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第3話 紗幕の向こうの境界線

第3話:紗幕の向こうの境界線


その日の午後、離宮にはしっとりとした雨が降っていた。窓の外の白薔薇は雨粒を重そうに湛え、硝子の噴水は雨の波紋によっていつもより鈍い光を放っている。ジュリアンは、織り模様の美しいグリーンのフロックコートを着こなし、いつになく冷徹な愉悦を胸に秘めて離宮の回廊を歩いていた。今日の彼は、ある残酷な実験を思いついていた。自分が施した調教が、どれほど深くレイの精神を蝕んでいるのかを、この目で確かめてみたくなったのだ。


ジュリアンはいつも通りレイの部屋を訪れ、他愛のない会話を交わした後に、わざとらしく立ち上がった。そして部屋を出る際、重厚な真鍮の鍵を、鍵穴に差し込んだまま回さずに立ち去った。扉は完全に閉まりきっておらず、数センチメートルほどの隙間があいたままだ。それは外界へと続く、あまりにも無防備な自由の誘惑だった。ジュリアンはすぐには立ち去らず、廊下の曲がり角にある厚手の紗幕の影に身を潜めた。そこからは、透けた布越しに、部屋の扉と中の様子が手に取るように観察できる。ジュリアンは、息を潜めて小鳥の動向を待った。


部屋の中では、レイがベッドの端に腰掛けていた。今日の彼は、首元に細いレースがあしらわれた、ミントグリーンの上質なウールチュニックを着ている。足元からは、相変わらず金と銀の鎖が伸びていたが、それは部屋の入り口まで届く長さだった。しばらくして、ジュリアンが立ち去った気配を感じ取ったのか、レイは静かに顔を上げた。そして、わずかに隙間のあいた扉の存在に気づいた瞬間、彼の身体が目に見えて強張った。


「あ……、ああっ……」


レイの唇から、小さな、乾いた悲鳴のような吐息が漏れた。彼は立ち上がり、引きずられる銀の鎖をジャラジャラと冷たく鳴らしながら、一歩、また一歩と扉へ近づいていく。紗幕の向こうでそれを見つめるジュリアンの心臓は、期待と興奮で激しく高鳴った。もしここでレイが外へ逃げ出そうとするなら、その希望を完璧に叩き潰し、二度と立ち上がれないほどの絶望を与えてやるつもりだった。


しかし、レイの行動はジュリアンの予想を裏切るものだった。


レイは開いた扉の隙間から差し込む、外の廊下の光を見つめたまま、激しく震えだした。その顔は見る見るうちに血の気を失い、白磁の肌がまるで幽霊のように青白くなっていく。彼はまるで、その数センチメートルの隙間の向こうに、恐ろしい怪物が潜んでいるかのように怯えていた。


「嫌だ……、怖い……! 外は、外の世界は、こんなに広くて、誰も私を守ってくれない……!」


レイは両手で頭を抱え、床に膝をつきそうになりながら激しく呼吸を乱した。彼の瞳には、自由への渇望など微塵もなく、あるのはただ、底知れぬ恐怖と混乱だけだった。レイは這うようにして扉にしがみつくと、震える手でそれを強く引っ張り、完全に閉めてしまった。それだけでは足りないと言わんばかりに、ガチャリと内側から鍵を回し、自ら進んで退路を断ったのだ。


部屋の中から、レイの苦しげな、しかしどこか安堵したような泣き声が聞こえてくる。紗幕の影から姿を現したジュリアンは、その光景を見て、胸の奥から突き上げてくる圧倒的な全能感に酔いしれた。


「素晴らしい……。私の勝ちだ、レイ」


ジュリアンは唇の端を吊り上げ、歓喜に震えながら呟いた。レイはもう、肉体だけでなく精神までも完全に自分の檻に囚われたのだ。外の世界を自ら拒絶し、この狭く美しい空間だけを居場所だと信じ込んでいる。その事実が、ジュリアンの歪んだ支配欲を極限まで肥大化させた。


ジュリアンは足早に部屋の前に戻り、あらかじめ持っていた予備の鍵を使って扉を開けた。中に入ると、床に崩れ落ち、涙を流して震えているレイの姿があった。ジュリアンは彼を愛おしげに抱き起こし、その細い背中を優しく撫でた。


「どうしたんだい、私の可愛い小鳥。そんなに震えて。私が鍵を閉め忘れたから、怖かったのかい?」


「ジュリアン様……! ああ、ジュリアン様、どこへ行っていたのですか……っ! 扉が、扉が開いていたのです。外の冷たい風が、私を連れ去ろうと……。お願いです、もう二度と私を一人にしないで、置いていかないでください……!」


レイはジュリアンのグリーンのコートの胸元に顔を埋め、縋り付くようにして泣き叫んだ。その涙はジュリアンの服に冷たく染み込んでいくが、ジュリアンにとってはどんな温もりよりも心地よかった。


「可哀想に。よしよし、もう大丈夫だよ。私がここにいる。君を外の汚い世界へなんか、絶対に行かせはしない。君の居場所は、私の腕の中だけだ」


「はい……、はい……。私はここにいます。ここから一歩も出ません。ジュリアンのいない世界なんて、私にはただの地獄ですから……」


レイのその言葉に、ジュリアンは満足しきって、昼食の準備を命じた。


今日のごちそうは、じっくりと焼き上げられた仔羊のロースト、ローズマリーの香ばしいオイル仕立てだ。付け合わせには、バターで艶やかに炒められたマッシュルームと、甘く煮詰められたアプリコットが添えられている。温かいガラスの器に盛られたのは、新鮮なトマトとモッツァレラチーズの冷製スープで、バジルの緑が美しく映えていた。


「さあ、落ち着いたらお食べ。怖かったことは全部忘れて、私の愛だけを感じるんだ」


ジュリアンはスプーンでスープを掬い、レイの潤んだ唇へと運んだ。レイはまだ小さくしゃくり上げながらも、従順にそのスープを口に含む。トマトの爽やかな酸味が広がると、レイの表情にほんの少しだけ生気が戻ったように見えた。


「美味しいかい、レイ」


「……はい。ジュリアン様がくださるものは、何でも、とても美味しいです。外の食べ物なんて、きっと苦くて食べられません」


レイはジュリアンの手から、仔羊の肉も、アプリコットも、言われるがままに口へ運んでいく。その姿は、完全に飼い慣らされたペットそのものだった。ジュリアンは自らも赤ワインをグラスに注ぎ、甘美な勝利の味を噛み締めていた。これ以上ないほど完璧な支配。この美しい離宮で、自分は永遠にこの小鳥の神であり続けるのだと、ジュリアンは確信していた。


「君を愛しているよ、レイ。これからもずっと、この檻の中で仲良く暮らそう」


「ええ、私も愛しています、ジュリアン様。ずっと、ずっと、貴方のそばに縛られていますね」


レイはそう言って、涙の乾きかけた漆黒の瞳でジュリアンを見つめ、ひっそりと微笑んだ。


だが、ジュリアンは気づいていなかった。レイが扉を閉めたとき、その指先が全く震えていなかったことに。そして、ジュリアンに縋り付きながら彼が見つめていたのは、ジュリアンそのものではなく、ジュリアンの背後にある「伯爵家」という強大な権力の影であったことに。小鳥は怯えてなどいなかった。ただ、男が一番喜ぶ「極上の獲物」の芝居を、完璧に演じきっただけだったのだ。美しい檻の境界線は、ジュリアンが思うよりもずっと深く、歪んだ形で反転し始めていた。



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