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雨の日と少しだけ変わってしまった日常

 日時:六月十六日。場所:教室。目的:授業。

 雨音が音高く響いている。机が揺れて筆記具がかすかな反響を巻き起こす。

 雨。

 手を伸ばせば届いてしまいそうな窓辺を横目で覗き込みながら。視界の中心核にあるノートから延びるように進んだ先の窓辺。サンに囲われた空気の出入り口に向かって大きな雨粒が、打ち付けて、砕け散って、飛び跳ねている。窓辺にしぶとくしがみついているしずくがずんぐりと流れ落ちて行く。

 三階の上の階。空が広がる屋上に向かって殴りつけている雨音たち。

 授業は進む。雨音も進む。

 黒板に刻まれてゆく文字通りに、柔らかい紙質のノートに筆記具の足跡を乗せていく。

「いいですか」

 チョークが二度黒板を叩く。好磨先生が一度教室の中を見渡している。

 睥睨する。

 そんな言葉をどこかで聞いたことがある。

「ここ」

 注意するポイントでチョークの色が変わる。教科書の太文字で描かれた言葉を見つめた後、もう一度黒板へ。イメージと言葉を結び付けた後、ノートを埋めてしまう。筆記具をすべらせる。頭の中に一度きりで刻めたらいいのに。

 窓辺に張り付いていたしずくが静かな流れを作って小さな小粒たちを飲み込む。さらさらとすべる流れが現れたり、消えて行ったり。

 雨。

 黒板に積み重なるように現れて行く文字を追って。

 せめて重要点だけは押さえようと教室の反響音に身を任せていると、どうしてだろう。時間は流れるように過ぎて行く。静寂、そして、喧騒。澄み切った空気の中に雨音と黒板の叫び声だけが浮き上がるように耳に届いて消える。ときどき好磨先生の低い声が教室に響く。雨の日の、曇りの日の、少し湿った感覚がする空気。しっとりとした呼吸によく似合う声が雨音を打ち消すように響いている。黒板ではチョークの粉がさらさらと待って落ちている。腕が少し、しびれる。

 時計を見る。

 休憩へと近づいている。

 雨は静やかに連なってゆく。風に吹かれてたなびく雲海からは深いグレー色がまるで魔法みたいに後から後から湧き出てくる。

 雨。

 チャイム。

 スピーカーからの音に合わせて頭の中で楽譜を奏でてみる。どうかな。今日は調子が合っているような気がする。

「では、次の授業は」

 好磨先生の声の後、一斉に机と椅子が揺れる。

「起立」

 立ち上がるのが少し遅れる。それから礼。

 

 昼休み。いつもと同じでいつもと違う昼休み。恵都と雄一が争ってご飯を食べ始めるのを見ながら、私はいつもと変わらないよう努めていた。

 里美と洋子は、はしゃぐわけでもなく淡々とご飯を口に運ぶ。口数はいつもと同じなのに、どうしてだろう、今日はいつもみたいにわくわくする感じがしない。

 私はと言えば、紀州梅を箸に取り、その甘酸っぱさを口いっぱいに含みながら、ご飯を箸いっぱいに乗せて口元に運ぶ。それから、アジのフライの半身にすっと箸を入れ三分の一ほどを切り取ると、ご飯と交互に食べてしまう。私は、その味を噛みしめる。ふわりとした触感のアジのフライと冷えたご飯の甘い味。咀嚼して、飲み下して、また咀嚼して。それから仕上げにデザートとして入っているみかんを口にほおばるのだ。

「そういえばさ」

「何。何。雄一」

「何なの。雄ちゃん」

 お弁当を半分ほど食べ終えた雄一が口を開き、洋子と里美が相槌を打つ。雄一は少し迷ったかのように手元の箸を彷徨わせると、それから、どうやって知ったのだろう。私が頭に血が上るようなことを口にする。

「恵都。お前、要と二人でメッセージの取り合いやっているよな」

「何だよ。雄一」

「えー」

「そうなの、要」

 洋子が意外そうな声を上げ、里美が半笑で私に向かって尋ねる。一体、何を恥ずかしがる必要があるんだろう。私はそう思いながらも、半分の照れ笑いと、半分の平静な笑いを浮かべてみる。

