第13話
ギルベルト殿下への「請求書」という名の引導を渡し、私は踵を返した。
背後で、彼が床を叩いて悔しがる音が聞こえるが、振り返る必要はない。
私の隣には、今、世界で最も頼りになるパートナーがいるのだから。
「……仕上げだ、アディ」
ディートリヒさんが私の腰を抱き寄せた。
その体温が、ドレス越しに伝わってくる。
「彼らに、二度と君に手出しできないよう、格の違いを見せつけてやろう」
「格の違い、ですか?」
「ああ。言葉ではなく、視覚でな」
彼はホールの中央へと私をエスコートした。
楽団が、空気を読んで優雅なワルツの旋律を奏で始める。
周りの貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように道を空けた。
誰も、この「最強のカップル」の邪魔をしようとはしない。
「踊れるか?」
「……馬鹿にしないでください。これでも元・王太子妃候補です。ダンスのステップくらい、死ぬほど練習させられましたから」
私は強がって見せたが、内心は心臓が口から飛び出そうだった。
練習はした。確かにした。
けれど、ギルベルト殿下はいつも「足を踏まれるのが嫌だ」とか「君と踊っても絵にならない」と言って、私を壁の花にし続けていたのだ。
だから、まともに男性と踊るのは、これが初めてに近い。
「力を抜け。俺に身を委ねればいい」
ディートリヒさんが、私の震える手を優しく包み込んだ。
彼のリードは完璧だった。
強引なのに、決して痛くない。私が次に出すべき足を、魔法のように誘導してくれる。
タン、タタ……。
私たちは滑るように踊り出した。
ミッドナイトブルーのドレスがふわりと広がり、裾に散りばめられたダイヤモンドが星屑のように煌めく。
漆黒の礼装を纏ったディートリヒさんと、夜空色のドレスの私。
鏡写しのような二人の姿は、会場の誰よりも調和していた。
「美しい……」
「まるで絵画のようだわ」
「あんなに幸せそうなアデーレ様、見たことないぞ……」
周囲から漏れ聞こえる感嘆の声。
それが、私に自信を与えてくれた。
(ああ、私……今、笑えているかしら)
ギルベルト殿下の隣では、いつも能面のように感情を殺していた。
でも今は、自然と口角が上がってしまう。
「その顔だ」
ターンをした瞬間、ディートリヒさんが耳元で囁いた。
「俺は、その笑顔が見たかった。……これからは、俺のためだけに笑ってくれ」
「……独占欲が強すぎます、陛下」
「悪いか? 俺は欲しいものは手段を選ばず手に入れる主義でな」
彼は私の腰をぐっと引き寄せ、顔を近づけた。
赤い瞳が、熱っぽく私を捕らえて離さない。
「アデーレ。帝都に戻ったら、正式に結婚を申し込む」
「えっ……!?」
「補佐官契約の更新だ。期間は『死が二人を分かつまで』。給与は『帝国の全て』だ。……拒否権はないぞ?」
あまりに強引で、あまりに甘美なプロポーズ。
ステップが乱れそうになる私を、彼は力強く支えてくれた。
視界の端に、呆然と立ち尽くすギルベルト殿下の姿が見えた。
彼は、かつて自分が捨てた「地味な女」が、世界最強の皇帝に愛され、誰よりも輝いている姿を、指を咥えて見ているしかないのだ。
最高の、ざまぁみろ。
そして最高の、ハッピーエンド。
……そう、思っていたのに。
「ふざけないでよぉぉッ!!」
金切り声が、夢のような時間を切り裂いた。
人混みをかき分けて飛び出してきたのは、ミナ様だった。
彼女は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、その手には赤ワインが波々と注がれたグラスが握られている。
「なんでよ! なんでおばさんが主役なのよ! 主役は私よ! この泥棒猫!」
彼女は金切り声を上げながら、私に向かって突進してきた。
狙いは明確だ。
その赤ワインを、私の純白の肌と、高価なドレスにぶちまけるつもりだ。
「アディ!」
ディートリヒさんが私を庇おうとする。
けれど、間に合わない。
ミナ様との距離はわずか数メートル。彼女の手から、赤い液体が放たれようとしていた。
(……やらせない)
私の脳内で、冷徹な計算式が弾け飛んだ。
このドレスは、マダム・ルージュが徹夜で仕上げてくれた最高傑作だ。
この時間は、ディートリヒさんがくれた大切な思い出だ。
それを、こんな浅はかな嫉妬で汚されてたまるか。
私はディートリヒさんの腕の中から、右手をかざした。
――『座標固定』。
普段は、積み上げた書類が崩れないように空間に固定するための生活魔法。
それを、ミナ様のドレスの裾、一点に集中させる。
バッ!
