かつての賢狼の王はかく語る
「……許嫁?」
ハヤイの到着を待つ間、レギオンさんは静かな声で語りだした。
いつ、どういう流れで聞いたのかは知らない、寧々子さんがこの世界に、レギオンさんに固執するその理由。それは彼女の生まれと、生まれながらに与えられたものによるという。
富豪であり、それなりの名家に生まれたという寧々子さん。
……まぁ、自分専用のサーバーを抱えることができるわけだから、それ相応のお金持ちなんだろうということはわかっていた。改めて、それを痛感させられただけのこと。
そういう家柄にはよくある、許嫁というものが彼女にもあったそうだ。それも生まれる前から定められていたもので、相手は遠縁の、同程度の財力と権力を持つ、同じく名家。
彼女は、生まれる前からまず『恋愛』という自由を消された。
次に『友人』や『学校』といった、普通の人が普通に享受する自由を消された。ゲームなどの娯楽の自由はあったけど、それでも埋まらなかったものもあった、ということなのか。
僕は、眠ったままの寧々子さんを見る。
穏やかなその寝顔から、殺戮を命じた姿は感じられない。
きっと、多くの人が彼女の願いをワガママだと断じるだろう。僕だって、少しはそう感じてしまっている。お金があって、将来も安泰で、それでなんの不満があるんだろう、って。
……それじゃあ、賄えない大事なものがないから、というのが答えになるか。
家族も、富も名誉も将来の安泰さも、全部いらなくて。
ただレギオンさんと、一緒に入られたら。
近寄って眺めれば、とても他愛無い願い事だ。この異世界トリップ現象とも言うべき事件が解決すると同時に、木っ端微塵になってしまうかもしれない――儚い、小さな願い事。
元の世界にはかけがえのない人がいない。
だから帰りたくない。
ずっと、この世界にいたい。
「……恐怖、なのかな」
彼女が泣き叫んでいた感情は、怒りではなくて恐怖。夢が覚めて願いが壊れてしまう、そのことへのどうしようもない、死にも等しいもの。自分でも、制御できないのかもしれない。
目覚めない寧々子さんを横抱きにし、レギオンさんは歩き出す。
少し工房で休んだら、というと、迷惑をかけられないと言い残して。
彼は、これからも彼女と一緒にいるのだろうか。
そもそもこの人は特定の領域、ダンジョンに存在しているはずで。世間一般でもそこにいるものと認識されているはずで、だからこうして一人の女性について旅をしてるとか予想外で。
きっと、本人もそんな予定なんてなかったと、思うけど。
どうしてそんな人が、自分の領域を出て旅をしているんだろう。
「……そろそろか」
ぴく、とレギオンさんの獣耳が震える。
何かの音を聞き取ったのかもしれない――そう、例えば足音とか。
するとレギオンさんは、寧々子さんを抱いたまま立ち上がって、僕に背を向けた。
「あ、あの、レギオンさん、どこに」
「……寧々子を、静かなところで休ませたい。それにあれだけのことをした、当分は人前に出ない方がよかろう。あれらは、ああまでしてもなお『死なない』のだからな」
「あ……」
先ほどの惨状を思い出し、言葉を失う僕に、レギオンさんはふっと笑みを向ける。
そのまま、彼は森の奥へと消えていった。
いつか彼女の願いが裏切られ、みんなが元の世界に戻った時、あるいは元の世界に戻ることができるとなった時、その時にはあなたや彼女はどうするつもりなんですか、と。
そんな、よくある問いかけ一つ、口にできないまま。
僕は、暗がりの向こうに遠ざかる背中を、見ていることしかできなかった。
■ □ ■
賢狼王レギオンにとって、それはただの人の子だった。
他愛もない、そのうち消えてしまう矮小な命。少しばかり変わっているとは思うが、いずれはこのネネ――寧々子という女も、気まぐれに去っていくのだろうと思っていた。
そのいびつさに気づいたのは、いつだったか。
彼女は、ひたすらにレギオンを求めた。
いろんな用途で、ひたすらむさぼるように求めてきた。
絶えずそばにいることを望み、手を触れ合わせることを願い、当然ながら肌を重ねることも乞われた。貪欲な人の子だと思っていたのは、最初のうち。次第にその狂気に気づいた。
――帰りたくないの。
寧々子は、息を吸うように口にする。
時折、ひどくうなされるように泣きじゃくる。
レーネにつく少し前も、そうだった。夜中、森の中で野宿していた二人。寧々子は発作を起こしたように泣きじゃくって、レギオンにすがりついた。だだを捏ねる子供のように。
「ヤなの、レギオンと一緒がいいの。ずっとここにいたいの、帰りたくないの。向こうに戻ったってわたしは幸せになれない、名前も知らない誰かと結婚なんてしたくないの、レギオン以外はいらないの、ここでずっと生きていたいの。あの世界は、好きだけど好きじゃないの」
好きだけど、好きじゃない。
自分を大事に思ってくれる家族がいて、親しい友人がいて。慣れ親しんだ文化、道具、いろんなものがあふれている。だから彼女は故郷である元の世界を『愛している』。
だけど、レギオンがいないから『大嫌い』。
ひどく歪な感情に、彼女は時々こうしてうなされる。
その度にレギオンは、彼女をすっぽりと抱きしめられる腕の中に包み込んだ。低くてキモチイイと彼女が褒める声で、大丈夫だ、元の世界になど帰らなくてもいい、と甘言を吹き込む。
そうして、寧々子は疲れて眠るのだ。
目が覚めれば、いつもの彼女がそこにある。
「ゆっくり、休めばいい」
心のままに、求め、この腕の中で休めばいい。
ひどく浅ましい願望を飲み込んだまま、彼は静かに笑った。
■ □ ■
いつか、賢狼王と呼ばれた自分は、あの細い首に呪いの牙を穿つだろう。わずかに溢れる甘い体液で舌を湿らせ、くすぐったがるだろうその四肢を抑えこんでいつになく貪るだろう。
そうして魂を汚染して、この世界に彼女を永遠に留めてしまう。
帰らないのではなく、帰れなくしてしまう。
――まるで、聖女を擁するどこかの国の、皇帝のように。