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雨の日に傘が一つ。

 日時:六月十四日。昼前。場所:グラウンド。目的:恵都鑑賞。

 空はどんよりとした重い色に変わってきている。

 そのかすかに雲間から覗く陽光の下、グラウンドには様々な部活動がひしめいている。野球にサッカー、ソフトボールに、ハンドボールと陸上。それに室内部のランニング客もやって来ていて、定員は満杯。よくこれだけの人がいるものだと感心してしまう。一杯だ。

 私は、グラウンドを見下ろす国旗掲揚台の二段上の頂上で、コンクリートにこびり付いた土を払った後、腰を下ろす。ぼんやりと恵都を探してみる。野球のボールがバットに当たる小気味よい音が響く。ボールを蹴る僅かな擦れる音は断続して、ランニングの掛け声は続くし、足音は絶え間ない。体育の時間以外で最後に走ったのは一体何時だったかな。運動したのはいつ以来なのだろう。あ。ぼんやりと視線の焦点が合わさる。里美だ。里美がボール投げている。遠くから見ると里美じゃないような、里美のような。分からない。私はよく分からなくて視線を細めてみる。確かに、里美だ。

「ん。要」

「え」

 洋子だった。体操服に黒のパンツスタイルで決めたかっこいい洋子。少し足が太くなってしまったのが悩みだって言っていた洋子。パンツスタイルの下から覗くパンパンに張った太ももがまぶしい洋子。それは洋子の努力の証。

「何。どうして座って」

「部活終わったから。眺めてる」

「何。誰、探しているの」

「里美と恵都」

「ああ、里美ね。それと」

「それと、だけど」

「ですよね」

 洋子がにこりと笑うのを見ながら、私は、ぼんやりとしていた。頭の中で、台詞のリフレインが駆け巡ったり、それから洋子と里美と一緒に美術をやっている時のことを思い出されたり、いつもの昼食のことが浮かんで来たりしていたんだ。

「洋子はもう上がりなの」

「うん。お仕舞」

「そう」

「そうね」

「洋子も一緒に眺めてみない」

「遠慮しとく。雨も降りそうだし、ね」

 空を見上げて西の空を指さす洋子。

「そう」

「それじゃあ。要」

「さよなら。洋子」

 洋子に向かってそう口にすると、私は、再び、ぼんやりとグラウンドを眺め始めた。『知るべきではなかった』。急に台詞が浮かんでくる。台本なしに浮かんでくるようになるなんて思ってもみなかったけど、どうしてだろう、たった数日でそうなるのだ。野球のボールが飛ぶ。キャッチする。投げる。捕る。サッカーのボールが蹴られるなら、蹴られつつ、蹴られれば、蹴られるとき、そして、いけ、蹴れ。ネットが揺れる。ソフトボールの鈍い音が響き、ハンドの玉が連続して何度もネットを揺らす。それから、短距離を走って、抜いて。その繰り返しも見える。

 そして。

 いた。恵都だ。ランニングしている。遠くでランニングしている。ときおり汗を拭いながら走る恵都。

 いーち、にー、いちに。近くを室内部のランニング集団が通り過ぎる。一、二、一、二。そうだね。恵都もその調子で走っているのだろうか。私は、ぼんやりと恵都がグラウンドの内を走り終えて外に向かうのを眺めていた。その間、台詞が思い出される。『おかしな人』『私がおかしいというのなら憑かれた男は皆おかしいのさ』『何に疲れたというのですか』『君にさ』浮かんでは消える台詞たち。そうだ。私は疲れているのだろうか。ぼんやりと恵都が消えてしまったグラウンドを見上げながら、私は、肩を左右に鳴らし、伸びをする。

「ぅーん」

 思わず声が漏れる。校舎へと備え付けられた時計を振り返る。正午まではもう少しだ。これで晴れていれば、梅雨間の晴れであれば、綺麗な赤橙黄緑青藍紫の重ね合わせが。真っ白な太陽光が眩しく輝くはずだけど。今日のどんよりとした曇り空からは幻想的な光のミュージアムではあるのだけど、雲間から漏れ出す仄かな輝きが見えているだけだ。伸びをする。真っ青な青空。何か詩的ではある。