ミナ様がワインを掛けようと腕を振り上げた、その瞬間。
「えっ……?」
彼女の足が、見えない何かに引っかかったように止まった。
慣性の法則。
上半身だけが前につんのめる。
「きゃあぁぁぁッ!?」
彼女は盛大にバランスを崩し、自分が投げようとしたワイングラスと共に、顔面から床にダイブした。
バシャッ! ガシャーン!
赤い液体が、彼女自身のピンク色のドレスと、念入りにセットした髪に降り注ぐ。
さらに悪いことに、彼女が倒れ込んだ先には、料理が並べられたビュッフェ台があった。
ガシャガシャガシャーン!
皿が舞い、ケーキが飛び、スープが跳ねる。
ミナ様は全身クリームとワインまみれになりながら、床に転がった。
「……あ、あ、あ……」
会場が静まり返る。
誰もが、あまりの惨状に言葉を失っていた。
「自滅、ですね」
私は扇を広げ、冷ややかに見下ろした。
魔法を使ったことは、誰にもバレていないはずだ。ただ彼女が勝手に転んだようにしか見えない。
「……ぷっ、くくっ」
ディートリヒさんが肩を震わせた。
「見事だ、アディ。……いや、今は『運が悪かった』と言っておこうか」
「ええ。床が滑りやすかったのでしょう。……掃除が行き届いていない証拠です」
私はギルベルト殿下の方を見た。
彼は、無惨な姿になった愛人を助け起こそうともせず、ただ青ざめて震えているだけだった。
「う、うわぁぁぁん! ドレスがぁ! 私のドレスがぁ!」
ミナ様が子供のように泣き叫ぶ。
しかし、誰も彼女に同情の目を向ける者はいなかった。
かつて「天真爛漫」と持て囃された彼女の無作法は、今やただの「下品な癇癪」として、貴族たちの冷ややかな嘲笑の的になっていた。
「行こうか、アディ」
ディートリヒさんが、何事もなかったかのように私を促した。
「これ以上ここにいると、馬鹿が伝染りそうだ。……帰って、二人だけで踊り直そう」
「はい、陛下」
私たちは汚れた床を避けるようにして、大広間を後にした。
背後で、ミナ様の泣き声と、ギルベルト殿下の怒号、そして貴族たちの失笑が混ざり合う、地獄のような協奏曲が響いていた。
◇ ◇ ◇
バルコニーに出ると、夜風が心地よかった。
月が綺麗だ。
マダムが「月下の銀百合」と名付けてくれたドレスが、月光を浴びて淡く輝く。
「……終わったな」
「はい。終わりました」
私は大きく息を吐いた。
十年間のわだかまりが、完全に消え去った気がする。
もう、彼らのことを思い出して胸を痛めることもないだろう。彼らはもう、私の人生における「過去の汚点」ですらない。「他人」になったのだ。
「これからは、俺の時間だ」
ディートリヒさんが、後ろから私を抱きしめた。
彼の腕の中にすっぽりと収まる安心感。
「アデーレ。愛している。……誰よりも有能で、誰よりも美しい、俺の宰相殿」
「……私もです。ディートリヒさん」
私は素直に、彼の胸に身を預けた。
陛下、ではなく、初めて名前で呼ぶ。
「貴方の国を、世界一豊かな国にしてみせます。……ですから、覚悟していてくださいね?」
「ほう? どういう意味だ?」
「残業はさせませんし、無駄遣いも許しません。私の管理は、このドレスのコルセットより厳しいですよ?」
私が悪戯っぽく言うと、彼は楽しそうに笑い、私の唇を塞いだ。
それは、契約の印であり、愛の誓いであり、そして――これからの激務な日々の始まりのキスだった。
――悪役令嬢の辞表。
提出先は無能な元婚約者。
再就職先は、溺愛皇帝の隣。
私の新しいキャリアは、まだ始まったばかりだ。