「そう、かな。一昨日、教えてもらったから」

「意外だね。里美」

「うーん、そうかな」

 洋子が大きな瞳を見開いたまま、少しだけ硬い表情で同意を求めるような声を上げてしまうのに対して、里美は崩したままの顔を決して崩さない。半分の笑いを崩さない。全く。里美は面白がっているのだ。私たちは、まだ何もやってみてはいないのにいつの間にか噂になって、そして面白がられている。

「雄一。そんなことはいいから、さっさと食うぞ」

「恵都。そんなこととは、そりゃないぜ。せっかくだから白状しろよな」

「何を」

「何を、ってそれはあれだよ」

 恵都は本当に不思議そうな顔をして、私はそうして不安に駆られる。そうだ、一昨日のことは本当にあったことなのだろうか。本当に私たちは一緒に帰って、そして、新しい一歩を踏み出したのだろうか。

「だから何だよ。雄一」

「付き合っている、とかさ、そういうことだよ」

 恵都は分かったようなそれでいて分からないような困った顔をして、それから私に同意を求めるように視線を向けながら口を開く。

「まだ、だよな」

「そう、だね」

 私は、真っ赤になりたかった。仄かに血が上り、興奮した証拠に胸の動悸が早くなる。私はある意味での証拠が欲しがった。兆候だけでは満足できなかったからだろう。それなのに。恵都が困惑したように、私の視線を捉えるでもなくそのつぶらな瞳で恐る恐る見上げるようにそう口にするのを聞く私の動悸は早かった。早鐘のように脈打つ心臓。私はそれ以上何も言えなかったし、恵都もそれ以上は言わない。

 洋子はお弁当からウィンナーをつまみながら感慨深そうにうなずくだけだ。雄一は少し唇を尖らせて、口笛を吹く真似をして見せる。

 そうすると里美が笑いながら雄一に向かって声をかける。

「雄ちゃん、雄ちゃん。ひょっとして羨ましいのかなあ」

「何だよ。里美」

「いやあ。男の嫉妬はみっともないなってさ」

「何だよ。悪いかよ」

「悪くは無いよ」

「いやさ。恵都に期待していた反応がそういうんじゃないんだよな」

 雄一は里美との会話の終わりにそう言うと、ニヤリと笑いながら箸を取り上げ、恵都のお弁当からミートボールを一個頂いて見せる。

「あ。雄一。お前いきなり何してくれているんだよ」

「いや。引き出物でもと思ってな」

「は。何言ってんの。お前」

 お弁当から雄一の口へと肉団子とミートソースが運ばれていくのを見ながら、恵都が呆れたようにそう口にする。その言葉を聞く雄一はもう先ほどの話題には関心も無いかのようだった。お弁当を手に取ると、それから、一気にご飯とおかずを掻き込んでしまう。全く、あれで口への落ちる唐揚げの味は分かるのだろうか。私は、おかしくって笑ってしまう。恵都と雄一が競い合うように御馳走様と口にして教室を後にするのを眺めながら、私は、可笑しくってずっと笑っていた。何が可笑しかったのかは分からない。だけど思わず笑っていた。

「要、要。それでさ。きっかけは何なわけ」

「あ、それ、私も聞きたい」

 里美と洋子がそう口にするのを聞く、私は、「ちょっと待ってね」と口にする。私はデザート用のみかんの最後の一切れを放り込むとその味を噛みしめる。それは、甘くって、本当に甘くって、おいしかった。咀嚼していくと、後味には仄かな酸味が広がって、甘酸っぱさが口元に残るのだ。

「それはね」

 私は、そう口にしながら窓の外を眺めていた。

 雨。

 雨音は止まない。

 窓の外ではぐじゅぐじゅになってしまったグラウンドが今日も一日使われることなく眠るのだろう。今日は雲間に晴れ間も無いような気がする。里美と恵都には災難だけど、私は、何となく雨の日が好きだ。雨間に広がる黙々としたどんよりとした雲が好きだ。私は、雨の日が嫌いじゃなかった。どうしてだろう。今は雨の日が前よりも好きになったような気がする。

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