先輩と同級生と
「何か望むことはありますか。愛しい人よ」
先輩のひたむきで情熱的な声が響く。私の心臓が高鳴ったのは、台詞の心配だけではなかったように思う。今日の練習はペースが速かった。昨日あらかじめ読み込んでいた部分を超えて進んでしまう。劇は進んでしまうものだ。
『呪われるがいいわ。あなたもあなたの愛しい人も』
その台詞が合図となってその後は慌ただしく、始まってしまうままに任せてしまって。
「突然どうしたというのです。おかしな人」
一行をクリアする。自然と笑みがこぼれる。深刻な状況も知らず、私は笑みをこぼしているのだ。
「望みを」
「私を愛しい人だと呼ぶ前に、あなたにはあの人が」
「別れの時だったのです」
先輩たちの演技を思い出しつつ、後ずさりする。あんなに冷淡な態度ってない。それに賦星先輩があんなに弱弱しいなんて。どこかがおかしい。演技だと分かっていても何だか不安な気分だ。後ずさり。その後は、
「勝手な人、本当に勝手な人」
「望みを」
今河先輩のことが本当に勝手な人に見えてくるから不思議だ。ひたむきさに打たれない人ってこうなのかなともチラと思う。
「私の望みを聞いてどうするというのです」
「愛しい人よ。その証に」
どこか力の衰えた、抜けるような声が響く。
私はと言えば、その震える声を聞いただけで冷淡な心にかかった曇り空が晴れあがってしまうかのようだった。望みなんてもうどうでもいいことのように思えてしまう。けれど、その場で演ずるのは全くの逆。
「勝手な」
「望みを」
「いいわ。では私の望みを叶えてくださいますか」
今河先輩がぐっと身を乗り出す。間近だ。匂いがする。こんなに近くで見るのは初めてだと思う。先輩の真摯な顔がつきだされるとともに、役にのめり込んでいくような感覚。相手が真剣なほど冷淡になりたがるあの感覚が浮かんできて、私はその命ずるがまま、ふるまってしまう。
「望みを」
「アルペールの卵を」
今河先輩は何かに打たれたかのように飛び退いて、それから苦渋の表情を浮かべたまま一言口を開く。
「無謀な」
「火ネズミの皮を」
「無謀な」
「巨人ダニエルの書を」
「無謀な」
「優曇華の花を」
「無謀な」
「すべての素数の関係式を」
「無謀な」
私は冷ややかに、本当に冷ややかな目で舞台の役上にあった。何かからの引用だと思えるんだけど、欲しがってもいないものを口に出してしまうのは何故なのだか、分からないものではあるのだけど、先輩の苦労の筆致がそこに見えるのだと言うべきなのだろうか。それまでの流れで行けば、
「では、何を望めば」
結局はそれに尽きる。
先輩は沈黙する。私は、先輩がてっきり苦渋の表情を浮かべたままで進むのかとそう思ってしまっていた。そのままで最後の長台詞さえ押さえてしまえば今日は終わりで大まかに言って私の役の難所の一つは超えることができるのだと思う。苦渋の仮面を剥がした先輩が思い返したように尋ね返すのを私は聞いた。確かに聞いて、それで。
「本当に望みはそれで構いませんか」
「望みは、望みはそれで構いません」
その後のことをすっかりと忘れてしまった。
「では承りましょう」
沈黙。がさがさと音を立てながら用紙の束を手に取って。すいません。すいません。と謝りながら、練習再開。
「勝手な人」
「勝手で結構。確かに望み、承りました」
先輩が最後まで気を抜かずに立ち去るのとは対照的だった。私は、長台詞を思い出して口にする勇気もなく、棒読み。
「本当に勝手な人。私の、私が、私を。本当に勝手。そして、おかしな人。私の、私が、私を。本当におかしな人。ああ、私には他に叶わぬ望みなど思いつきません。あの人は分かっていないのです。私は分かっています。本当におかしくて勝手な事だわ。私、私、失礼しますわ」
そして立ち去る。
私は、気持ちのこもっていない声が響き終えるまでに、どうしようもなく底冷えする冷たさに襲われていた。今河先輩は気にも留めなかった。賦星先輩はからかってくれた。だけど。私は周囲を見回すんだ。
誰もが何も言わない。何故だろう。誰も何も言わないのだ。私、何か言われるものだと思って身構えていたのだけど、何も言われなかった。みんなうなずき合って今河先輩の指図通り動いていく。私の失敗なんて無かったかのように動いていく。
と、一人だけ。
「島世さんには今の役は荷が重いんじゃないかな」
異を唱える人がいる。
先輩だ。三年生の先輩だ。
「そうですか。壮士さん」
「ええ。そう思うわ」
