第十三話
夏の日差しが盛りを迎え、まだ週末でも夏休みでもないと言うのに、午後の横浜駅のホームには若者がひしめき合って電車を待っていた。
「やっぱり俺の感は当たったな」
目を線のように細くして笑っている賢二を横目に、宏太は上りの電車が横浜駅ホームに流れ込んでいく様をぼんやりと眺めていた。
「先週から様子がおかしかったんだよ。講義の最中何度もトイレに行くし、言葉だって聞こえないくらい小さくてくぐもってるから、隣のヤツがその都度手を上げて質問するんだよ。『先生、この箇所と文章の説明が違います』って。その度に石谷は顔を強張らせながら『そうかぁ。ごめんなぁ』って。エイリアンみたいに青い顔をして言うんだよ」
下り線のホームにも電車が入ってきた。大宮駅から乗客を運んできた京浜東北線は、横浜駅でその名称を根岸線と替え、横浜市と鎌倉市を境にする大船駅へと続く。
「お前、石谷の病名知ってるのかよ」
「いいや。他の奴らは腹でも壊したんだろって言ってるけど、でも講義を中止するくらいだから、もしかすると胃潰瘍にでもなったんじゃないのかぁ」
「胃潰瘍なら手術だろ」
「日帰りのもあるみたいだけど、まあ明日も休講だな」
賢二はそう言って笑った。ホームの庇の上から斜めに入った日差しが、彼の横に広がった額に浮き出た汗を光らせて、それがちょうど銀色の車体で完全に隠れるようになったころ、二人は電車に乗った。
受験の天王山と呼ばれる夏期講習が始まってまだ一週間も経たない七月の二日。数学を担当している石谷健の体調不良により、浪人生の午後の講義は中止となった。
予備校なのだから、コマの空いている講師が授業をはじめればよいだろうと思うのだが、弱小のここ天筑予備校横浜校では、講師の数が極端に少なく、最低賃金で雇われた講師陣の業務は、とても空いた時間に終えられる程のものではなかった。
そのため宏太たち浪人生の主任である、現代文担当の久野正司は、マイクを持って教室へ入るなり、きっちりと刈られた白髪の後ろ髪を優しく撫でながら言ったのである。
「君たちのような学生の身分でないものにも、少しばかり休暇があっても悪くはないだろうと思うんだ。時間を有効に使う手立てを考えることは、今後の人生にも大いに役立つ。そこらへんのことをよく考えて過ごしなさい」
つり革に摑まりながら口ひげを撫でるようにして、久野の口調を真似ていた賢二は、左肩に架かった大きなバスケットボールを眺めた。
休講と告げられた宏太は、特にやることもないのだからと、自習室に残って課題を進めようと思い階下に行ってみると、ガラス扉の向こう側には何人もの浪人生が、参考書を食い入るように眺めていたのだった。
自習室は満席だし、今日はもう帰るかと、一階の階段を下がっている時、後ろから肩を叩かれて振り返ると、汗だくの賢二が渋い顔をして立っていた。
「お前、何で電話に出てくれないんだよ。さっきから何度もしてるだろう?」
「わるいな。講義中に切ってからそのままなんだ」
宏太はさして悪気はないと言ったふうに携帯に電源を入れ、その動作を眺めていた賢二は、まだ息が切れるのか右腕で額の汗をぬぐい、もし予定がないのなら久しぶりにバスケットボールをしに行かないかと宏太を誘った。
「バスケ?このクソ暑い日にか?」
「このクソ暑い日だからいいんじゃないかぁ。知ってるか?受験生ってのは体力が命となりなんだってな。涼しい冷房の下でずうっと同じ姿勢でいたら、身体にも悪いだろぉ。たまには運動して汗でも流さなきゃなぁ」
息を切れさせながらも真っ白な歯を出して微笑んでいる賢二を前にして、宏太はお前は浪人生としての自覚はないのかと言いそうになったが、いや、確かに彼の言っていることはもっともだろうと思った。
宏太は夜遅く予備校から帰ってくると、脱いだ服を濯機に入れそのまま風呂に入る。その時必ず鏡に映った自分を二三秒眺めるのだが、胸から腹部にかけての肉は、ただ骨に皮膚が張り付いたようなもので、臀部から下の太ももは、バスケ部で汗を流していた三年前の半分近くまで減っていた。そんな自分の姿が、彼は堪らなく嫌だったのである。
どこかのタイミングで肉体改造をしなければ。さもないと受験に受かったとて大学に通うのがやっとになってしまう。彼はその時初めて家から近い予備校を選んだことを悔いた。自転車で五分のところに位置する天筑予備校は、彼の運動を極限まで減らしていたのだ。
「どこでやるんだよ。また新横浜かぁ?」
彼は中学時代よく行った、港北区にある公園の名を言ったが、賢二は首を横に振り
「根岸森林公園」
と言って宏太の隣に降りた。
「根岸って、根岸駅のところかぁ?あんな場所に大きい公園なんてあったのかよ」
「駅から坂を上ったところにあるんだよ。立地が悪いからあんまり知られていないけど、静かでいいとこだぜ」
賢二がそこまで口にしたところで、宏太は何かを思い出したのか「おい」と悄然な声を出して
「根岸って……まさかお前、彼女に会うためじゃないだろうなぁ」
と言った。賢二の一つ下の彼女、俵藤藍子の家は、根岸駅の近くだったことを宏太は覚えていたのだ。
賢二はまた渋い顔をしてへへへと笑うと、まるで申し訳なさが感じられないような声で「ごめん」と呟いた。
「どうして俺が俵藤と会わなきゃならないんだよ。あいつとバスケするのか?」
「いや違うんだ……」
賢二は初めて悲痛な表情を顕わした。そして宏太の立っている階段の隣に腰を下ろすと、光り輝いている踊り場のガラス窓を見やりながら淡々と
「藍子と喧嘩したんだ。最近付き合いが悪くないかってね。もちろん、藍子は俺が浪人しているってことを知ってるから、過剰に電話をかけてきたり、返信を迫ったりなんかはしてこないけど、先週の通話でそれが爆発したんだ。昔は二日に一度は顔を合わせていたのに、最近は一週間連絡がないことだってある、どう考えても浮気以外考えられないって。ヒステリーになって喚き散らしていたよ」