 横になって寝そべりたかった。真っ白な雲、透き通る空色の空。萌える草花の大海の中で私は寝転がってしまいたい。

 うん。だけど、現実もそんなに悪いわけじゃない。

 徐々に雲からの漏れ日が失われて行くのを見ながら、私は、三十%について考えていた。降水確率三十%。ふと、やることも無くなった私は、鞄の中からスマートフォンを取り出して、サービスに繋ぐと、何件かのコメントにコメントを返してみる。時間は早い。もう。恵都が外を回って戻って来ている。私は、どんよりとした空から冷たいものが落ちてくるのを感じ取ると、よっ、と呟いてスカートの裾を押さえながら立ち上がる。

 傘は正解だ。

 ふと雨に関する曲が浮かんでくる。

 雨雨ふれふれ母さんが。

 じゃのめでお迎え嬉しいな。

 ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。

 そうしてその後は、その後は、どんな曲だっけ。疑問はあるけど長続きはしない。ぽつりぽつりと降下し始めたH2Oを避けるように校舎の影へと向かう私は、空を見上げて舌打ちしそうな勢いの恵都を眺めると、何だかとても可笑しかったので一人だけなのに笑ってしまった。

 それから二十分位待ったかな。

 途中で里美が上がって来て、一言、二言会話した。どうしたものだろう。雨は段々と勢いを増していた。校舎を叩く音が響く。ザザザー。ザザ。ザザザザザザ。ひどい雨足にならなければいいのだけど。恵都のやつが、グラウンドで終わりの挨拶に頭を下げて慌てたように上がってくるのを見ながら、私は、何だかいい気分だった。恵都が雨に打たれているのが面白かったわけじゃない。今日は雨なのだ。雨の日は何だか乗り切るのが楽な気がする。校門近くまで恵都に合わせえるかのように歩く。

「よっ。徳波君」

 タオルを頭に乗せて、走りだしかけていたびしょ濡れの恵都に向かって私は声をかけてみる。

「お。どうした要」

「いや。その、一緒に帰ろうと思って」

「そ、そうか」

「そうだよ」

「待っていてくれたのか」

「待ってたよ」

 そうだ。待ってた。恵都と一緒に帰りたい気分だったから。

「いや。そのすまん」

「いいってことよ」

「男前ですな。島世さん」

「えへん。それなら漢と書いて姉御と呼びな」

「ああ。そうだな、姉御。で、姉御。それよりさ」

「何でい」

 雨に打たれる恵都を見ながら、私は、その調子が気に入ったのでそのまま古い言葉で尋ね返してみる。

「俺さ、傘持ってきてないんだよな」

「えっ」

「それでさ」

「駄目」

「えー。そりゃないだろ」

「じゃ、まずその濡れ、どうにかしてよ」

「あんまり寄らないからさ」

「じゃ、狭いけど半分より向こう側に入ってもいいよ」

 傘を半分差し出す私。タオルでごしごしと頭を拭きあげた恵都は、その後、腕を拭きながら傘に入ってくる。背が釣り合わないので少しだけ腕を持ち上げると、気づいた恵都が言う。

「俺が持とう。姉御」

「恵都。もうそのノリはいいから」

「そうだな。要」

「そうだね、恵都」

 私は、どうしてだろう。胸が高鳴るような、緊張するような、まるで、台詞を間違えた後のような感覚を覚えていた。傘は雨音を響かせて、ザーザー、と音を立てる。校門の前から歩き出す私たち。と後ろから、雨音が増える。

「徳波ぃ」

「恵都じゃん」

 そう呼ぶのは恵都の知り合いだろうか。

「お。どうした」

「だれだよ。その子」

「要」

「ああ。要ちゃんね」

「やるぅ。徳波」

「そんなんじゃねえよ」

「じゃ、どんなんだよ」

「いや、まだな」

「まだ、ね」

 私はその言葉が響いて胸に落ちてくると、猛烈な羞恥心に襲われていた。恵都の言葉が胸に響く。まだ。まだってことは、つまり、まだだ。だけど、それは、まだだけど、それってつまり。こういう時、赤くなるって表現はよく分からない。実感だと、頭に血が上ってほとんど何も考えられなくなるって感じだと思う。

