犬も喰わない大騒ぎ
「……どうしたのだ、あれは」
「わからねぇ、俺が来たらもうああだった」
「僕もいま来たばっかりで、何が何やらさっぱり……」
ブルーとテッカイさんが僕の横でしみじみと、目の前の光景を眺めている。
そこには大ジョッキで酒を一気飲みする黒髪美女、エルさんがいた。
いつの間にかヒロさんとレインさんが捕まっていて、ハヤイはアルコールがあるだけにうかつに近寄れずに困った顔をするのみ。ウルリーケはすっかり怯えて、弟の後ろに隠れた。
まぁ、わからないでもない、今のエルさんはかなり怖い。
つやつやストレートな髪はなんか乱れきっているし、目は完全据わってる。
ろれつもかなり怪しくなっていて、ところどころ何を言ってるか聞き取れない。べらんめぇ調をさらにべろんべろんにした感じと言えばいいのか、女性のものとは思えない音だ。
ばしんばしんとテーブルを叩き、エルさんは何かをまくし立て続けている。
「いやぁ……彼氏にフラレたねーちゃんでも、ここまでは」
なかったなぁ、と半笑いのハヤイの視線の先は地獄絵図そのものだ。
ヒロさん、泣きそう。
いっそだれかヒロさんにアルコールを注ごう、そして現実逃避させてあげよう。だけど助けに行ったら巻き添え確実、というか助けに行った末路が巻き込まれているレインさんだから。
うっすらと聞き取れる言葉から、僕なりに並び替えたあらましは、こうだ。
ザドーウィスさんから手紙が来たらしい。
内容は、公演を始めたという報告が中心の簡素なものだったという。これはいつものことだけど、とエルさんはいいつつ、その顔にはうっすらとだけど明確な不満が浮かんでいた。
手紙が簡素すぎて拗ねた、ということのようだった。
といっても簡素さに拗ねるところまでも、わりといつも通りのこと。
拗ねはするが、ちょっと飲んでほろよいになったら治ってしまう程度のものだ。
いつも通りではないのは、その内容。仕事のことと健康であることなどを記すだけだった手紙にはそれにとどまらず、なんと共演者の名前が何度か出てきていたらしい。
それは『海の歌姫』などと呼ばれる、第四都市在住の歌姫。
名前はユーフォリア。
「多幸感、か」
意味深なのだ、とブルーは歌姫の名前にそんな反応をした。その名前からして僕らの予想では彼女もまた冒険者なのだろう、と。枠組みとしては『傍観者』なんだろうと思う。
今まで共演者の名前なんてなかったのに、とエルさんはお気に召さなかったようで、喫茶店での仕事が終わってからずっと他所の店で飲みっぱなしのはしご酒していた……みたいだ。
そうでなければ、あんなに酔っ払うとは思えないし。
「冷たいの! なんか冷たい! どーせ歌姫がかわいいから、かわいいからーっ」
おそらくこの場にいる誰一人として見たことがない歌姫ユーフォリアを、勝手に美人だと決めつけて喚くエルさん。あー、とハヤイが何かを思い出したような顔をする。
「オレそういや、遠くからそのユーフォリア見たことあるわ」
「……っ」
「ふつーにアイドルって感じの美人だった」
その言葉に、エルさんががっくりと力を失う。
直後、響き渡るのは泣き声だ。ハヤイの一言で完全に何かが壊れ、ぶった切れてしまった彼女はもう止まらない。本人でも止められないだろうし、僕らではどうにもならないだろう。
更に絶望色をました地獄絵図に、僕は思わずハヤイを睨んだ。
「ハヤイ……」
「わりぃ」
軽い謝罪を返されても、今は気にしている余裕もなかった。
どうにかしないと近所迷惑かつ、店を閉められない。つまりエルさんはそのハヤイ曰くアイドル系の美人だという歌姫ユーフォリアに、彼氏を取られやしないかと嫉妬しているわけだ。
説得はおそらく無意味、むしろ火に油を注ぐ結果になるだろう。
これは最悪、工房に泊めるしかないのかもしれない。いくら治安もよくて平穏なレーネといえども、この状態の酔っぱらい女性を夜にひとり歩きさせるわけにはいかないし。
そうなったらレインさんにお任せするしかないか。
