第九話 兆し
拠点の夜は静かだった。
灯りは落ちきっていない。あちこちに置かれたランプが弱く揺れ、石壁に影を作っている。人の気配もある。だが、それらすべてがどこか抑えられている。
声は低く、足音は短い。無駄な音が削られているような空気だった。
カイルは壁際に背を預け、腰を下ろしていた。
与えられた寝床は簡素だ。硬い床に薄い布。それでも外よりはましだった。
任務後に告げられた言葉を思い出す。
――明日も調査がある。参加者はここを使え。
短い通達だった。理由の説明はない。ただ、それだけで十分だった。
拒否する理由もない。報酬が出る。それに、ここにいれば外よりは安全だ。
だが、“調査”という言葉だけがわずかに引っかかっていた。
巡回や討伐とは違う響き。内容は聞かされていない。
それでも、今さら深く考える気はなかった。
カイルは目を閉じる。
体の力を抜く。戦闘のあとの重さが、ゆっくりと沈んでいく。
そのはずだった。
――ざわり。
意識の奥で、何かが触れた。
カイルの目が開く。
視界は変わらない。天井、揺れる灯り、動く影。
だが、胸の奥がわずかにざわついている。
腹の奥。刻まれた紋様のある場所が、じん、と熱を帯びた。
焼けたような感覚が、ゆっくりと広がる。
「……」
息を吐く。
落ち着かせるように。
だが、熱は引かない。
むしろ、わずかに強くなる。
そのときだった。
足が、動いた。
ほんのわずかに、勝手に。
床を踏み直すように位置を変える。
カイルの眉が寄る。
「……は?」
止める。
意識して押さえ込む。
だが次の瞬間、指先が震えた。力を入れた覚えはない。
一瞬。それでもはっきりと分かる。
自分の体じゃないみたいな感覚。
「……なんだよ」
低く呟く。
返事はない。
ただ、体の奥に“引かれている”感覚だけが残る。
見えない何かに、ゆっくりと導かれているような感覚。
カイルは目を細める。
無視するか、切り捨てるか。
――足が、また動いた。
今度は止めない。
カイルはゆっくりと立ち上がる。
周囲を見る。誰も気にしていない。壁にもたれる者、武器をいじる者、ただ座っている者。それぞれが自分の時間を過ごしている。
誰もカイルを見ていない。
カイルは歩き出した。
理由は分からない。だが、足は迷わない。
通路を抜ける。灯りの多い場所から少ない場所へ。人の多い場所から、気配の薄い方へ。
進むごとに音が減っていく。足音だけが、やけに響く。
やがて、空気が変わる。
冷たい。
わずかに温度が違う。
カイルの足が止まる。
視線を上げる。
そこだった。
昼間、引っかかった場所。
建物の隙間。壁際の影。
今はさらに暗い。灯りが届かない。
人の気配はない。
ただ、そこだけがぽっかりと空いている。
「……」
一歩、踏み出す。
その瞬間、腹の紋様が強く熱を帯びた。
刺すような感覚が内側から広がる。
同時に、黒い剣がかすかに震える。
空気が揺れる。
目には見えない。だが、そこに“何か”があると分かる。
灰が動いた。
床に薄く積もった灰が、ゆっくりと流れ始める。
風はない。それでも動く。
一点に向かって。
影の奥へと、吸い込まれるように。
カイルは目を細める。
見えない。
だが、確かに存在している。
さらに一歩、近づこうとした――
「――そこから離れろ」
鋭い声が飛んだ。
動きが止まる。
振り返る。
騎士が一人、立っていた。
昼間、報告を受けていた男だ。視線は一切揺れない。
「立入禁止だ」
短く言う。
命令だった。
カイルは動かない。
「何がある」
問いかける。
騎士は答えない。
一歩、近づく。
「聞く必要はない」
低く言う。
「ここはお前の踏み込む場所じゃない」
はっきりと線を引く言い方。
カイルは数秒だけその男を見た。
それから、ゆっくりと視線を戻す。
影の奥。
さっきまで動いていた灰は、もう止まっている。
何もなかったかのように静かだ。
「……ちっ」
小さく舌打ちする。
一歩、下がる。
騎士はそれを確認すると、それ以上は何も言わなかった。ただ、その場に立ち続ける。
見張るように。
カイルは背を向ける。
歩き出す。
来た道を戻る。
だが、体の奥の感覚は消えない。
熱が残る。引かれるような違和感が、まだ続いている。
完全には切れていない。
元の場所に戻り、腰を下ろす。
目を閉じる。
だが、もうさっきのようには休めない。
腹の奥で、紋様がかすかに脈打っている。
一定の間隔で。
まるで――何かに応えるように。
明日の“調査”という言葉が、遅れて重みを持ち始めていた。




