第11話
祖国の王太子――元婚約者であるギルベルト殿下が主催する舞踏会まで、あと三日。
帝国の皇城内にある、とある広い客室が、戦場と化していた。
「違うわ! このシルクの色は彼女の肌をくすませるわ! もっと深い、夜空のようなミッドナイトブルーを持ってきて!」
「こちらのレースは如何でしょう、マダム?」
「古い! デザインが半世紀前よ! 焼却炉行きね!」
絹を引き裂くようなヒステリックな声が響き渡る。
部屋の中央で仁王立ちしているのは、派手な紫色のドレスを着た初老の女性。帝国で最も予約が取れないと噂のトップデザイナー、マダム・ルージュだ。
彼女の周りを、数十人の針子やお針子たちが、色とりどりの布地や宝石箱を抱えて走り回っている。
「……あの、ディートリヒさん。これは一体?」
私は部屋の隅で、借りてきた猫のように縮こまりながら尋ねた。
隣に立つディートリヒさんは、満足げに腕を組んでその光景を眺めている。
「何って、君の武装準備だが?」
「武装?」
「ああ。戦場(舞踏会)に赴く騎士には、最高の鎧が必要だろう?」
彼はニヤリと笑った。
「君を捨てた祖国の連中に、地団駄を踏んで後悔させてやるための、最高に美しくて残酷な鎧がな」
彼の意図は理解できた。
理解できたが……。
「私、そういうのはちょっと……」
私は言葉を濁した。
正直、着飾ることに自信がないのだ。
祖国ではいつも「地味だ」「華がない」「隣に並ぶと気分が暗くなる」と、ギルベルト殿下から酷評され続けてきた。
だから私は、自分を守るために感情を殺し、目立たない色のドレスを選び、仕事ができる女を演じるための伊達眼鏡をかけるようになった。
今さら「美しくなれ」と言われても、どうすればいいのか分からない。
「あら? 自信がなさそうなお顔ね、お嬢さん」
いつの間にか、マダム・ルージュが目の前に立っていた。
鋭い眼光が、私を値踏みするように上から下へと舐め回す。
「ふん……姿勢は悪くないわね。長時間のデスクワークにしては背筋が伸びているわ。でも、肌が乾燥しているし、目の下のクマが酷い。髪も手入れ不足でパサパサよ」
「うっ……返す言葉もありません」
「それに、その眼鏡! あなたの綺麗な顔立ちを台無しにしているわ! 今すぐ外しなさい!」
彼女は私の顔から伊達眼鏡をひったくった。
視界が少しぼやける。
「あら……?」
マダムの声色が、不意に変わった。
彼女は私の顔を両手で挟み込み、至近距離でまじまじと見つめてきた。
「……驚いたわ。磨けば光る原石どころじゃないわね。これは、泥を被ったダイヤモンドよ」
彼女の瞳が、職人のそれに変わる。
「肌のキメは細かいし、骨格も完璧。何より、この瞳の色……」
「私の、瞳ですか?」
「ええ。珍しい、紫がかった銀色。神秘的で、知的で、それでいてどこか儚げな……そう、月明かりのような色だわ」
彼女は恍惚とした表情で呟いた。
「決めたわ。今回のドレスのテーマは『月下の銀百合』よ! さあ、総員配置につきなさい! まずはこの子を風呂に入れて、全身を磨き上げるのよ!」
「えっ、ちょ、ちょっと!?」
私は侍女たちに担ぎ上げられ、あれよあれよと言う間に浴室へと連行されてしまった。
◇ ◇ ◇
それから三時間後。
私は全身を高級なオイルでマッサージされ、髪には数種類のトリートメントを塗り込まれ、顔には何層ものパックを施された。
まさに、まな板の上の鯉状態だ。
そして、ついにドレスの試着タイムがやってきた。
「さあ、目を開けてごらんなさい」
マダムの声に促され、私は恐る恐る瞼を持ち上げた。
目の前の大きな全身鏡に映っていたのは――。
「……え、誰?」
思わず、間抜けな声が出た。