「じゃあな。徳波。当てられない内に急いで帰るわ」

「そうだな」

「だからぁ」

「じゃあな」

「まあ、じゃあな」

 恵都は別れの挨拶を口にして、少しとどめていた足取りを再び進め始める。私も慌てたように足取りを合わせる。

「恵都の知り合いなの」

「部活の悪友」

「ははっ。悪友なの」

「善友とは言わないからな」

 恵都はそう口にしながら困ったようなはにかみを浮かべて見せる。一本だけある八重歯が少しだけ可笑しみを誘う恵都。短髪の上にタオルを載せたままの恵都。そうして、私と一本の傘の中に要る恵都。私は、ふと、先週のことを思い出していたんだ。そうだ。先週。バス停で、私たちが見逃した何かが、今日にはもう、あったんだ。どうしてだろう。たった一週間しか経っていないのだ。たった一週間。それなのに長い一週間。色々なことがあった一週間だった。私は恵都に向かい合う勇気を少しの間だけ、失ってゆっくりと歩く恵都に合わせながら、足元を見つめながら、ずっと恵都の話を笑っていた。

「ってやつらなのさ」

「へえ。そうなんだ」

 頷きながら、ほとんど別のことを考えている自分がいることを発見する。まだ。まだなのだ。そう。まだだった。私は、その言葉を頭の中で繰り返していたんだ。そうして恵都の言葉を待っていた。一体、それはいつまで待つつもりだったのだろうか。たぶん、いつまでも待つつもりだったように思う。

「雨、酷いよな」

「そうだね」

「雨の日は練習がさ、できないのがなあ」

「そうだね」

「そうそう。要はさ。演劇やっているからさ、雨の日はいいよな」

「そうだね」

「そういえば要。お勧めの本とか映画とかあるか」

「どうして」

「いや。雨の日だから」

「そうだな。雨の日と言えば。そうだな。私、映画には詳しくないんだけど。先輩が口にしていた明日に向かって撃て、とか」

「何だ。それ」

「西部劇だって」

「それ、雨と何か関係あるのか」

「雨の日は、すかっとしたいんじゃないかなって」

「何だよ。それ。それじゃあ、まるで俺が何も分からない単純な男みたいじゃないか」

「私も分からないよ」

「要はそういいつつ結構何でも分かっているからな」

「えへん」

 私は胸を張ってみる。恵都は声を上げて大笑すると、それから、にやりと笑ったままで、一言口にする。

「にしても、姉御。西部劇とは漢前ですな」

「そのノリはもういいってば」

 私は恵都に肘鉄をする振りをして見せて。恵都はよける振りをする。ふっと恵都の服に肘が触れてそれが、私を慌てさせる。急にもう一度、頭に血が上ってくる感覚に襲われて、それから恵都が口にする台詞を私は聞き逃しかけた。

「な。要」

「え、何。恵都」

「いや、聞こえなかったのなら何でもないさ」

「えー、何、悪口言ったでしょう」

「いいや。知らないね」

「傘忘れたくせに」

「そうだな。でも」

「でも」

 恵都に向かってそう口にした楽しかった。楽しかったのだけど、私は、話を続けながら、段々と雨音と同じような一定のリズムを感じていた。少しだけの退屈を覚えて来ているのを感じていた。

「忘れてよかったのかもな」

「え」

「要と一緒にいられるから」

 そう口にする恵都は真っ赤になっていただろうか。傘に覆われ、タオルで半分隠れてしまった顔を覗き込む勇気が私にあれば、その疑問の答えは直ぐに分かっただろう。だけど、私は、戸惑いと、そして興奮でそれどころではなかったんだ。

「なんてな」

「…やだなあ。恵都は」

「いや。半分はマジだぞ」

「そうなの」

 私たちは、その後、あまりしゃべらなかった。沈黙の断片を繋いでとりとめのない話が残った。例えば、スマートフォンの性能だとか。恵都は電話を学校には持って来ない話だとか。映画の話だとか。明日に向かって撃て、がどんな映画なのかとか。そして、そして、私たちの話、だとか。私たちはどうなのだろうか。その日、少しだけ違う関係になったような気がする。私は、恵都のスマートフォンのサービスで知り合いにしてもらうことにして、私はその場で知り合いにした。そうしてそのまま雨の日の雨音に身を任せて私たちは取り留めもない話を続けて、取り留めのないまま、一つの岐路に辿り着き、そして別れた。それは、何だか別れるのがもったいないような感じだった。

「さようなら。要」

「また会おう、明後日にね。恵都」

 そう口にして私は、傘を私の手に押し付けてから静かに走り出して空を見上げる恵都を見送った。

 雨の日は少しだけ乗り切るのが楽な気がする。

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