エルさんからはアルコールの香りしかしないから未成年では同室など無理だろうし、それ以前にウルリーケはすっかり怯えてるから、無理だ。運ぶのは流石に僕らが手伝わなきゃな。
すっかり困り果てていると、外から馬の蹄の音がした。
からから、と車輪が回る音がするから、馬というよりむしろ馬車だ。
この忙しい時に、とブルーが吐き捨てるようにつぶやく。
この時間に馬車となると、持ち主は概ね冒険者と言い切っていい。
当初の混乱も落ち着いたためか、ゲーム時代とは違うこの世界ならではの稼ぎ方を覚えたということなのか、冒険者の中には羽振りがいい人がそこそこ生まれてきている。
適当な都市に家を買うもの、ちょっとした会社を経営し始めるもの。
その中でも多いのが、ギルド専用の馬車のたぐいを購入する動きだった。
少人数なら定期馬車で事足りるけど、十数人か、それよりも数が多い――例えば『シロネコ運送』みたいなところだと、自前で馬車を買う方が安上がりなのだという。
まぁ、運賃も決して安いとは言えないし、自然な動きだ。これが僕らにとっては時に曲者とも言えて、というのも馬車でやってくるお客さんというのは基本的に大所帯なのだ。
この状況で――果たして、僕らは彼らをちゃんと持てなせるのだろうか。
だけど僕らの不安は、概ね良い意味で裏切られた。
「エル! あぁ、愛しの君よ!」
などと叫んで店に飛び込んできたのは、お久しぶりのザドーウィスさんだった。
服装はいつもどおりの民族調で、ただどことなくちょっと豪華な感じ。あちこちに綺麗な糸で刺繍が施されていて、舞台上にいる姿を想像したらさぞや映えるだろうなという感じだ。
ただ髪型はオールバック風というか、いつもはそのままにしてある長めの前髪を後ろへ流して綺麗な三つ編みに結っている。たぶんステージ衣装的なもの、なのだろう。
っていうかその格好で帰ってきた、のかな。
状況を飲み込めずに唖然とする僕らの前を通りすぎて、ザドーウィスさんはエルさんのところへ駆け寄っていく。そして椅子を倒す勢いで立ち上がった彼女を、力強く抱きしめた。
とっさにレインさんが姉弟の背を押し、あっち行こうか、と外へ連れだしていく。中学生の二人にはちょっとヤバイことになりそうだ、いや僕らもちょっと逃げた方がいいかも。
なんて思った直後、僕らの目の前で熱いラブシーンが始まった。
あぁ、うん、これはちょっとあの二人には――特にウルリーケには見せられないなぁ。
うっかりつけたドラマがなんかアレなシーンでいたたまれない、みたいなものに似た気持ちがこみ上げてくる。まるで何年も会えずにいたかのような再会シーンを始めるカップルは、抱き合ったまま何度となくキスをしていて、だんだんエルさんの身体が後ろへ、のけぞり。
「おいこらそこのバカップル! いちゃつくなら家帰れ!」
すかさずテッカイさんの声が響く。
ザドーウィスさんはそこでようやく場所と状況を思い出したのか、はっとした様子で居住まいを正し服の乱れもサっと直す。そういうところは、ちゃんとしている人なのにな……。
「すまない、久しぶりにエルに会ったものだから……」
「わかったから帰れ、金は……どうせお前明日も来るだろ、そん時でいい」
よな、と問われて頷き返す。
お店としてはよくないことだろうとは思うんだけど、エルさんが感動か感激かえぐえぐと泣き出したのを見てると、早く帰って安心させてあげてほしいという気持ちがこみ上げる。
かくしてはた迷惑なカップルは、手をつないで仲良く帰っていったのだった。
さて、僕らは残りの仕事をしよう。
なにせザドーウィスさん、一緒に仕事に向かってた関係者を工房の前に馬車ごと置き去りにしていった。何の説明もなしに店の前まで馬車を走らされたらしく、唖然としていた。
「えっと、こんな状況ですけどいらっしゃいませ!」
「テーブル、カウンター、お好きなところにどうぞなのだ」
テキパキと彼らを店に招き入れつつ、今日も夜が通りすぎていった。