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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第35話

巨神タヂカラオの巨躯を深く貫いた槍が、不浄な黄金の血を周囲に撒き散らしながら引き抜かれた。

 過酷な衝撃波がようやく止み、凄惨な静寂だけが戻った砦の広場。巨神は胸に穿たれた大穴を片手で必死に抑え、泥の上にどさりと膝をついていた。


その不気味な三つの瞳には、初めて自らに訪れた

「死」という未知の概念への、激しい戸惑いだけが浮かんでいる。


「……信じられぬ。我が肉体が……虫けらの牙ごときに……」

「仕留めたか……!?」


 ニニギが壊れかけた大楯を執念で構え直すが、その両腕は極限の疲労によって激しく震えていた。

 だが、息を呑むイワレビコがとどめの一撃を放とうとしたその瞬間、彼らの耳に、どこからともなく奇妙な「音」が響き渡った。


 それは風のように実体がなく、しかし脳髄の底までを一瞬で凍りつかせるような、透き通った絶対的な「理性」の響きだった。


『──そこまでだ。二人とも、即座に撤退するのだ』

「……ッ!? 誰だ!!」


 イワレビコが、槍の穂先を向けたまま鋭い視線を空のひび割れへと向けた。


『私の名はオモイカネ。タヂカラオ、これ以上の戦闘は戦力の無駄な損失に繋がる。ニギハヤヒ、十種神宝を即座に回収し、周囲の重力の乱れを修正せよ。……全軍、帰還命令だ』


 その透き通った声が脳内に響いた瞬間、ニギハヤヒの瞳から一切の戦意と感情が消え去った。彼は地上へと弾き飛ばされていた円盤を指先一つで冷徹に呼び戻し、再び静かに虚空へと浮遊してゆく。


「……了解した、軍師。命拾いしたな、地上の不浄なる人間どもよ」

「待てッ! 逃がすかよッ!!」


 ニニギが激昂して叫び、泥を踏み出そうとした。だが、背後のスイゼイが、血まみれの震える手でニニギの衣服の裾をがっちりと掴んだ。


「……止まれ、ニニギ。追うな……。視えないのか、あの空の異変が……」


 スイゼイが血走った目で指し示した上空。

 逆さ吊りの神殿の周囲に展開されていた白金の光の円陣が、複雑な幾何学模様を高速で描きながら、空全体を埋め尽くす巨大な計算の網へと変貌していた。


 イワレビコは槍を構えたまま、指一本動かすことができなかった。

 敵を逃がしたのではない。まるで、より巨大な冷徹な盤面の上で、神という「駒」を強引に手元へと戻されたような、おぞましい無力感。


『イワレビコ王よ。貴公の放つ海の血の最大出力、および黒鉄の義手の稼働特性は、今の一戦ですべて計測した。……次の戦場において、貴公たちの生存確率は零となる』


 脳髄に響くオモイカネの声は、嘲笑などでは断じてなかった。ただの、淡々とした絶対的な事実の宣告。


『つかの間の勝利の余韻を味わうがいい。それこそが、貴公たちがその矮小な命を散らすまでに抱ける、最後の希望だ』


 凄絶な光が収まり、神軍本隊は忽然と姿を消した。

 残されたのは、半壊した岩山の砦と、生き残った数百人の兵たちの、虚しい荒い呼吸の音だけ。

 ――確かに、勝ったはずだった。

 だが、イワレビコの左肩に繋がれた黒鉄の義手は、かつてないほどのおぞましい冷気に包まれていた。

 一万の人間軍を率いる王は、自らの足元に広がる影の輪郭が、以前よりもずっと深く、暗く世界を侵食し始めていることに、ただ一人気づいていた。

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