「では。島世さんが相応しくないなら、だれが相応しいと」
「それは」
口ごもる壮士先輩。先輩は周りを見回すのだけど、だれも助ける気は無いようだ。私は、ただ、俯いて用紙の束を掴むだけだ。
「確かに、今日の練習といい、昨日の練習といい、もし、壮士さんがやっていたならもっと進展していたとは思いますけれどね」
今河先輩の言葉が耳に痛い。
「それなら」
「ですが壮士さん。始めに断ったのは、あなたですよ」
「それは」
「あなたの役は気に入りませんか。あの役も劣らず重要ですよ」
「それはそうですけど」
「役が合いませんでしたか」
「ですから」
苦い表情を浮かべる白鳥壮士先輩を、見透かすように眺めていた今河先輩はふと振り返って時計をみる。
「時間ですね」
そう口にする今河先輩は、後、一言二言壮士先輩と口を交わし、解散の礼をする。今日の部活はこれで終わりだ。私はてっきり今河先輩に呼ばれるのかとも思っていたのだけど、そのまま帰ってよしということになった。今河先輩が一言だけ私に口にする。
「もう少し早く覚えてくれると有難いんだが」
「はい」
私は力を込めたような、どこか力を落としたような、そんな声を返すと、賦星先輩がと一緒に今日の失敗と成功について話しながら、部活を後にする。
「だいたい要はさ」
「賦星先輩みたいにはいきませんね」
いつも通り賦星先輩と会話する。演技は私とは比べるまでもないし、比べるまでもないのはそれだけではない。端正な顔に端正な髪形をした賦星先輩。ざく切りの前髪が揺れているその顔を見ると、何だか敵わない気がしてくるんだ。
「それで秘密のノートはどうした。もう演技の方だけでいっぱいだろ。そんな余裕はないだろ」
「そうですね」
笑いながら答える。秘密のノート。忙しくなる。忘れてしまう。それっきり。先輩に見透かされたようだ。
「そうか。そうか。それならだ。さよなら要」
「それじゃあ」
どこか含むところのある先輩と別れると、肩を落としながら私は歩く。夕暮れの暁に輝く校舎をぼんやりと見上げながら、大きくため息をつくと突然の声。
「島世さんは、先輩と仲いいんだね」
「映子ちゃん?」
途中で同級生と一緒になる。
「ええ。演劇の練習が本格的になってくるから。私も話したいことがあるし、島世さんもあるでしょう。だから、たまには一緒に途中まで帰ろうかと思って」
「話したいこと?」
「うん」
同級生の映子ちゃんは裏方志望だ。照明、音響、衣装、準備中だ。
「私ってあれでしょ。だからね。えっと、駄目だ」
「映子ちゃん。さっぱりだよ」
「私は、裏方志望でしょ。それでね。だけどね。今日の島世さんの演技を見て思ったんだ。私には到底出来そうもないことをやっている人がいるんだって。頑張ろうって。誰も見てないかもしれないけど頑張ろうって。ただね、今日のところはちょっとだけ失敗していたけどね」
二人一緒に笑ってしまう。私は、長い髪をした映子ちゃんのきらきらした瞳に映る自分の姿が目に入ると、少しだけ困惑したまま、緊張しながら、聞いたんだ。
「私の演技。どう映子ちゃん」
映子ちゃんは立ち止まってぱたぱたと私に近づくと、近づくと、うーんと近づくと、それから言ったんだ。
「うん。先輩には。私が思うに、あの、主役の先輩と比べるとまだまだだけど、いい線行ってるように見えるよ」
「本当!」
私は、声を上げながらうーんと近づいて、それから映子ちゃんの顔を間近で見た。ふわふわな映子ちゃん。どこか浮ついたようなところがある表情には、綺麗な二重まぶたの瞳が乗っかっている。私は映子ちゃんが慌てたように私から距離を取るのを笑いながら見てたんだ。
「島世さん。私、私、応援しているから。先輩たちが何か言っても、応援しているから。それだけ、言っておきたかったんだ」
「ありがとう。映子ちゃん」
私は、自分の便利な頭にびっくりする。そうだ。今日のことなのだ。三年生の先輩から非難の声が上がったのは。壮士先輩の一声が飛んだのは今日のことなのだ。そういうどうにもならないことがらは、忘れてしまうのが早い。だってどうなるのかは分かっている。今河先輩がどうにかしてくれるに違いはないのだ。
「そ、それじゃあ、さよなら。島世さん」
「映子ちゃん。要でいいよ」
「そ、そんな」
「何が」
「さ、さよなら。要」
「さよなら映子ちゃん」
さよなら今日、きっと会おう明日。
私は、足音も高らかに家路を向かう。電飾が夕曇りの空に輝く。瞬く地上の光がぼんやりと照らし上げ始める時間だ。私は家路を向かうのだ。