そこにいたのは、私であって、私ではない誰かだった。
パサパサだった亜麻色の髪は、艶やかなプラチナブロンドのように輝き、緩やかなウェーブを描いて結い上げられている。
健康的な血色を取り戻した肌は、陶器のように滑らかだ。
そして、丁寧に施された化粧が、私の瞳の銀色を引き立てていた。いつもは眠そうに見える目元が、今は神秘的な輝きを放っている。
身に纏っているのは、深い夜空を思わせるミッドナイトブルーのドレス。
最高級のシルクが体のラインに吸い付くようにフィットし、歩くたびに裾に散りばめられたダイヤモンドの粉末が、まるで星空のように煌めく。
大胆に開いた背中とデコルテには、大粒のサファイアと銀細工のネックレスが飾られていた。
派手すぎず、けれど決して地味ではない。
知的で、高貴で、そして圧倒的な存在感を放つ「大人の女性」が、鏡の中にいた。
「ふふ、どう? 私の最高傑作よ」
マダムが誇らしげに胸を張る。
周囲の針子たちも、うっとりとしたため息を漏らしている。
「信じられない……これが、私?」
「ええ、そうよ。これが本当のあなた。自信を持ちなさい、アデーレ様」
マダムは私の背中をバンと叩いた。
「女はね、綺麗な服を着ると、心まで強くなれる生き物なのよ。このドレスはあなたの鎧。誰にも負けない、最強の鎧よ」
「……はい!」
私は鏡の中の自分に向かって、力強く頷いた。
もう、俯いていた昨日の私じゃない。
私は、帝国の全権行政補佐官アデーレ・フォン・クライスト。堂々と胸を張って、あの国へ帰るのだ。
コンコン、と扉がノックされた。
「準備はできたか?」
入ってきたのは、正装に身を包んだディートリヒさんだった。
漆黒の軍服風の礼装に、真紅のマント。胸元には皇帝の証である勲章が輝いている。
その姿は、この世の全ての女性を跪かせる魔王のような美しさだった。
彼が私を見た瞬間。
その足が、ピタリと止まった。
「…………」
彼の赤い瞳が、驚きに見開かれ、次いで熱っぽい光を帯びて細められる。
彼は無言のまま、ゆっくりと私に近づいてきた。
「ディ、ディートリヒさん? あの、変でしょうか……?」
私が不安になって尋ねると、彼は首を横に振った。
「いや……言葉が出なかっただけだ」
彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とした。
「美しい。……あまりにも美しすぎて、祖国に連れて行くのが惜しくなった」
「え?」
「このまま城の奥に閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない。俺だけのものにしておきたい」
彼の声は低く、甘く、そして危険な響きを帯びていた。
本気だ。この人、目が笑っていない。
「そ、それは困ります! 仕事が溜まっていますし!」
「ふん、仕事か。君らしいな」
彼は苦笑して、私の腰に手を回した。
「だが、覚悟しておけよアディ。舞踏会の間、俺は片時も君のそばを離れない。他の男が君に触れようものなら、その腕を切り落としてやるからな」
「ひぇっ……やめてください、国際問題になります!」
「構わん。君のためなら、世界を敵に回してもいい」
彼は私の耳元で囁いた。
「さあ、行こうか、俺の最高のパートナー。あの愚かな元婚約者に、逃した魚がいかに大きかったか、骨の髄まで教えてやろうじゃないか」
私は彼の腕に手を添えた。
冷たかった指先が、今は熱い。
鏡に映る二人の姿は、まるで絵画のように完璧だった。
最強の皇帝と、最強の補佐官。
「はい、陛下。……楽しみですね」
私はにっこりと、悪役令嬢らしい不敵な笑みを浮かべた。
準備は整った。
いざ、決戦の地――祖国の舞踏会へ。




