彼女に従う獣
ぴろんぴろん、と軽快なベルの音がする。
それをかき消すような咆哮が、僕の周囲に満ちている。
『今からそっち行くからなー、死ぬんじゃねーぞー』
ハヤイからの連絡メール。
『ひとまずよー、復活ポイントにテツのにーちゃんいるから、あと兵士っぽいゴツいおっちゃんらも何人かいるっぽいから、万一ぽっくりしてもたぶんだいじょぶだぜー』
気の抜けた、いつも通りの文面で向こうの状況が伝わる。戦い、となるとどうしても命と命のやりとりになる。まぁ、僕ら冒険者は死なず、各都市の決まった場所に復活する仕組みだ。
テッカイさん達が待ち構えているのは、その場所だ。都市の中心地にある神殿。見た目は教会というよりも外国の寺院のような、白い石を積んで建てられた小さい家屋。
あそこにゴツい、と言われる人が何人もいるというのは、さぞや圧迫感があるだろう。
せっかくだけどその保険は、どうやら使わずにすんだようだ。僕も無事、寧々子さんもレギオンさんも無事、ブルーは気を失ったままで、犯人も半殺しだけど死んではいない。
僕は現在位置をハヤイに送り、立ち上がることもしないで座り込んだまま。
そんな僕のすぐ前は、緑の世界に赤が着々と与えられ続けている。
寧々子さんがどこからともなくふらりと現れて、レギオンさん――だと思われる狼は、僕の前で殺戮に至る攻撃を敵に与えた。そこまでは、たぶん安心できるところだったのだろう。
問題は寧々子さんが、凍てつくような殺意を放っていることだ。彼女が軽い口調で淡々と下すその命令に、レギオンさんが静かに従い、命ぜられるままに行動していることだ。
人が騎乗しても問題ないだろうその巨体は、当然、四肢が有する武器も鋭い。
これは、殺戮だ。
そうなる一歩前だ。
遠くない未来、あと数分もしないうちに、きっと敵は神殿へと行くだろう。さっきまで余裕を見せていた男はもちろん、その仲間も。あと一振り、あと少しダメージを与えればいい。
それはそれでいいけれど、犯人は捕まえられるけれど、だけど。
――これは、何か違うのではないかと。
小さく歌い出した寧々子さん、それに合わせて踊るように身を捩る狼。彼女は、この状況を楽しんでいるようだった。わずかに身体を揺らして、響く音にリズムを刻むようにして。
「あ、あの、寧々子さん……」
「わかってるわ、そろそろ『イイ』感じだし」
うふふ、と僕の方をちらりと見て、再び視線を前に向けて。
「レギオン、ばくん、ってしていいよ」
――腕でも、足でも、どこでもいいよ。
寧々子さんの、どこか楽しそうな声に僕は息を呑む。
見上げた先で腕を組んでいる彼女、その表情が笑っているのが見えた。
彼女が見ているのは、ブルーを連れ去った張本人。ぐったりとして、息も絶え絶えなその腹に前足を乗せて、動けないようにしている。……そんなことしなくても、彼はもう動けない。
武器は遠くに弾かれた、防具も飾りのように意味が無い。
修理より買い直した方が早そうな惨状を、寧々子さんは更に加速させようとする。
ばくん、という可愛らしい言葉の真実なんて、考えるまでもなくて。
「れ、レギオンさん、それはダメですっ」
彼女の言葉に、慌てて僕はレギオンさんの腕にしがみつく。腕、というより前足か。今にも食いつくか切り裂くかしそうにしていたその動きは、ひとまず止まってくれた。
そのまま振り返ると、その先に寧々子さんがいるのが見える。
不機嫌を通り越した怒りをたたえた瞳が、僕を射抜くように見ていた。
「……どうして、止めるの?」
なぜ、どうして、それは敵なのに。
あれは悪いことをした連中で、ブルーを、いたいけな少女を連れさらった。要求だってもっともらしい内容だけど、外から眺めればワガママ極まるもの。薄皮剥ぐまでもなく犯罪者。
「なのに、どうして殺しちゃいけないの?」
「あたりまえじゃないですか……だって、確かに冒険者は死んでも復活できるけど、だからって殺したりとか、おかしいじゃないですか。そんなの、このまま縛ったりして捕まえればそれでいいじゃないですか。僕はブルーを助けたいと思っただけで、殺したいわけじゃない!」
にっこり、と微笑みを伴う言葉が、今はとても恐ろしい。
さっき、剣を目の前につきつけられていた、あの瞬間よりも。
薄紫の瞳が、僕を見る。口紅でも塗っているのか、赤い唇が今は笑みを作らない。
だけど、言った。
立ち上がりながら僕は、彼女は『間違っている』と。
確かに彼らは悪い人だったかもしれない、一度くらい死んでもいい程度に悪いことをしてきていてもおかしくない。だからといって、それを裁く権利なんて僕らには無いはずだ。
彼らの身勝手を、僕らの身勝手で捌くことは『同じ』だ。
向こうと同じ場所に、自分を落とすだけの愚行だ。
「そんな断罪を僕は認めません。この世界では、この世界でも認められません。だから兵士とか、そういう人がいるんです。生かして捕まえるから牢獄があって、裁判があって、償うことが許されている。そりゃ、それで反省するかは僕も知らない、だけど、だけど――」
息を吸って。
「だからって殺したりする、その権利は僕にはない。あなたにもない!」
「――だから?」
静かな声は、硬質的だ。
淡々としているし、金属音のように平坦で。
「ネネは、ネネの理論で動くわ。だってネネは、こういう連中がキライなんだもの。ただでさえキライなものに、もっとキライなものがくっついたの。だから我慢できないの」
「嫌いって、何が嫌いなんですか」
「向こうの世界、レギオンがいない世界、ここじゃない世界は、キライなの」
はっきりと言い切る寧々子さんの、その表情は無だ。
にこやかさもなく、穏やかさもない。
少し考え、適切な言葉を思いつく。
不気味――そう、とても不気味だった。
怒るでもなく笑うでもなく、どこまでも平坦な感情と声。好き嫌いなんて、人間の中でも特に感情が乗る要素の一つだと思うのに、今の寧々子さんにはそれがまったく感じられない。
「ネネは――わたしはね、ずっとずっと」
息を、吸って。
その音と、表情がぐしゃりと揺れて。
「ずっとずっとずっと、ずぅっと、ずーっと、この世界にいたいの……っ」
笑みを消したその叫びと、時を同じくして敵は消えた。振りはらわれた僕は、草の上を転がって身を伏せる。再び立ち上がった時、その時にはもう全部終わっていた。
牙が肉に食い込んで、爪が肌を切り裂いて、引き絞るようなか細い悲鳴と骨が砕ける嫌な音と、冒険者が『死んだ時』に添えられる効果音が軽々しい音色で短く鳴って。
「この世界を壊すやつはみーんな、キライ」
狼が食い散らした赤、それが彼女の白に染みこんでいった。