第十四話
賢二の彼女、須藤藍子は賢二と同じ工業高校の三年生で、学年で一番の才女なのだ。
そんな彼女が進学すると言ったから、賢二も大学の道へ進もうと、こうして浪人までして勉強しているのに、彼女はそのことについてまるで理解していないどころか、なぜそんなに時間を割いているのに成績が上がらないのだと不審に思うばかりで、度々通話でもそのようなことを漏らしていたのだと賢二は言った。
その導火線が燃えつくすまで、時間はかからなかった。彼女は二週間前の深夜、賢二が予備校から帰り、家にいるであろう時間を見計らって、これまでにないほど深刻な口調で話を始めたのである。
賢二は予備校の予定表や課題の多さなどを克明に彼女に伝えるのだが、それでも一週間も会えないどころか、連絡ひとつないのはおかしい。勉強をしていると言っているが、成績は一向に良くならないではないか。もしかすると、彼はもうわたしのことなんて興味がないのではないか。俵藤藍子はそのようなことを語っていたのだと賢二は言った。
「確かに連絡しなかったのは俺は悪いんだけどさぁ。それにしたってもうちょっと言葉があるだろォ?俺は浪人生なんだぜ?ちょっとぐらい我慢してくれきゃ、こっちだって困っちゃうよ」
そう言って笑って見せた賢二の瞳は、どこか虚ろで曇るものがあった。
俵藤藍子は公募推薦で東京の私立大学への進学が確実視されているからか、進学を志す同い年の子たちのように、予備校には通っていない。いつも学校から帰ると机に座り、携帯を触るか本を読んで時間を過ごす。親は二人とも夜中まで帰ってこないし、家には兄弟もペットもいない、そのため深夜に行う賢二との会話が、一日で一番楽しい時間なのだと語っていた俵藤藍子の、典型的な丸顔の中央に穿った、宝石のような輝かしい瞳を宏太は思い出し、もしかすると彼女の祖先は、北欧かスラブ系の血が混じっているのだろうかと、その時ふと考えていた。
「なぁ頼むよ。俺が直接言うんじゃなくて、こうちゃんが自然に伝えるっていうかさぁ。受験で忙しいから、連絡はあまりできないって、仄めかす感じで言って欲しいんだよ」
賢二は両手を拝むような形にして顔の前に突き出すと、首を下げて動かなかった。
「確かに、俺はアイツの言ってるように馬鹿で勉強はできないけど、それでもこうやって勉強を続けてるんだよ。神奈川県がどこにあるかさえわからなかった俺に、知らないことをたくさん学べる喜びを教えてくれたのがこの予備校なんだ。俺はもう勉強が好きなんだよ。高校の授業なんかよりもはるかに面白いし楽しいんだよ。俺はこれからも勉強を続けるつもりだし、大学にだって行く。もし藍子がそれを拒むんなら……」
「拒んだら、どうするんだ?」
賢二はそのまま口を結んでしまった。次に出す言葉を考えるように顔を伏せ、目線を宙に置いて固まっていた。
首を下げた賢二を見つめながら、厄介なことに巻き込まれたなと宏太は思った。それは彼の言い分を聞く限り、自分は彼女の方の肩を持ちたくなってしまったからであったから、宏太はどうしたらいいのかと怪訝な表情のままつむじをかき、二人について思案していた。
俵藤の言い分はもっともだ。いくら浪人生とはいえ、一週間も連絡を取らないのは非常識だし、最近の宏太はどこか余所余所しいというか、くたびれた豹のような表情を何度も見かける。成績が上がらないのは彼の時間をかけて物事を習得していくという一種の性格みたいなものだから、とくに気にする必要はないのだけれど、それにしてもたった一人しかいない自分の恋人を、こんな邪険な扱いにするのは些かおかしいではないか。
もしかすると賢二は、何度も連絡を迫る俵藤に辟易して、他の女に手を出してしまったのではないだろうか。そう考えるとこの頃の違和感も納得が付く。彼の手の速さは目を見張るものがあるのだから。
色々と考えあぐねた宏太は、やはり彼は俵藤とは別れるべきだと思い、それを伝えようと隣の方へ顔を向けた。
そこには落胆とも怯えともつかない表情で、一心に踊り場の暗闇を見つめている辻村賢二の姿があった。
彼は口を半開きにさせながら、目をこれでもかと引ん剝いて、何か恐ろしいものでも目の当たりにしたかのような、悲劇的な情緒を漂わせた青い顔をしたかと思うと、一瞬のうちに整然として、特段気に障るようなことはないといった風な、白い顔を見せるのだった。
それは彼の心身を内包する、いかなるものをも受け付けない強い矜持、意志のようなものだと感じた宏太は、妙に怖気づいてしまったため、彼は一旦口元までせり上がった言葉を飲み込むと、もう一度顔を前に戻し、思案に戻るしかなかった。
はてさてどうすればよいのだろう。宏太は過去の賢二の語り口調を思い出し、何か手掛かりはないのかと映像を膨らませてみるのだが、浮かんでくるのは彼の多面な顔をばかリで、須藤藍子という高校三年の少女についての事柄は、断片的でしかなかった。
やはり自分が場を取り持つしかないのだなと考え、重い腰を上げようとした時、ふと頭の隅に、路上で放心したままの富田智咲の淫靡な表情が甦ってきた。
それはつい一月ばかり前の、賢二とカラオケに行く際の路上で出会った、中学生ぶりに見る同級生の、あられもない姿であった。
彼女は見違えるほど綺麗になっていた。目は大きく、髪は薄く透き通り、化粧を覚えたからなのか、肌の色でさえ違って見えたが、やはり中学時代の面影をどこかに漂わせている、あの富田智咲なのであった。
そんな彼女が、どうしたわけか伊勢佐木町の裏路地で、自分より一回りも大きい男と口論し、男が去ってからも嘆き喚いている。宏太はそれを、ただ呆然と眺めていることしか出きなかったのだ。
富田と男の間にいかなる事情があったのか、傍観者である宏太には知る由もないはずなのだが、なぜだか彼はその時奇妙な面白さと、この無様な富田智咲という少女を救ってやりたいという良心が、僅かながらも彼の心に降りてきたのだ。
けれど彼は、突然現れたその自分勝手な良心を、口外できない恥ずかしいものだと思って、彼女を見過ごしてしまった。
彼は、弱り切ってもなお牙をむき続ける厚化粧の女に、自分の欲望とを照らし合わせてしまったのだ。中学時代はまるで眼中になかった同級生の、驚くべき変貌に心奪われ、一瞬でも彼女の内に入ってしまったことは、彼には取り返しのつかない大ごとだったのである。
しかし、彼はそれを口にすること無く、ただ自分の思い違いなのだなと、有耶無耶のまま心の中に留めておいてしまったのだ。
あれから彼は、ふとした瞬間に富田智咲の弱り切った顔が脳裏をかすめ、その都度下半身に熱を感じながら、忌まわしくもあり倦厭な、けれど不快ではなくどこか心地の良い状態を楽しんでいたりもするのであった。
この心の乱れと言うものが、もしかすると。賢二や俵藤藍子にも存在しているのではないだろうか。




