先輩!
日時:六月十二日。場所:部室。目的:賦星先輩と一緒。
今日は晴れだ。
それがどうしたというわけでは無いのだけど、今日はいつも通りに部室に一番乗りの賦星先輩と一緒だ。パイプ椅子から腰を浮かし、きしむような音とともに立ち上がる賦星先輩は、私に向かって一言。
「なあ、要」
「何ですか。賦星先輩」
「秘密のノート、いいか」
私の胸元に向かって伸ばされた手。
「はい」
私は鞄の中を覗き込むと静かにノートを取り出した。
「ふ、ふふ、秘密、か」
「ええ。秘密ですね」
「私にも、要、こういうものへ無性に書き殴りたくなることがあるんだ。どうだ。信じられるか」
「ええ。信じます」
私は、少し調子外れの声を発する先輩へ頷きながら、その実ちっともそんなことは信じていなくて、笑い出したくなりながら先輩の口にする何かの何訳を耳にしていた。
「それでな、要。っと。その前に、これはどういう意味だ」
先輩がノートをめくる音。
「そのままの意味ですよ」
「『演劇部の秘密。先輩と同級生』」
「だから、そのままの意味ですよ」
「私のことか、この先輩って」
「そうですね。違うと思いますけど」
「何の話だ。それは」
「昨日。考えていたら自然とそういう風になったんです」
「秘密。先輩と同級生か。怪しいなこれ。怪しいよな。秘密だな。やっぱり」
「先輩。全然怪しくなんかありませんよ」
そんな話をしながらも、秘密のノートを前にどこか興奮した様子の先輩を見ると何だか可笑しい。どうやら私は私の書く秘密に賦星先輩が興奮しているのだと勘違いしていたようなのだ。
「秘密。秘密、だよな」
「どうしたんですか」
「いや。やっぱり、違う。本当の秘密は秘密のノートなんかに書くべきじゃない」
賦星先輩は秘密のノートを抱きかかえながら、首を振り振りと振ると、やがて思い切ったかのように机に向かってノートを押し付けて、それから、私へと向き直って言った。
「な、要もそう思うだろ」
「どう思うと」
「秘密の中の秘密をノートに書くべきかってこと」
「秘密の中の秘密ですか」
「そう。そういうこと」
「書くべきですよ。私も、」
私はそう口にしながら戸惑ってしまう。恵都とのこと。秘密。小さな秘密。だけど、秘密の中の秘密。
「何でも書いていますし」
「そうなの。要?」
「ええ」
先輩はパイプ椅子を引き掴むと静かにノートと向き合って、それから、机の上に転がっていた三色ペンを手に取る。それから、口元近くで二度ペンを跳ねあがらせた後、ノートの上を走らせる。
「秘密だからな。要」
「分かっていますよ。先輩」
どこか嬉しそうにノートを手渡してくる先輩を眺めながら、私は気になってしょうがなかったのだけど、その後、やってくる先輩たちに囲まれると遠慮して秘密のノートの話はそれっきりになってしまったんだ。
「あら。今日も早いこと」
部員の最後を飾って部室へと侵入して来る壮士先輩が私に向かってそう言ったのが、まるで他人事みたいに思える。白鳥壮士はいつも綺麗な長髪を背中辺りでくるりとまとめている。長身に八頭身にも見まがう小顔が印象的な綺麗な先輩。
秘密のノート。
壮士先輩。
かけ離れている。
「昨日のような失敗は無しにしてもらいたいわ」
「はい。今日は頑張りますから」
下らないことはできないのだ。
この人たちの前では、私の大好きな『ぐうぐうたらたらねこねここねこ』なことは決してできない。
「そう」
きっと賦星先輩だけだ。
私は白鳥先輩が嗜虐的にも見えるその柔らかな笑顔をどうして舞台下に向けてあげなかったのだろうと不思議に思った。そうしたら、全てが、全てがそれで良かったのだろうに。
「いい。よくよく考えて演じなさい」
最後にやってきて部室を後にするのは最初の壮士先輩は、まるで足音を響かせようとでもするような歩き方で部室を後にする。
「ま。いいこというじゃないか」
扉が閉まるのを待っていたかのように、台本から顔を上げた賦星先輩がそう言って、そう言ってくれて、それで、周りにいる先輩たちが次の一言で笑い出すまでの間、私は白鳥先輩の後ろ髪の微妙な乱れを思い浮かべていたんだ。綺麗に纏まった髪の小さな乱れ。みだれ髪の後ろ姿。
「白鳥にしては、な」
乾いた笑いが響いて、それから、私は、台本を手に時間を待ったんだ。