第12話
祖国であるサン・ローラン王国の王城。
その大広間は、今夜開催される「王太子妃選定舞踏会」のために、煌びやかに飾り付けられていた。
シャンデリアの光、楽団の演奏、着飾った貴族たちのさざめき。
かつては「華やかだ」と感じていたその光景も、帝国の圧倒的な威容を知ってしまった今の私には、どこか色褪せて見えた。
「……随分と空気が澱んでいるな」
私の隣で、ディートリヒさんが低い声で囁いた。
私たちは今、大広間の入り口にある大扉の前で、入場の合図を待っているところだ。
「貴族たちの笑顔が引きつっている。料理の質も落ちているし、何より衛兵の装備が手入れされていない。……末期症状だな」
「陛下、声が大きいです。外交問題になりますよ」
私は扇で口元を隠して諌めた。
でも、彼の言う通りだった。
城内ですれ違った元同僚(文官や騎士たち)は皆、幽霊のようにやつれており、廊下の隅には埃が溜まっていた。掃除の予算すら削られているのかもしれない。
(私が抜けてから一ヶ月。予想以上に崩壊が早かったわね)
少しだけ胸が痛むが、同情はしない。
これは彼らが招いた結果なのだから。
「――グランツ帝国皇帝、ディートリヒ・フォン・グランツ陛下! ならびに、そのパートナーのご入場です!」
儀典官の甲高い声が響き渡った。
重厚な扉が、ギィィと音を立てて開かれる。
一瞬で、会場の喧騒が消えた。
数百人の視線が、一点に集中する。
「行くぞ、アディ」
「はい、陛下」
ディートリヒさんが差し出した腕に、私はそっと手を添えた。
カツ、カツ、カツ。
静まり返ったホールに、私たちの足音だけが響く。
漆黒の礼装に真紅のマントを纏ったディートリヒさんは、まさに「覇王」の風格だった。
ただ歩くだけで空気を支配し、見る者を畏怖させる圧倒的なオーラ。
そして、その隣を歩く私への視線も、熱を帯びていた。
「……誰だ、あの美女は?」
「皇帝陛下の新しい愛人か? いや、あの宝石の量は皇后クラスだぞ」
「見たことがない顔だ。どこかの国の王女か?」
ひそひそ話が聞こえてくる。
誰も、私があの「地味なアデーレ」だとは気づいていない。
無理もない。
コンタクトレンズに変えた瞳は銀色に輝き、トップデザイナーによるドレスと化粧で武装した私は、自分でも見知らぬ「傾国の美女」になりきっているのだから。
私たちはホールの最奥、王族たちが座る玉座の間へと進んだ。
そこには、やつれた顔を厚化粧で隠した国王夫妻と、そして――。
以前よりも一回り痩せ細り、目の下に濃いクマを作った元婚約者、ギルベルト殿下が立っていた。
彼の隣には、新しいドレスを着たミナ様がいるが、彼女の表情もどこか不満げだ。
「……ようこそお越しくださいました、ディートリヒ皇帝陛下」
ギルベルト殿下が、引きつった笑顔で歩み寄ってきた。
その目は、ディートリヒさんへの恐怖と、劣等感に揺れている。
「遠路はるばる感謝いたします。我が国の舞踏会を楽しんでいただければ幸いです」
「ああ。招待に感謝する、ギルベルト殿下。……随分とお疲れのようだが、国務が忙しいのかな?」
ディートリヒさんが痛いところを突く。
ギルベルト殿下の眉がピクリと跳ねた。
「はは……まあ、少々。優秀な部下が育つまでは、私が自ら陣頭指揮を執らねばなりませんので」
よく言う。
部下を育てるどころか、優秀な人材を次々と潰しているくせに。
その時、ギルベルト殿下の視線が、ふと私に向けられた。
瞬間、彼が息を呑むのが分かった。
「……そちらの麗しい女性は?」
彼の瞳から、疲れの色が消え、代わりに粘つくような欲望の色が浮かんだ。
ああ、知っている。
彼は昔から、綺麗なものに目がないのだ。
「初めまして。皇帝陛下のパートナーの方とお見受けするが……どこの国の姫君かな? これほど美しい方を、私が知らないはずがないのだが」
彼は私の手を取ろうと、無遠慮に手を伸ばしてきた。
隣にいるミナ様が「むぅっ」と頬を膨らませているが、彼は完全に無視している。
(……呆れた)
自分の婚約披露パーティーで、他国の(しかも皇帝の連れの)女性を口説くなんて。
この男は、どこまで愚かなのだろう。
私は扇を閉じた。
そして、彼の伸ばしてきた手を避けるように一歩下がり、優雅にカーテシーをした。
「お久しぶりでございます、ギルベルト殿下」
鈴を転がすような、よそ行きの声で言う。
