃げ出せないものだろうか。
「…………やっぱり、駄目! こんなことしてるのお父さんやお母さんに知られたら、家から追い出されちゃうし……」
「駄目? 何を言っているんだ新橋。お前が万引きをして学校に連絡が来たとき、校長にもお前の両親にもそのことを告げずに黙ってやったのは誰だと思ってるんだ? 知られたらまずいのはそっちの方だろう?」
「うぅ……。でも、やっぱりこういうのは良くないよ……。せ、先生だってこんなこと、他の生徒や校長に知られたら――――っ!」
そこまで言ったあかねの言葉が急に止まる。
業を煮やした仁田が彼女の口を手で塞ぎ、強行に走ったからだ。
手足をばたつかせ、恐怖に目を大きく見開くあかね。
涙を浮かべ懇願するも、仁田はそれを笑い飛ばし彼女の制服の中に手を伸ばした。
――今ならば、彼らに気付かれずにこの場を抜け出せるかも知れない。
あかねには悪いが、ここで仁田に見付かってしまうほうが僕にとっては不都合だ。
自業自得――。万引きをし、それをネタに強請られるのは彼女の過失だ。
僕は本を机に置いたまま鞄を持ち、彼らの背後をそっと抜け、入ってきた場所とは反対側の扉に到着した。
そして手を掛け、扉を開けようとした瞬間に異変に気付く。
何故か反対側の扉には鍵が掛かっていた。
そしてその拍子に鈍い金属音が鳴り、二人はギョッとした表情でこちらを振り返ったのだ。
「き、貴様っ! 部屋にいたのか!!」
「楠木……君?」
鬼のような形相でこちらを睨んだ仁田が、どすどすと足音を鳴らし僕の元に向かって来る。
そして僕の鞄を取り上げ投げ捨て、そのまま胸倉を掴んで後ろにある書棚に僕の身体を叩きつけた。
「……お前は何も見ていない。そうだな?」
「……」
額と額がくっついてしまいそうな距離まで顔を近づかせ、仁田は低く小さな声でそう言った。
だが僕は目を背けるだけで何も答えない。
視線の先には唖然としたままのあかねが腰を抜かして僕を見つめている。
……今のうちに逃げれば良いのに、馬鹿な女だ。
「何故、なにも答えない! ……いいか、もう一度聞くぞ。お前は何も見ていないし、何も知らない。いいな?」
「うっ……」
そのまま空いているほうの手で僕の首を絞めた仁田。
息は荒々しく、このまま僕を絞め殺すのではないかとすら思えてくる。
僕がこんな状況だというのに、あかねは悲鳴を上げるわけでも助けを呼びに行くわけでもない。
結局は自分が一番可愛い、ということか。
もしかしたら、彼女の秘密を知った僕を、このまま仁田が殺してくれれば良いとか考えているのかも知れない。
「返事をしろっつってんだろ! お前も無事に学校を卒業したいだろう? ああ? 内申書なんて教師の力でいくらでも書き変えられ――――うっ!?」
僕は制服のポケットに仕舞っておいた小瓶の蓋を親指と人差し指で開き、それを仁田の顔に向かって思いっきり振りかけてやった。
一瞬の出来事で、何が起きたか理解できない様子の仁田は目を押さえ、その場に蹲ってしまう。
「め、目が……!! くそ、楠木ぃぃぃ! 何をしやがった……!!」
目を押さえたまま拳を振り回す仁田。
僕は床に落ちた小瓶の蓋を拾いきちんと蓋をし、先ほど投げ飛ばされた鞄を拾いに向かう。
所持品を残すと後々厄介だ。
あの謎の粉の成分も分からないし、もしも本物の麻薬だったとしたら蓋に付いた指紋で僕の所持品だとばれてしまう恐れもある。
鞄を拾い上げた僕は、まだ呆けているあかねと視線が合い彼女に問いかけてみた。
「逃げないのか?」
「あ…………いや、だって…………あれ…………」
「『あれ』?」
あかねが口を開いたまま指を差しているのは、まさしく今、目を潰されてもがいている仁田だ。
この期に及んでまだあの男のことを気にしているのだろうか。
さっさとここから逃げて、今起きたことを職員室にいる担任の日向に報告しないと、僕は本当に奴に退学させられてしまうかも知れないのだ。
奴の口を封じる手段が無い以上、この問題に関わりたくないとは言っていられない。
『が…………あがが…………』
「?」
呻き声が聞こえ、あかねの指差すほうを振り向くと、仁田がこめかみを押さえて奇妙な形に腰を曲げた。
先ほど振り撒いた粉の影響か目は赤く血走り、だらしなく涎を垂らした仁田はそのままのそりのそりと僕らに近付いてくる。
奴の腕に視線を向けると、拳を振り回した際に書棚にぶつけ傷付いたのだろう、大きく亀裂の入った腕から血が滴り落ち、床を濡らす。
その血で足を滑らせ転んだ仁田は、受け身を取らずに頭から地面に衝突した。
ゴギィ、という鈍い音が部屋に響き、奴の首はあらぬ方向へと折れ曲がってしまった。
「ひっ……!」
口に手を当て悲鳴を上げたあかね。
それもそのはずだ。仁田は再び立ち上がり、のそりと僕らに一歩ずつ、ゆっくりと近付いて来る。
その様子を見て、僕の脳裏に一つの単語が浮かんだ。
咄嗟に制服のポケットに手を伸ばし、それの感触を確かめる。
『ギギギ…………ギギギギリィィ…………』
顎が横にずれ、歯が欠けたまま口を無理に開く音が仁田の口から広がる。
逃げようにも足が竦んで動けない。それはあかねも同じ事だった。
仁田は両腕を伸ばし、僕とあかねの制服を同時に掴む。
その瞬間に彼女は大きな悲鳴を上げた。
「きゃあああああぁぁぁぁぁ!!」