「私の顔をお忘れですか? あれほど毎日、貴方様の執務室で顔を合わせておりましたのに」
「……え?」
ギルベルト殿下の動きが止まった。
彼はポカンと口を開け、まじまじと私の顔を見つめる。
「執務室……? まさか……いや、そんなはずは……」
「眼鏡を外しただけですわ。それとも、書類の山に埋もれすぎて、視力が落ちてしまわれましたか?」
私はふわりと微笑んだ。
その瞬間、彼の脳内で何かが繋がったようだ。
「あ……アデーレ!? アデーレなのか!?」
彼の絶叫が、ホールに響き渡った。
周囲の貴族たちがざわめく。
「嘘だ! あのアデーレだと!? 地味で、可愛げがなくて、鉄仮面のようなあの女が……こんな、こんな美女なわけがない!」
「失礼ですね。最高のデザイナーと、最高の環境があれば、女性は変わるものです」
私は冷ややかに言い放った。
「それに比べて殿下は……随分とお変わりになられましたね。以前のような輝き(オーラ)が全く感じられませんが」
「なっ……!」
顔を真っ赤にするギルベルト殿下。
そこへ、ミナ様が割り込んできた。
「嘘よ! これがあのアデーレおばさんなわけないわ! 整形したんでしょ! 魔法で顔を変えたのよ!」
「おやおや」
それまで黙っていたディートリヒさんが、一歩前に出た。
私を背に隠すようにして、二人を見下ろす。
「私の大切なパートナーを『おばさん』呼ばわりとは。……この国の教育はどうなっているのかな?」
ゴゴゴゴ……と、物理的な圧力が場を支配する。
赤い瞳が、凍てつくような殺気を放っていた。
「ひぃっ……!」
ミナ様が腰を抜かしてへたり込む。
ギルベルト殿下もガタガタと震えながら、それでも必死に言葉を絞り出した。
「へ、陛下……その女は、私の元婚約者で……罪を犯して国を出奔した裏切り者です! 騙されてはいけません!」
「罪だと?」
「そうです! 職務放棄と、国家機密の持ち出し! そうだ、今すぐ捕らえろ! 衛兵!」
ギルベルト殿下が叫ぶ。
しかし、衛兵たちは動かない。動けないのだ。皇帝の殺気に当てられて。
「ほう。職務放棄と言ったか」
ディートリヒさんは鼻で笑った。
「私が聞いた話とは違うな。彼女は正式な辞表を提出し、貴殿がそれを受理したと聞いている。……違うか?」
「そ、それは……」
「それに国家機密の持ち出し? 馬鹿な。彼女の頭脳そのものが国家機密級なのだ。彼女が歩けば、知識も共に移動する。それを止めたければ、なぜ彼女を丁重に扱わなかった?」
ディートリヒさんは私の方を向き、愛おしそうに肩を抱いた。
「彼女は今、帝国の全権行政補佐官だ。我が国の内政を一手に担い、その手腕で数々の改革を成し遂げている『至宝』だ。……貴殿が捨てた石ころは、私にとってはダイヤモンドだったようだな」
ダイヤモンド。
その言葉に、ギルベルト殿下の顔が絶望に歪む。
「て、帝国の……補佐官……?」
彼も薄々気づいていたのだろう。
国が回らなくなった原因が、アデーレの不在にあることを。
そして今、その「答え」が、世界最強の皇帝の隣で、見たこともないほど美しく輝いている。
「返せ……」
ギルベルト殿下がうわごとのように呟いた。
「返せよ! アデーレは俺のものだ! 俺の婚約者だ! それを勝手に……!」
「見苦しいぞ」
ディートリヒさんが一蹴した。
「彼女は自分の意志で私を選んだ。そして私も、彼女を選んだ。……もし彼女を取り戻したければ、力ずくで来るか? 帝国軍五十万が相手になるが」
その一言で、勝負は決した。
ギルベルト殿下は膝から崩れ落ちた。
私は彼を見下ろし、静かに告げた。
「ギルベルト殿下。私、有給休暇の買い取り請求書を持って参りました。未払い残業代と合わせて、金貨五千枚になります」
私は懐から、分厚い請求書を取り出し、彼の目の前に落とした。
バサリ、と乾いた音が響く。
「期日は来月末です。……もしお支払いが遅れるようであれば、帝国法に基づき、延滞金を請求させていただきますので」
私はにっこりと微笑んだ。
かつて彼に向けた、どんな愛想笑いよりも美しく、そして冷酷な笑顔で。
「それでは、ごきげんよう。……元、婚約者様」
私はディートリヒさんにエスコートされ、踵を返した。
背後で、ギルベルト殿下の「あ、あぁ……」という情けない呻き声だけが、いつまでも聞こえていた。
胸がすくような、完璧な勝利だった。




